12
「菊花?」
達哉くんの声に我に返る。
「何?」
「僕ならそんな顔させない。」
…勘がいいな、と、きっと達哉くんが感じてほしかっただろうこととは別のことを思う。
何と言うか、達哉くんとは距離が近すぎるのだと思う。私の中では完全に弟の扱いだった。男ばかりの兄弟にもう一人増えたくらいの。
だから今さら恋愛対象として見ることができない。
「時間がかかってもいいから、今答えはいらないから。今はまだ弟みたいだって思われてるの、わかってるから。」
…本当に勘がいいな。
「何年片想いしてると思ってるの。」
さらに読まれた思考に苦笑する。
「達哉くんインプリンティングされてるだけだよ。」
うちの近所は男率が高くて女の子が私くらいしかいなかった。だから、一番目にした女の子は間違いなく私で、そのせいで勘違いしちゃったんじゃないかと思う。
それにうちのシスコン兄たちにもきっと私に対する変な概念を刷り込まれていたはずだから、余計になのかもしれない。
「それは違う。菊花以外に欲情しない。」
…ああ、若いって…。ストレートな物言いに、流石に私の顔が赤くなるのが分かる。
「達哉くん、ここ電車の中だから。」
小さい声のやり取りだし、乗客もほとんどいないけど、それでもあまり電車の中で交わされる会話ではないと思う。
「仕方ないよ。言わなきゃ菊花は勘違いだって結論づけたでしょ。」
いたずらが成功した時のように嬉しそうに笑う達哉くんに、複雑な気分になる。
達哉くんが私に恋愛感情を向けていることに。
私が赤くなったのは、子供だと思っていた相手から性的な表現がされて驚いたせいだけど、やっぱり達哉くんとは結びつけることができないことに。
…達哉くんはどこまで行っても私の恋愛対象にはなりそうな気がしない。
…これが変わることってあるんだろうか。
赤沢のことを意識したのは、ゼミが決まる前だった。
希望のゼミが同じらしいと仲良くなった空に、彼も希望だしたらしいと教えてもらって、“あ、彼だ”と思った。
人数のそれなりにいる学部の中で、知り合いになる人数など限られるけど、必修が同じ授業ばかり取っていれば顔は知ってはいるし、見れば分かる。
それでもその時赤沢のことを見て彼だ、と思ったのは、その凛とした佇まいに既に惹かれていたからなのかもしれない。
でも、それまでもふわっとした可愛らしい彼女がいるのを見たことがあったから、私は恋愛対象にはなれないと最初から諦めていた。
だから、単に気になる相手っていうだけだった。
ゼミが同じになって、会話の中身やタイミングがしっくりすることを知って、時々空のことを一緒になってからかって、居心地のいい空気感にほっとして、単なる気になる相手ではなくなるのにそれほど時間はかからなかったと思う。
ただその恋心は小さく小さく心のすみに追いやっていた。誰にも気づかれないように。
それは、赤沢がバイトの忙しさが理由で彼女にふられてしまっても次も同じようなふわっとした可愛らしい彼女がその横に収まることを理解していたからだ。
赤沢は高校生の時に父親が亡くなり母子家庭になったために、バイトをするのが当たり前だと思っていた。だから彼女よりもバイトを優先する。そしてそれに耐えられなくなった彼女にふられてしまう。
私ならそんな当たり前のことで赤沢を振ったりしないのに。
私は自分のわがままで家賃と生活費の一部を稼がないといけなくなっただけけど、私の自由のためには仕方がないと思っていたし、赤沢がバイトをしなきゃいけない理由は十二分に理解できた。
…そう心のすみで思っているだけだったんだけど。結局はばれてしまっていたんだけど。
私に向いた視線とため息に意識が浮上する。
「もう考えないでいいよ。」
達哉君のそれが赤沢のことを指すのだと気付いて、どこまで知っているんだろうと思う。でも、私の家族である兄や義姉がその情報を簡単に漏らすとは思えない。だからきっと、私がフリーになったという話を知ってるだけなんだろうと結論付ける。
「ボーっとしてただけだよ。」
私の言い訳を、一応達哉君は受け入れてくれたみたいだった。
私の気持ちを理解しているのか、あのあとの達哉くんの話題は大学であった面白い話だとか変な先生の話だとか、気の抜ける話だけだった。
「菊花はバスで帰るの?」
最寄り駅に近づく景色が見えてくると、達哉くんがそう問いかけてきた。
達哉くんの家はまだ駅に近くて(それでも15分くらいだけど)歩くのはうちほど苦ではない距離だ。
「そうだね。まだ時間はやいし、バスあるから。」
たとえ待ち時間で家に帰りつきそうだとしても、今日は何だか精神的に疲れたし、歩くよりぼーっとバスに揺られてたい。
「じゃ、僕もそうしようかな。」
…そうか。
「そ。」
もう考えるのに疲れて考えるのは放棄した。
「そ。せっかく菊花と会えたからね。」
「そ。」
私の変わらない返事に達哉くんが苦笑する。
「ひどいな。ま、それが菊花だよね。昔から僕の愛情表現を見事にスルーしてたしね。」
…そんなことあったっけ?
全く見当がつかない。申し訳ないぐらいに。
「まあ、あの3人の愛情表現も見事にスルーしてたくらいだから、気付かなくても仕方ないんだと思うけど。」
…確かに、あの兄たち以上の愛情表現でもされなければ、気づかないかもしれない。
…変なところで虫除けされてたのかも?
もしかして私がリア充になりきれなかったのは、あの兄たちの愛情表現のせいで仄めかされても気付けずにいたりしたのかも…?
…そんな勘が悪いとは思ってもなかったんだけど…?
…いや気のせい気のせい。私にアプローチする人なんてとりあえず今の今まで皆無だった。
達哉くんは弟カテゴリー過ぎて、兄たちと同列に見てたのかも…。それだと何でもスルーしちゃうよね…。
「菊花降りよ?」
「うん。」
先に立った達哉君を追いかけるように、電車を降りる。
1時間ほど前に感じた気温よりも少し肌寒くて、トレンチコートの襟を合わせる。
「菊花。」
どこか弱々しい呼び掛けに、いろんな意味でまさかと思う。
「菊花、誰?」
怪訝な顔をした達哉くんが、声のした方向を見ている。
私が呼ばれたのは間違いないらしい。
「菊花。」
どこかかすれた声は、先程よりも力を持っていた。
改札とは反対方向を見れば、そこには赤沢が立っていた。




