あなたは勉強なんてしなくていいの
「……デビュタント?」
ヴィヴィアンは、母の言葉をそのまま繰り返した。
デビュタントとは、貴族の令嬢が一人前の淑女として認められる為の催しである。
この国では、王宮の広間にてデビューする十四歳以上の令嬢の名が呼ばれ、ダンスを披露することになっている。
「そうっ! ヴィヴィちゃんのデビュタント! ヴィヴィちゃんのドレス決めましょう! ママねぇ、着てほしいのがあるの!」
これとこれ、あれとそれ、どれがいい?
カタログにあるドレスをあれそれと指差す母に、ヴィヴィアンはちょっと引き気味だ。
母はヴィヴィアンが大好きだ。いや、愛してる。兄のことも姉のことも愛してるし、彼らの子供である孫達のことも愛してる。
なんというか愛が溢れて止まらないような女性なのである。
そんでもって彼女は可愛い子供達を着飾ることが大好きな人だ。
「……デビュタントって今年しないとだめ?」
「だめよぉ、ママの楽しみを取らないで?」
いつまでも少女めいている母である。
一人が嫌いな母は、いつも誰かと一緒にいる。今日は(というか今日も)ヴィヴィアンが捕まった。
ヴィヴィアンは自分のデビューのことを考えると気が重い。
ダンスが苦手なのだ。
というよりも、ヴィヴィアンには得意なことがない。びっくりするほどに、できることが少ない。
甘やかされた弊害だろう。兄や姉のように、秀でたものを持っていない。
可愛いから何もできなくてもいい! と思っていた三年前までの自分が恥ずかしい。
一年間だけ通った女学校では、ヴィヴィアンのあまりにもな『出来なさ』に落ち込んだものだ。
だけど、クラスメイトやルームメイトに恵まれたおかげで他人の優しさというものを知れた。
たったの一年間だったが、とても有意義な期間だった。あと二年いたい。彼女達と一緒に卒業したい。
そう願ったが、許されなかった。
その代わりに、と言っていいかは不明だが、ヴィヴィアンは家庭教師に勉強を教わっていた。
それも、今はもうなくなってしまったので、現在は自習学習だけであるが……。
覚えが遅いので進みも遅いが、確実に進んでいると思う。
我儘なところも、なくなってきたかな? と思うし、『最悪な未来』からは遠ざかっている、と思う。
そのおかげか、エドガーはヴィヴィアンに優しい。
先日のお茶会では、嫌いなヴィヴィアンに話しかけてくれた。
あの日、拾った本は全ての内容を読む前に消えてしまった──文字通り、消えたのだ。
ヴィヴィアンの手の中から、端の方から光の粒子になっていくように消えた。
……あれからヴィヴィアンはとても変わった。
『ごめんなさい!』
カトリーナへ謝罪は手紙を書いて、両親を介して直接頭を下げた。
『怒ってないわ。それに、あなたは可愛らしかっただけだもの』
彼女は全く怒っていなかった。
目を細めてくすくす笑うカトリーナに、ヴィヴィアンを蔑む色は含まれていなかった。
仲直りしましょう、と手を差し出す彼女はあまりにも綺麗で、ヴィヴィアンは敗北を悟った。
そして、こんなに素敵なのだから、エドガーが彼女のことを好きになるのも不思議ではないと思った。
ヴィヴィアンの勉強は予定通り進まないし、相変わらず好きではないけど、こつこつ続けていればいずれ……という想いを糧に頑張っている。
だけど、そんなヴィヴィアンを母は度々邪魔をした。
『可愛いヴィヴィちゃん。あなたは勉強なんてしなくていいの』
『お菓子食べる? それとも遊びに行く?』
『ドレスを買いに行きましょう〜!』
父と兄に母のことを相談しても、本気に取ってもらえず、あろうことか『勉強なんてしなくていい』と母と同じことを言う。
……しかし、姉だけはヴィヴィアンの話をきちんと聞いてくれた。
このままでは嫌だと言うヴィヴィアンの話を一緒に真剣になって考え、女学校に行きたいと言う妹の味方になって両親を説得してくれた。
姉が首席で卒業した女学園には学力が足りずに入れなかったことは残念だが、ヴィヴィアンの大きな一歩だった。
なのに、両親はヴィヴィアンの気持ちを分かってくれない。
『ヴィヴィちゃんが勉強なんて……どうしたのかしらぁ?』
一年の女学校生活を終え、家庭教師にヴィヴィアンが勉強を教わっていた頃のことだ──
『その内に飽きるだろう。好きにさせておきなさい』
『でもねぇ、今の家庭教師さんが、厳し過ぎて……ヴィヴィちゃんが可哀想なの。あんな言い方、意地が悪いと思うのよ』
『何だって? それはいけないね。今の人は辞めてもらって、もっと優しく教える人に来てもらおうか……』
『まあ! そうねぇ、そうしてもらえる?』
『もちろんだよ』
──あの会話を耳にした時は心が凍った。
確かに家庭教師として来てくれた先生は厳しい。
宿題は多いし、無駄がない言葉尻は冷たく聞こえた。
だけど、先生は意地が悪いわけではなかった。
ヴィヴィアンの気持ちを汲んでくれて、一人で生計を立てられる素晴らしい女性だ。
そして、要領が悪く理解力が鈍いヴィヴィアンを見捨てずに丁寧に教えてくれる優しい女性だった。
尊敬していた。……いや、今も尊敬している。
だから先生は意地悪なんかではないのだ、決して。
だから、だから、
『先生を辞めさせないで』
だけど、
『いいのよ、ヴィヴィちゃん。ママとパパに任せて』
……結果、ヴィヴィアンの願いは虚しく、先生は辞めさせられてしまった。
新しく来た家庭教師はただただ優しく、間違えすらも肯定するような人だった。
デビュタントが済めば、ヴィヴィアンは大人の仲間入りだ。
だが、これではだめだ。このままでは、ヴィヴィアンはきちんとした大人になれない。
今よりずっと子供の頃、王宮でデビューした姉はヴィヴィアンの憧れだった。
くるりと回って見せてくれたドレスは綺麗で、そのドレスを着た姉はもっと綺麗で、そんな姉を見つめる義兄の横顔は今でも脳裏に焼き付いている。
あんな風に見つめられたいと子供心に思ったものだ。
ヴィヴィアンは今でも、あの瞳に憧れている。
だが、今年のデビュタントでそれを見ることはできないだろう。
ヴィヴィアンはまだまだ色々と足りていない。
だから頑張りたい。
三年欲しい。
勉強でも、仕事でも、何でもいいから、確固たるものを身に着けたい。
三年もあれば、姉のようにとまではいかないがそこそこなレベルになれるのではないかと思う。……三年が無理なら二年でもいい。
「デビュタントは……今年じゃなくて、もう少しドレスが似合うようになってからしたいの」
「あらぁ、今でもとっても似合うのに? ヴィヴィちゃんに似合うドレスを作るから大丈夫よぉ。心配しないで?」
「でも……私……もう少し、」
ヴィヴィアンの言葉を、母が遮る。
「早くデビューしたら、それだけ早くエドちゃんと結婚できるのよぉ?」
だから、それがだめなんだってば! とは、叫べたら、どんなにいいだろう。
エドガーと結婚したい。
ヴィヴィアンは彼のことが好きだ。他の男の人はいらない。
だけど、今の状態で結婚なんて、おままごともいいところである。
しかし、ヴィヴィアンがしたいのは、おままごとではない。
彼を支えられる妻になりたいのだ。
「お母様、ヴィヴィはお母様と同じ年にデビューしたいのよ。分かってあげて?」
──ヴィヴィアンのピンチを救ったのは、妊娠の為に里帰りしている姉だった。
庭で「うきゃあ」と奇声を上げて走っているのは姉の長男と、バレンタイン家に長く務めている執事の孫達。
姉は元々がとても美しかったけれど、母親になってますます美しくなった。
そして、頭も良く、会話も上手で、夫を立てることのできる良妻で、こうして出来の悪い我儘の妹をさり気なく助けることのできる、ヴィヴィアンと血の繋がりを疑うほどに完璧だ。
「あらあらまあまあ! ヴィヴィちゃんったら、もう! なんて可愛いの! ええ、ええ、そうねぇ。ヴィヴィちゃんのデビューは十八歳になったらにしましょう!」
ヴィヴィアンはまた助けられた。
『自分では何にもしないで、ただ座っているだけで周りの皆が何でもやってくれるお姫様』
女学校で一部のグループにヴィヴィアンはそう言われていた。
最初は『お姫様』と呼ばれたことを喜んでいたが、蔑みを込めた嫌味だと知って、恥ずかしくなった。
今でも、勘違いした自分が恥ずかしくてのたうち回りたくなる夜がある。
その後、仲の良い友人に庇われ、ヴィヴィアンも言い返したりしたが──……。
ヴィヴィアンは、今でも『お姫様』だ。
一人では何にもできない。