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「菊花を最初から大切に扱えって話なの!」


 空がドン!とジョッキをテーブルに置いた。

 “最初から”

 ジョッキを置く音にびくりとするのと、その空の言葉に、ハッとする。


「やだ菊花!ごめん。今はね、赤沢が菊花を大切にしてるってわかったから!わかってるけどさ、文句の一つくらい言わせて。」


 空が私の反応をマイナスのほうにとったらしく慌てる。


「うん、空の気持ちはわかってる。」

「どうかした?」


 秋が枝豆を口に入れると、気遣わしげに私を見る。


「ううん。音にびっくりしただけ。」

「いやいや。何もないってことはないと思うけど?」


 何かを気づいたらしい秋は追及を緩めてはくれそうにない。


「…変な話、私、最初から大切にしてもらいたかったんだな、って。」


 これくらいは言葉にしてもいいかと思って口にする。


「そんなの!当たり前でしょ!」


 秋が怒る。


「私が言い出したことだったし、あのときはどういう扱いでもいいと思ってたはずなのにね。」


 そう。赤沢の側にいられれば、どんな扱いでもいいと思っていたはずだった。

 でもきっと、心の奥では、大切に扱われたいとずっと願っていたんだろうと思う。何だか女々しいし、自己中心的ではあるけど。


「好きな人に雑に扱われて喜ぶなんてMくらいでしょ。普通は大切に扱われたいもんじゃないの。」


 秋の言葉に、空も頷く。


「普通がどうかは知らないけど、私は大切に扱われたいと思うよ。でも、そもそも秋の普通って普通じゃないよね。」

「一般的にはそうじゃないのって意味で使った!」

「何だ自覚あるんだ。」

「ちょっと空!」


 急に始まった秋と空の掛け合いに、ついクスリと笑いが漏れて、ちょっとシリアスだった空気が和らぐ。


「菊ちゃん、もう後悔ばっかりしてなくていいんだよ。今、大切にしてもらえてるんでしょ?」


 空の優しい視線に、迷うことなく頷く。

 確かに間違いなく、赤沢に大切にされているとは思う。


「これで菊ちゃんが首振ろうもんなら血の雨が確実に降ったね。」


 物騒なことを言いながら、秋の表情も柔らかい。

 二人が本当に良かったと安心してくれているのがわかる。

 …あの直後は赤沢にとても怒ってたけど、結局は赤沢と私の問題なんだから、と怒りを納めてくれた。

 私だって赤沢に怒ったりしているわけではなかったはずだった。でも、私の心の奥が、赤沢を完全に許せていない。…それが、最初から大切に扱ってもらえるはずの状況だったのに、それが赤沢の嘘で扱ってもらえなかったのだということがわだかまりの…赤沢を信じきれない原因の一つなんだと今気づいた。

 この心の中の小さな染みに気づいてから、ずっと赤沢に嘘をつかれたことだけが原因なんだと思っていた。


「私だって、もう赤沢もげろ!とか思ったりしてないからね!」


 何かを感じたのか、秋が慌てたように追加する。


「わかってるって。」


 私が笑うと、秋がほっとしたように頷いた。

 今日は久しぶりに3人で飲もうと個室のある飲み屋に集まったので、多少声が大きくなっても人目は気にならない。


「菊ちゃんは本当に心広いよね。」


 ビールを一口飲むと、空が感心したように私を見る。


「そんなこと、ない。」

「そんなことあるよ。ね、秋。」


 空の視線が秋に向く。


「あるよ。…菊ちゃんって本当に怒らないよね。」


 この二人と仲良くなったのはゼミに入る前の2年の終わりくらいのことだったから、私は“怒る”ことを辞めた時期で、二人に怒った姿を見せたことはないかもしれない。


「怒るのってさ、エネルギーの無駄みたいな気がしない?」


 そう思ったのも、怒るのを辞めた理由の一つだった。


「エネルギーの無駄とか考えたこともない!」


 空が、ほー、と高い声を出す。…大分酔っぱらってきたなぁ。空がその声を出し始めると、酔いが大分回ってきたというサインなのだ。


「私もないな。…確かに言われてみれば無駄な労力のような気はしてくるけど…。いや、でも、怒らないとたけるが調子に乗るし…。」


 ぶつぶつ秋が言っている“健”は、彼氏さんのことだ。押し切られるように付き合い始め、すぐ同棲して、割とすぐに結婚の話が出るかと思っていたけど、今のところまだ結婚の話は出ていないみたいだ。


「私は、の話だからね。」


 みんながみんな同じではないと、母が言っていた言葉は、その通りだと思う。


「聖女がいるよ!」


 空の声が高い。


「いないから。」


 私が苦笑すると、秋も苦笑してスマホを取り出してどこかに連絡を取った。


「すいません。空を回収に来てください。」


 その言葉で、空の彼氏さんに連絡を取ったのだということがわかる。


「聖女の信者よ。迎えが来るよ。」


 スマホを鞄に片付けると、秋が空の手に持ったジョッキをウーロン茶にすり替えた。


「そうだよ。私は聖女の信者だよ。聖女よ、私にもお恵みを~。」


 …完全に酔っぱらってる。そんなに飲んでたっけ? と思ってジョッキを見れば、気づかないうちに3つ並んでいた。あれ、いつの間に。空はそんなに強い方ではない。


「飲みすぎだね。」


 同じところで視線が合った秋が苦笑している。


「聖女とか言い出すとか、酔ってなきゃないね。」


 …私が聖女でいられるんなら、世の中ものすごく平和だと思う。

 小さなわだかまりを完全に許すこともできないでいる心の小ささで聖女とは呼べないだろう。


「さて、空の迎えが来たら解散する? 菊ちゃんは家に帰るんでしょ?」

「うん。赤沢が送ってくれるって。」


 そう言ってからLineを赤沢に一通送る。


「ほほう。ラブラブですな。」

「同棲してる人に言われたくないな~。」


 苦笑しながら、“ラブラブ”についてはスルーした。

 “ラブラブ”と、今の状態を言っていいのかもしれない。多分。おそらく。

 私と赤沢の関係の中では、間違いなく“普通の恋人関係”に近しいと思う。

 きっと私のわだかまりがなければ、この状況に普通に浮かれていたのかもしれない。

 …きっと誰も答えは知らないけれど。

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― 新着の感想 ―
[一言] 確かに、赤沢くんが最初から自分も好きだと言ってくれていたら、これまでの辛い思いも別れるという決意も必要の無かった事ですものね。 両思いだという嬉しさだけではない複雑な気持ちになるのも、しょう…
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