17.ウォルトの想い
「ブリジット様、お待ちしておりました」
レイナートの屋敷を訪れたブリジットを出迎えたのはレシアだった。彼女はレイナートの恋人であり、いずれ彼の妻になるであろう女性。
ルキルス伯爵夫人が不在の間は事実上、彼女がこの屋敷の女主人であり、そんなレシアがゲストを出迎えることはなんら不思議ではない。
「御者の方は休憩室にお願いします」
「かしこまりました」
レシアが次期女主人となることには使用人たちも不服がないようで、彼らはレシアの指示に素直に従っている。
「さぁ、こちらへどうぞ」
レシアはブリジットの手を取って茶会の席へと案内すべく歩き出した。
「良いお天気なりましたね」
そう言って笑顔を見せるレシアは今日の青空のようにまぶしすぎた。愛を得た女性は誰もが羨む輝きを放つというが本当のようだ。
しかも彼女に愛を与えた男はヒュートマスターのレイナート。民衆の間ではもちろん社交界でも彼の人気は高く、そんな彼の唯一となったレシアが輝くのは当然だ。
片やブリジットはどうだろう。好いた男は自分に興味がなく、彼は業務以外の関わりは持とうとしてくれない。話しかければ答えてくれるし、お茶を振るまえば喜んでくれる。だが、それだけだ。
初めてウォルトに出会った日をブリジットは今でも覚えている。ヒュート分室を任され、領地経営もあり、多忙を極めていた父に手伝いを申し出たのはブリジットだった。
本当は巷で噂のヒュートマスターに会ってみたいという不純な動機であったのだが、その業務はなかなかに面白く、ブリジットは精力的に仕事をこなしていた。
そんな中、ウォルトが分室にやってきたのだ。
「なにこれ、すごく美味しい」
ブリジットの出したお茶を飲むウォルトの屈託ない笑顔に、彼女は一瞬で恋に落ちてしまった。
その頃のウォルトはまだ爵位を持っておらず、どれだけブリジットが恋焦がれたところで共に歩むことはできない身分差があった。
だからこそ諦められると思っていたのに、彼は次々と功績をあげ、あっという間に伯爵となり、名前もウォルト・スレンに改まった。
侯爵令嬢と婚姻しても遜色のない位置に上ってきた彼に浮かれていた自分は愚かだったと思う。社交界入りした彼は、その見目の良さから多くの令嬢の誘いを受け、彼も拒むことなく次々と浮名を流していった。
こうなると彼の上司であるスマイソン侯爵の娘である自分は完全に対象外となってしまい、決して異性の距離には入れない。それどころかブリジットはレイナートとの婚約を噂されるようになってしまった。
ウォルトとの恋がかなわないのなら、いっそのことその噂のままにレイナートの妻になろうと考えたこともあった。それとなく彼に婚約の話を持ち出したとき、レイナートはあの澄んだ瞳で、
「君はそれでいいのか」
と言ったのだった。それはあまりに核心をついていて、腹立たしくなったブリジットは、つい、
「いいわけがないでしょう」
と言ってしまった。慌てて口を閉じたが、覆水盆に返らず、こぼれてしまった本音をなかったことにはできない。
「お父上からウォルトに話をして頂けばすぐにでもまとまるだろう」
レイナートはそう助言してくれた。それはその通りなのだが、まだ遊びたいのであろうウォルトを縛り付けるようなことはできなくて、ぐずぐずしているうちにブリジットは十八を迎えてしまったのだった。
同じ年のご令嬢の中には既婚の者もちらほら出始め、そうなるとヒュートの業務が忙しくて婚約が調えられない、という言い訳も通じなくなり、行き遅れの令嬢のひとりとして数えられるようになってしまった。
そしてついに先日、父であるスマイソン侯爵から見合いを命じられた。
「お相手の家名は聞いたことがありませんが」
ブリジットは侯爵令嬢という立場から国内の貴族の名前はすべて覚えていた。そんな彼女でさえ聞いたこともない家とはどこの貴族だろうか。
「隣国の侯爵家だからな、お前が知らないのも当然だ」
隣国の有力貴族の名前なら知っている、ということは侯爵家でありながらそれほど力を持っていない家なのだろう。それは行き遅れの自分にふさわしい相手に思えて、ブリジットは思わず自嘲した。
侯爵は、娘が一瞬見せたその顔に眉をひそめたが、もう後戻りはできない。
「顔合わせはルキルス邸で行う」
「レイナート様のお屋敷ですか?」
意外な場所の指定にブリジットは怪訝な顔をしたが、
「彼の次の任務は隣国だ、その打ち合わせも兼ねているそうだ」
と侯爵に言われては、納得するしかなかった。
会場にレイナートがいたら、またあの瞳で、これでいいのか、と聞かれたら、ブリジットは冷静でいられるだろうか。
ブリジットの心配をよそにレシアはどんどん進んでいく。やがて、レシアは立ち止まり、
「ブリジット様、まいりましょう」
と言った。そこはルキルス邸の裏門で、目の前には馬車が用意されている。状況が理解できないブリジットにレシアは言った。
「ブリジット様をお連れするようにとレイナート様に言われております、どうぞお乗りください」
「どちらへ行くのでしょう」
ブリジットの問いにレシアはにっこり微笑んで、
「ひみつです」
とだけ言った。
そのころ、ヒュート本部ではレイナートとウォルトがマスター同士で剣の稽古をしていた。一通り体を動かし、汗をかいた二人は休憩をする。
レイナートはウォルトに水を手渡しながら、用意してあったセリフを何でもないことのように吐いた。
「そういえば、今日はブリジット嬢の見合いの日だったな」
天気がよくて結構なことだ、とレイナートは続けたが、もうすでにウォルトの耳にそれは入ってこない。
「見合い?」
ウォルトは壊れたブリキ人形のように首をかくかくと動かし、レイナートを見る。
「スマイソン侯爵が申し込んだらしい、相手は隣国の侯爵家だとか」
それを聞いてウォルトは押し黙るが、レイナートはさらに続けた。
「ブリジット嬢はもう十八だ、早急に婚約を調えねばな」
「どこでやってる?」
ウォルトの強い視線にもレイナートが動じることはない。
「領地を持たないお前が行ったところでどうにもならん、止めておけ」
「俺はヒュートマスターだ、そんなものがなくても彼女を娶るだけの扶持はある!」
それを聞いたレイナートはため息と共に、やっと言ったな、と言い、視線を稽古場の入り口にやった。彼の目線を追ったウォルトはそこにいる人物に驚いて息を飲んだ。
「ブリジット。何故、ここに?」
そこにはレシアに付き添われるようにして立っているブリジットがいた。その顔は赤らんでいて、ウォルトのセリフが耳に入ってたことは明白だ。
レシアはブリジットに何やら言い、その身を稽古場の中へ押し入れた。入れ替わりにレイナートが出ていき、その場に残されたのはブリジットとウォルトのふたりとなった。
レシアはレイナートと並んで廊下を歩きながら、大丈夫でしょうか、と心配している。
「ここまでお膳立てしてやったんだ。これでダメなら俺たちの婚約は勝手に発表するまでだ」
「それは王弟殿下がお許しにならないのでは?」
「レシアが本当の魔法使いであることも、その恋人が俺であることも、社交界では噂になりつつある。もはや隠しておくほうが難しい」
頷きかけたレシアはレイナートの言葉に引っ掛かりを覚える。自分の存在は公にはまだ伏せられているはずだ、それなのに恋人のことまで広まっているというのはなにかおかしい。
「まさか、レイナート様が広めたのではありませんね?」
「レシア、食事をして帰ろう。評判の店を抑えてある」
さらりと話題をかえたレイナートにレシアは詰め寄る。
「レイナート様?」
そんなレシアの唇に軽く触れるだけの口づけをしたレイナートは、
「着替えてくるから部屋で待っていてくれ」
と言い、さっさと更衣室に逃げてしまった。
不意打ちの口づけになにも言い返せなくなったレシアは、赤くなった顔を誰にも見られないよう俯いて、すごすごとレイナートの部屋に向かうしかなかった。
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