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次のフロアは、続きの通路がフロア内に入って階段になっていて、少し上の視点からフロア内を見渡すことが出来た。
そこは、前のフロアより大きな抽象画の作品が並べられていた。
全体を見渡すと、私は赤沢から離れて階段を降りた。そしてそのまま、ひとつの作品の前に立つ。
好きとか嫌いではなくて、感情が沸き立つような、そんな気持ちになる。
頭の中で言葉にするのはやめた。
素直に心の動きに感情を委ねる。
「これ、好きか?」
赤沢の声に意識が浮上する。
「好き…とかじゃなくて、心に響く。」
目は絵から離さずに、思ったままを口にする。何が心に響くのか、と聞かれても、説明できないものだけど。
「うん。わかる。」
赤沢の言葉に赤沢を見れば、赤沢の目が潤んでいるように見える。
「もしかして、赤沢が見たかった絵ってこれ?」
「うん。」
赤沢は絵に視線を縫い止められたみたいに、じっと絵を見ている。
「これって、有名な画家の人?」
「…どうなんだろう。少なくとも画家として一般的に有名な人じゃないとは思う。…今まで名前聞いたことなかったし。」
「そっか。」
私もまた絵に視線を戻す。
「この絵って惹かれる何かが描いてあるのかな?」
「実のところ、俺もこの絵が何かわかってはない。でも、惹かれる。」
赤沢の言葉に頷く。
「言葉で説明するのは難しいんだけど、感動するってこういうことかな、って思う。」
「そうだね。」
頷くと、また絵の世界へ入り込む。
まるで、私たちとこの絵だけの空間にいるみたいに、他の人の気配も囁くような声も感じなくなった。
身じろぎして、目が覚める。
自分の知らない天井に、どこだろうと一瞬思う。
隣の気配に視線を向けると、赤沢の寝顔が見えて、今の状況を思い出す。
結論から言えば、私は赤沢を受け入れることができた。
できたけれど、前みたいに体を預けることができたか、と言えば、違う、と思う。
どこが、と言われて具体的に説明は難しいけど、何となく、私たちの粘膜を隔てる薄い膜のような、そんな薄い隔たりが、まだ残っている。
あの最中も、どこか冷静な部分があって、赤沢に完全に身を委ねることはできていなかったと思う。
いとおしいと思う気持ちも間違いなくある。ただそれに水をさす冷たい何かがふっと過る。
2番目だと思って抱かれていた時は、そんなこと思いもしなかったのに。
ヒトはワガママなもの、なんだろうか。
赤沢の寝顔をじっと見る。
同じ絵を見て感動した。それが、赤沢を最終的に受け入れられた理由のようにも思う。
赤沢と価値観が似ていると感じることは今までもあった。あったけれど、あんなにぴったりと一致するような感覚は初めてで、私にはやっぱり赤沢しかいない、と思ったのだ。
だから、受け入れられたのだと思う。
だけど、やっぱりまだ心のどこかにあるシミは消え去ってなくて、完全に身を委ねることはできなかった。
この感覚は、この先赤沢と付き合っていくにつれ消えていくのか、それとも残ったままなのか。
…それはきっと誰にも分からないことなんだろうけど。
もし消えないとしたら、私はどうするんだろうか。
無意識のうちに、赤沢の顔に手が伸びる。触れた指が赤沢の熱を吸う。
「ん? 菊花?」
赤沢が薄く目を開いて、私を抱き寄せる。
触れ合う肌に、何だかこそばゆいようなくすぐったいような気分になる。
「菊花も寝ろよ。明日も一緒に…。」
寝ぼけているらしい赤沢の言葉は、途中で切れた。きっとまた眠りの中に戻ったんだろう。抱き寄せられていた手もいくらか力が抜けた。
抜け出すこともできたけど、赤沢に体を寄せて赤沢の体温をきちんと感じる。
この腕の中を居心地がいいと感じている。
それも、間違いのないことだった。
もう、小さな染みはないことにしてしまえばいい。
そうすれば、何も迷うことなく赤沢の腕の中にいられる。
…とても簡単なことのような気がするけど。
なかったことにすることができれば、赤沢に完全に身をゆだねることができるだろうか。




