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「菊花はもっと怒っていいんだけどな。」


 赤沢の言葉には、自嘲とともに後悔がにじんでいる気がした。


「…怒っても、何も生まないから、ね。」


 思い出すだけで、苦々しい気持ちが涌いてくる。


「唐沢助教授、か?」

「何で?」


 まさか今思い浮かべていることを言い当てられるとは思わなくて、本当に驚く。これを赤沢が知るはずもないという気持ちもある。


「菊花が怒ってるの見たの、あれくらいしかないからな。」


 …確かにあれで、私は怒るだけが何も生まないと身に染みたのだけど。


「どうして知ってるの?」


 私が唐沢助教授に怒っていたのは、大学1年の終わりの頃だった。 ただ、誰かに言った記憶はない。怒ってるのも誰かの前で明らかにしたこともない。誰にもわからないように動くしかなかった。


「悪い。隠れて見るつもりはなかったんだけど、空き教室で唐沢助教授に詰め寄ってるの見た。」


 その場面をすぐに思い出す。思い出すだけで気分が悪くなるけど。


「そう。他にも見てた人っていた?」

「いや。俺だけ。同じ並びの教室に忘れ物して通りかかったら、話し声がして、見たら菊花と唐沢助教授の二人が話してて。」

「そう。誰にも言わないでいてくれてありがとう。」


 あの話が広まっていたとしたら、自分の起こした行動を後悔するしかなかっただろう。


「人に言うような話じゃない。聞くつもりはなかったけど、唐沢助教授と女子二人きりは不味い気がして、動くに動けなくなってそのままいた。あいつセクハラ発言多かったから。」

「そっか。心配してくれてありがとう。」

「いや。話はすぐに唐沢助教授に切り上げられてたから、いる意味はなかったかもな。俺はその場に残されて悔し泣きする菊花を慰めることも出来なかったし。…知られないほうがいいんだと思ったから、俺が黙っておけばいいだけの話だし。」

「そうだね。そうしてくれてありがたかったかも。もし赤沢が出てきたりしたら、その時の私は後悔するしかなかっただろうし。…今聞いても迂闊だな、と思うけど。」


 それでも少し心が穏やかでいられるのは、あの出来事にある意味決着がついてるからだ。


「唐沢助教授が今も大学で働いてたら、こんな風には思えなかったかもしれないけどね。私が大学にハラスメントを訴えた時にはまったく動いてもらえなかったけど、誰かがきちんと証拠をもって訴えてくれたから、唐沢助教授は処分されることになったし。…その勇気のある誰かがいてくれてよかったと思うよ。」


 私が訴えた時には、証拠がないということで大学には相手にもしてもらえなかった。その勇気ある誰かがいてくれたおかげで唐沢助教授は処分を受け、結局は自主退職をしたと聞いている。


「そうだな。あいつ本当に何がしたかったのかわからない。別に直接体を求めるわけでもないけど、女子が嫌がる態度で嫌がる話ばっかりして。独身だし、恋愛するのは自由だとは思うけど、あれで引っかかる女子がいるとは思えないけど。何人か分のデータ一応聞いたけど、同性としても気持ち悪いだけだった。」


 …え?


「データ?」

「あ。」


 小さい声を出して、赤沢が口をつぐむ。


「…もしかして、訴えてくれたのは、赤沢たち、なの?」


 赤沢の横顔を見つめる。赤沢がフッと力を抜いた。


「俺にできることって何だろうって思った。あいつがセクハラ発言してたのは、それこそ学部生ならだれでも知ってることで、気持ち悪い奴、って片付けるだけだった。それで、学校に来れなくなるような被害者が出てるとか、思っても見なかったし。でも、事実を知ったら、気持ち悪い奴、で片付けたらダメなんじゃないかと思った。」

「…協力してくれる人って、なかなかいなかったんじゃないの?」


 本当に困っている子は、それこそ唐沢助教授を拒否できないでいた子ばっかりだったと思うから。


「最初は、みんな面倒だって言ってたけど、現在進行形で困ってる女子は、自分が矢面に立たなくていいなら、って協力してくれた。」


 あの勇気ある誰かが赤沢だったのだと聞いて、心から感謝の気持ちが沸いてくる。


「ありがとう。赤沢のおかげで新たな被害者が出ずに済んだと思う。…私は、一人を守ることしか考えてなかったから、そんなこと思いつきもしなかった。」


 少し考えれば思いついたのかもしれない。でも、あの時の私は思いつきもしなかった。


「田村…とは連絡とってるのか?」


 この田村は私を指してはいない。


「佳奈ちゃんは、今大学生してるよ。医療系の大学に入り直したんだよ。」


 佳奈ちゃんは地元が同じわけではないけど、同じ苗字だからということで大学で一番に仲良くなった子だった。

 その佳奈ちゃんと唐沢助教授の出来事が私に怒ることが何も生まないと悟らせてはくれた。

だから今でも、どうにか出来なかったのかと思うことがある。終わってしまったことをどうにもできないことはわかっているけど。


「そっか。新しい大学に入るくらい元気になったんだな。」

「そうだね。」


 佳奈ちゃんは唐沢助教授にセクハラを受けていた。それは、直接的な体のではなく言葉と態度だけだったけど、佳奈ちゃんの精神を病ませるには十分なものだった。

 唐沢助教授のセクハラに耐えかねた佳奈ちゃんは、1年の後半は大学に来なくなっていた。うつ病になって大学に行けなくなったと聞いたのは、1年の終わりのことで、その原因が唐沢助教授のセクハラだと聞いた時の怒りといったらなかった。


 唐沢助教授は、40そこそこの、どちらかと言えば若い先生だったから、大学に入学したばかりの学生たちには話しやすいという理由で慕われていた。

 …最初は。

 その言葉がセクハラを含むものだと気付いて不快感を感じた学生は早々に唐沢助教授から離れていった。

 私は先生だからと無下にも出来ずに離れるのが遅れた方ではあったけれど、それでも先生には忠告までして離れた。


 その言動を軽く流せる人もいるけど、その言動を嫌だと思う人もいるのだからやめてくださいと。その時の私には、それを大学のどこかに訴えるような考えは思い付かなかった。

 それは、私が不快に感じるだけだと思っていたから。

 そして、その忠告が全く意味がないと気付いた時には、佳奈ちゃんは大学に来れなくなっていた。

 その事実を佳奈ちゃんから聞いた後、私は大学に訴えた。


 訴えはしたけれど、訴えたところで証拠がないと相手にもされないし、佳奈ちゃんのうつ病が治るわけではなかったし。その怒りを唐沢助教授に向けたけれど、うつ病になった佳奈ちゃんのことをひどく言われただけで、何も変えることはできなかった。

 そして、1年の休学を経て、佳奈ちゃんは大学を辞めてしまった。


 数年はアルバイトなんかをしながら過ごしていたけど、一昨年、佳奈ちゃんはアルバイト先での出来事をきっかけに医療に関わる仕事がしたいと一念発起して医療系の大学に進学した。

 今でも完全にうつ病が治ったのだというわけではないみたいだけど、調子を見ながら無理をしないように過ごしていると聞いている。

 残念ながら遠く離れた大学に進学してしまったので、佳奈ちゃんにはあまりあえなくなったのだけど。


「本当にありがとう。佳奈ちゃんもね、訴えてくれた誰かに感謝してたよ。」

「いや。大したことはしてないから。」


 そう言って首を振る赤沢に、尊敬を覚える。

 きっと、訴えに協力してくれた子たちにも影響が出ないように、大っぴらにはしてこなかったんだろう。

 赤沢はやっぱりこういう人だったのだと、再確認する。

 私を2番目にした赤沢を信じたくなかったのは、赤沢がそんなことをするわけがないと思っていたのもあった。

 赤沢は清廉潔白という言葉が似あう人だと思っていたから。


「赤沢は、やっぱりすごいね。」


 私の言葉に、赤沢は息を吐く。


「尊敬されるようなところ何もない。弱虫で卑怯なヘタレだよ。」

「ううん。弱さも赤沢の一部なんだとは思うけど、赤沢は弱いだけじゃないよ。強いよ。人を助ける強さを持ってるよ。」


 私の赤沢像が間違っていなかったのだとわかって、ふいに嬉しくなる。

 赤沢を好きになって、良かった。

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