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「…菊花はさ、いつから俺のこと好きだったの?」
私が返事をしないせいか、赤沢はものすごく言いづらそうにしながらも、今まで聞いてこなかったことを尋ねてきた。…今まで聞いてこなかったのは、赤沢なりの自重だったのかもしれない。
「いつでもいいでしょ。」
でも、素直に赤沢が私を好きになるより前に気になっていたと、なぜか言いたくなくて口をつぐむ。実際に確実に好きだと自覚したのはゼミが一緒になってからだった。けれど、そこに至る過程が実は長い時間をかけてだったのだと説明すると、私の気持ちが軽く扱われそうで嫌なのかもしれない。
「やっぱり、ゼミが一緒になってから、だよな。きちんと仲良くなったの、あの頃だし。」
「さあ。」
「もっと前?確かに菊花と関わり持とうとして1年のころの完全なる他人からはちょっとした知り合いに格上げされた気はするけど。」
どうしてそう断定してしまうのか、ちょっと気にくわない気はしたけど、好きになったと言えるのは確かにゼミで仲良くなった頃だけど、気になるようになったのがそれよりもっと前だということは間違いなくて、否定も出来ずに窓の外を見たままにする。
「1年のとき?」
もうこの話は放っておこう。
「入学前にどこかで会ってた?」
ドキリとする。
「え。記憶にない。悪い菊花。」
どうやらドキリとしたのはばれてしまったようで、ため息とともに肯定する。
「私は無関係だから。」
「無関係?…意味がわからん。」
「痴漢捕まえたことあったでしょ。」
ん?と赤沢が考え込む。
「2回?3回くらいあった気がするけど…いつ?」
面倒そうなことに3回くらい関わったと平然と言ってのける赤沢に、感心を通り越して驚く。…いや、こういう人なのだ。本当は。
「高2の夏休み。花火大会。」
そのキーワードに、赤沢が、ああ、と声を漏らす。
「同じ電車に乗ってた。」
「へぇ。…と言うか、知り合いでも何でもないのに良く顔を覚えてたな。」
「…近いところに立ってたから。」
やめてください、と震える小さな声が聞こえた時には、ドキリとした。
電車で痴漢なんて…満員電車に乗ることのない田舎ではマンガかTVの世界の話だと思っていたから。
でもその日は花火大会で、そしていくつか前の駅で急病人のため遅れていた電車は花火大会帰りの人で満員電車となっていた。その中で漏れ聞こえてきた声は、人のざわめきでかき消されそうに小さい声で、気づいた人は、そんなにいなかったのだと思う。
私も身動きの取れない車内で周りを見回してみれば、私の二人前の所に、俯いて震えているように見える女の子が見えた。
きっとあの子だ。
動こうと思っても、満員過ぎて身動きができない。
こんなところで声を出したところで、痴漢を辞めさせることはできるかもしれないけど、きっと犯人はそのまま逃げてしまう。
…それは、同じ女として、許したくはなかった。
私が身動きが取れない間にも、女の子は体を逃がしたいように身をわずかによじる。
もう、声を出すしかない。
そう思った瞬間だった。
「おじさん、何やってるの。」
ものすごく淡々とした声で、その女の子の近くで声が上がる。その声にその周辺がざわりとして、一人のおじさんが慌て始める。
「何もやってない!」
慌てたようなその一言が、むしろ自白したようなもので、周りの人たちの冷たい視線がそのおじさんに刺さる。
そして痴漢をされていた女の子は顔はうつむいたままだったけど、ほっとしたように体の力が抜けていた。
良かった。
見ていた私もほっとしていた。
「私じゃない!」
大声を出すおじさんに、その指摘した彼は、冷たいまなざしを向ける。
「じゃあ、警察行こうよ。無実って言うなら、証明して見せて。」
田舎の駅と駅の間は長いから、すぐには駅に到着しないし、この状況ではおじさんは逃げられない。このまま警察に連れて行かれることになるだろうか。
「何を言ってるんだ! 名誉棄損で訴えてやる!」
おじさんが彼を罵る。…とても醜い。素直に認めたとしても許されるものではないけれど、反省するどころか逆切れするなんて。
「…あの、私は警察には行きたくないです…。」
また小さな声で痴漢をされていた女の子の声が聞こえる。
…確かに、色々聞かれるのも辛いかもしれない。本人が訴えるつもりがない以上、警察がいて現行犯で逮捕されたわけじゃない以上、彼にも何もできないだろう。
「他の誰かを助けると思って協力してくれないかな。」
他の誰か。
彼の言葉は、残酷ではあるけれど、真実だろう。
警察に訴えられることのないこのおじさんは、きっとまたどこかで同じことを繰り返す。それが許されたとなれば、なおさらだろう。
「…はい。」
女の子の声は小さいはずなのに、その周辺にやけに響いた。
「何だお前!」
逆上したおじさんの手が彼女に向かって上がる。その手は、彼の手に遮られ、そしてその周りにいた大人の男性の手によって捕まえられた。
年端の若い背の低い彼に詰め寄られているときには尊大な態度だったおじさんは、明らかな大人が加勢したことで勢いをそがれたようだった。
「私はなにも…。」
うなだれたおじさんからこぼれた声は、力がなかった。
「警察で話して。」
そして、その大きくため息をついた彼が、赤沢だと知ったのは、大学に入学してすぐのことだった。
顔を見てすぐに思い出したわけではない。それは、私が高2のときに見た彼から、成長した体が顔が、すぐに一致するには至らなかったからだ。
サークルの熱心過ぎるというか、度を越したというか、の勧誘に困っている女の子二人組を助けている赤沢を見かけて、そしてそこから立ち去る赤沢を見ていて思い出した。
その凛とした立ち姿に、高2の時のあの出来事が重なった。あのおじさんを大人の男性と一緒に電車から降ろすあの姿。
同じクラスではあったから、数少なくはあるけど専門の授業の時に顔を見るチャンスはいくらでもあって、あの彼が赤沢だと確信するのにはそれほど時間はかからなかった。
それに気づいてからは、赤沢のことを気にはしていたように思う。
赤沢は、理不尽だと思うことを許せないたちなようで、それからも、誰かを助けては感謝される姿を見ることがあった。
それでも、ほのかな憧れ似た、恋とは違う気持ちだった。…赤沢の隣に立つ女の子が、あまりに自分と真逆すぎて、恋心を抱くのは無謀だと思っていたのかもしれない。
…その時点ですでに、好きだったと言っていいのかもしれないけど。それは憧れに似た気持ちで、強い気持ちではなかったから。…2番目でいいと、馬鹿なことを言い出すような気持ではなかったから。




