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「菊花、電話鳴ってない?」


 赤沢に言われて、マナーモードにしていたスマホがバイブで振動していたのだと気付く。

 スマホを取り出してみれば、有馬の名前が表示されていた。

 特に遅く帰ったところで、高校生でもあるまいし門限が定められているわけではない。今日だって、大学の友達に会うと言い置いて出かけてきていた。飲みになるかも、という言葉もつけて。

 その中での有馬からの電話は、達哉君から情報が伝わった可能性が高いだろう。有馬が言うことなんて分かりきっている。来るつもりか、早く帰れか。


 この疲れた頭で有馬とのやりとりをするなんて、完全に自滅行為だ。ただでさえ嘘をつけないかもしれない状況で有馬とのやりとりに力をそがれたら、赤沢を安心させることなんてできるわけがない。

 私は電話が鳴り終わるのを確認すると、話して帰るだけだから心配しないでとメールをしてスマホの電源を切った。有馬は大騒ぎかもしれないけど、疲れて帰ってから相手する気力があるとも思えないけど、今の時点での最善はこれだと思うから。


「電話でなくていいのか?」

「電車の中だし、急用でもないから。」

「そう。」


 赤沢とは目を合わせないようにしてまた窓の外を見る。

 暗闇が続く景色に、時折家の明かりが現れる。

 その明かりが幸せの象徴みたいな気がして、電車に揺られている私とは対照的だなと思う。

 ふと、硝子に映る自分の表情に気付いて、いけないと気を引き締める。

 この顔じゃ、単なる失恋した人でしかない。

 私は今、幸せな恋をしているはずなんだから。


 ぐっと奥歯をかみしめると、無理やり口角をあげる。

 …いや、失恋した顔じゃなければ、どんな顔でもいいか。無理やり笑う必要はない。

 冷静に、冷静な顔をして赤沢と対峙すればいいんだ。

 硝子に映る自分の顔から余計な力が抜けた。

 …もうあとは、英気を養うだけだ。私は目を閉じると、寝たふりをした。これなら何を話しかけられても、返事をする必要はない。


「菊花?」


 赤沢に名前を呼んでもらえるこの時間をかみしめて過ごそう。


「寝た、のか。」


 少し間があって、ふわりと膝に暖かさを感じる。

 寝たふりをしている以上目をあけられはしないけど、ふいに与えられたその優しさに心が揺さぶられる。

 もっとこの時間を過ごしたかった。

 



 あのあと、私は寝てしまっていた。疲れていたところに心地のよい揺れと適度な暖かさ。寝るなという方が無理だった。

 起こされたのは駅に着く直前で、ぼんやりした頭のまま赤沢の後ろを歩く。


「ここ。」


 と赤沢が止まったのは、駅から路地に入って数分も歩かない場所だった。


「近いね。」


 近いとは大学生のときに聞いてはいたけど、行ったことはなかったから。母親が人を入れるのを嫌うと言って、誰も連れていったのを見たことはなかった。

 それを今思い出したんだけど。


「私入っていいの?」

「何で?」

「お母さん、家に人入れるの嫌なんだよね?」

「ああ、あれ嘘だよ。ああでも言わなきゃたまり場になるだろ。」


 …嘘か。まあ確かに大学の駅にこれだけ近かったら、家が遠い誰かが常宿に指定してもおかしくないかも。一人暮らしの狭い家じゃなくて一軒家の方が広々してるだろうし。

 赤沢が鍵を開けて、私に入るように促す。


「お邪魔します。」


 誰もいないとわかっていても、小さな声になってしまうのは、後ろめたさがあるからだ。


「ただいま。」


 誰もいないだろうに律儀にそう言って家に上がる赤沢に、きちんとしつけされたんだろうな、と思う。お箸の使い方も上手だし、食べ方もきれいだし。

 そこまで思って、他のことを思い出す。赤沢の母親って…


「あれヒデ、今日はご飯要らないんじゃなかったっけ?」


 奥の扉が開いて顔を出した人と目が合ってぼんやりした頭が覚醒する。

 赤沢の母親ってクリニックで働いてるんだったよね?!

 夜勤ってない!


「やだ、ヒデ、だあれ?」


 明かりに照らされている瞳が煌めいているように見えるのは気のせいだろうか。声も心なしか弾んでいるんだけれど、何だろう息子の悪いところを見つけて楽しむ趣味があるお母さんなんだろうか。


「お!お邪魔してます。あの、えーっと大学…。」

「俺の彼女。後で降りてくるから先に話させて。ご飯はいらないから。」


 焦った私の言葉を遮った赤沢の紡ぐ言葉が理解できない。


「はいはい、ごゆっくり。」


 私が階段へ引っ張られていくのと同時に奥の扉が閉まる。


「あ…かざわ?」

「この階段急だから気を付けて。」


 そう言われれば、階段に上ることに集中せざるを得ない。


「はいって。」


 促されるまま開いた扉に進む。

 パタンと閉じると同時に部屋に電気がつき私の体が強く抱き締められる。


「赤沢?」

「菊花、好きだ。」


 耳元でささやかれる声に鼓動が跳ねる。赤沢が意図したかは知らないけど、私たちの身長は同じくらいだから、赤沢の顔の位置と私の顔の位置は近い。


「…何?今更惜しくなったの?」


 前に空から聞いた佐竹くんとの恋の結末を思い出して、つい皮肉を言ってしまう。20年にも及んだ恋を諦めた空。空が離れようとしてようやく自分の恋心に気付いた佐竹くん。結局佐竹くんは新しい恋を始めた空に恋の終わりを告げられたのだけど。

 赤沢に好きだと言われたのは素直に嬉しい。でも結婚を決めたはずの本命さんのことを思うと、心が重い。

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