妻の記憶喪失
目を覚ますと私は仰向けにベッドに寝ていた。右側に窓が見え、レース越しに外の明かりが差し込んでいる。ベッドには柵がついていて、左腕には点滴の管が差し込まれていた。
(ここは?……)
右肘を突いてのろのろと体を起こす。サイドボードに置いてあった手鏡をとり、自分の顔を見る。頭に白い包帯が巻かれていた。
部屋の外でゴロゴロと音がした。カーテンをめくり、看護師がカートを押しながら入ってくる。ベッドの上で上半身を起こした私を見て目を丸くする。
「大丈夫ですか?」
ベッドに駆け寄り、私の肩を手で支え、ゆっくりと仰向けの体勢に戻し、「先生を呼んできます」と部屋を出て行った。
十分後――ベッドのそばには白衣を着た男性の医者と看護師がいた。
「お名前と年齢は言えますか?」
「はい、天野七海。36歳です」
「なぜ怪我をされたか、覚えてらっしゃいますか?」
医者に訊かれ、私は自信なさげに目をさまよわせた。
「あの……私、何があったんでしょう?」
名前や年齢は覚えているが、病院に連れてこられた経緯がわからない。
「ご自宅のマンションの階段の下で、頭から血を流して倒れていたんです。ご主人が発見され、救急車を呼んだそうです」
医者がそう言ったとき、病室の出入り口に荒々しい足音がした。
「七海!――」
会社を抜け出してきたのか、スーツ姿の男が病室に飛び込んできた。医師が振り返り、穏やかに手で制すると、私に向かって訊ねた。
「ご主人を思い出せますか?」
「なんとなく……ですが……」
目の前の男性と一緒に生活していた記憶がうっすらとある。ただ、二人の普段の生活やどんな会話をしていたのかが思い出せない。
困惑する夫に医師が説明をした。
「奥様は頭部に外傷を受けたことで、逆行性の健忘症になっているようです」
夫が上着のポケットからスマホを取り出し、画面を見せてきた。自撮りと思しき、二人が顔を並べて笑っている写真だった。他にも私がソファでくつろいでいる写真やケーキの前でピースサインをしている写真があった。
「僕は君の夫の天野隆史、君は妻の七海。僕たちは夫婦で、一緒に暮らしていたんだ。怪我をしたときのことを思い出せるかい?」
眉根を寄せた私の脳裏に一瞬、誰かの姿が浮かんだ。背格好は男だったように思うが、顔は真っ黒で何も見えなかった。
「……階段の上から誰かに突き落とされたのかも……」
恐怖がぶり返し、私は顔を青ざめさせた。
「警察の人が防犯カメラの映像をチェックしたけど、特に怪しい人間は映っていなかったそうだ」
ただし、カメラに映るのはマンションのエントランス付近だけで、廊下や階段までは確認できないという。
「そう……」
今の私に言えるのは、どうやら自分がこの男性の妻だったことと、私を突き飛ばした〝誰か〟がいることだけだった。
◇
退院をして私は自宅マンションに戻ってきた。
夫と私の間には子供はおらず、二人だけの静かな生活だった。仕事も特にしていなかったようだ。記憶が戻り、体調が万全になるまで、しばらく家で静養をすることにした。
ある日、近所のスーパーに買い物に行き、店から外に出たとき、物陰から出てきた男性に声をかけられた。
「七海――僕だ」
戸惑う私に男が真剣な顔で訴える。
「僕のことがわからないのか?」
「……すいません」
知り合いだったら失礼なので、最近、頭に怪我をして記憶が少し混濁していることを伝えた。
「僕は津田俊也、君の大学時代の友人だ」
男はスマホを出し、若い頃の私と一緒に写った写真を見せてくれた。
「君は夫からDVを受けていたんだ。それで僕に相談をしていたんだ」
「私が……DV?」
津田はLINEの画面を見せた。そこにはたしかに私らしき人間が、夫のDVを訴えるやり取りが残っていた。
「君は夫と離婚したいと言っていた。そうだ。君のスマホは?」
「怪我をしたとき、壊れたらしくて……」
階段の下で倒れた体の近くに落ちていたらしい。夫からは電源が入らないので処分したと言われた。私が新しいスマホに切り替え、連絡がとれなくなったので、津田は直接会いに来たらしい。
「くそっ、君のスマホにはDVの証拠写真が残っていたはずなのに……あいつ、証拠を隠滅したな」
スーパーの前で話す私たちを通り過ぎる人がチラチラ見ていく。津田は辺りに目を配り、潜めた声で言った。
「君を階段の上から突き飛ばしたのは彼だ」
「まさか――」
「いいかい? 絶対にあいつに心を許すな。気をつけるんだ」
自分の連絡先を渡すと、津田は人目を避けるようにその場を離れた。
スーパーのレジ袋を持ったまま、私はその場に立ちつくした。夫か、津田か、どっちの言い分を信じればいいのかわからなかった。
◇
「どうしたんだい? 今日は妙に黙り込んで……体調が悪いのかい?」
夕食の最中、夫に訊かれて私は首を振った。
「ごめんなさい。少し疲れていて……」
夫の隆史は優しかった。退院し、一緒に生活を始めてから二週間になるが、暴言を吐かれたり、暴力を振るわれたことは一度としてない。
ちらっと上目遣いで夫の顔を伺った。
(本当にこの人が私にDVをしていたの?……)
記憶がない以上、なんとも言えない。ただ、津田から見せられたLINEには、確かに夫の暴力に悩んでいることを相談していた節があった。
「……あの、津田さんって知ってる?」
夫の目が驚きで見開かれる。
「記憶が戻ったのかい?」
「そういうわけじゃないんだけど……家にあった昔の年賀状とかを見ていたら、その人の名前があったから……」
「君の学生時代の友達だ。結婚式で僕も挨拶をしたよ。でも、会ったのはそのときだけだ」
津田の名を出すと夫の表情が曇った。彼に対していい印象を抱いていないようだ。私が津田にDVの相談をしていたことを知っていたのかもしれない。
その日、夫を会社に送り出した後、私は家中をところ構わず探し始めた。もし津田の言うとおり、私がDVを受けていたとしたら、写真でも日記でも、何か痕跡のようなものが残っているはずだ。
書斎にあった夫のパソコンを立ち上げ、4桁のログインコードに彼の誕生日を打ち込む。アルバムフォルダには、年月日ごとに几帳面に写真が整理されていた。
結婚前のデート写真や結婚式の写真もあった。ウェディングドレス姿の私は幸せそうに笑っていた。だが――
(ない……私が怪我をする前の半年間の写真が消えている……)
フォルダごとごっそりと削除されていた。津田によれば、私が夫からDVを受けていたのはちょうどその時期だ。何か私と夫の関係に変化があったのかもしれない。
パソコンの探索は諦め、私は夫の机の引き出しを探した。やがて引き出しの奥に見知らぬスマホを見つけた。電源を入れると、指紋認証を求められた。親指を押し当てると、ロックが解除された。
(私のスマホ?……)
夫からはスマホは壊れていたので処分したと聞かされていたが、実際は隠していたのだ。スマホに関して、夫は嘘をついていたことになる。
私は恐る恐る画像のフォルダをタップした。
(これは?……)
そこにあったのは怪我をした夫の顔だった。目の周りに青アザができ、腫れ上がった瞼が目を塞いでいる。鼻血を流し、切れた唇からも血が垂れている。まるきり試合後のボクサーのような写真が何枚も残されていた。
(どういうことなの?……)
困惑しながら、より過去の画像にさかのぼっていく。
(赤ん坊?……)
見慣れた自宅のソファで、私が水玉のベビー服を着た赤ちゃんを抱いていた。
(私には子供がいたの?……)
そんなこと夫は一言も言っていなかった。子供がいたなら、その赤ん坊はどこにいったのか? この顔を腫らした夫の顔は何なのか?
スマホを握りしめ、私は混乱する頭を必死に働かそうとするが、記憶を遡ろうとすると、また頭に白いモヤがかかるのだった。
◇
夜、会社から帰宅した夫に私は「話がある」と伝え、リビングのソファでスマホを差し出した。
「これ、私のスマホでしょ?」
ソファテーブルの黒い筐体に目を落とし、夫は押し黙っている。
「私には子供がいたの? あなたはそんなこと教えてくれなかったわ」
夫は重い息を吐き、意を決したように告げた。
「赤ん坊は……圭太は死んだんだ……」
生後一ヶ月、睡眠中に突然亡くなったという。医者の診断は乳幼児突然死症候群、うつ伏せ寝などが原因と言われるが、死因のメカニズムはよくわかっていない。
三度の流産を経て、長い不育症治療の末に授かった子供だったので、私のショックは激しかったという。
「……圭太が死んで君は変わってしまった。赤ん坊が死んだのは自分のせいだと、ずっと自分を責め続けて……次第に圭太のところに行きたいと言うようになった……」
妻に前向きに生きてほしいと願う夫と衝突が絶えなくなり、ささいなきっかけで喧嘩が起こるようになった。その先はなんとなく想像がついた。
「……私はあなたに暴力を振るうようになったのね?」
夫の沈黙が肯定の証しだった。顔に怪我をした夫の写真は、彼が私からDVを受けていた証拠だ。
「君が記憶を失ったと知ったときはショックだったけど、このまま過去のつらい記憶が消えてしまうならそれもいいと思った……圭太のことも忘れ、二人で新しい人生をやり直せるなら……」
だから家の中から赤ん坊の写った写真をすべて処分したという。
私はかすれ声で訊ねた。
「津田さんは?」
「君に暴力を振るわれ続けて、一度だけ僕が君に手を上げてしまったことがあったんだ……それから君は、周りに僕からDVを受けていると言うようになって……」
誤解を解くため、彼が私の友人たちに会いに行き、事情を説明したという。自身が怪我をした写真や録音したDV音声を聞かせると、みな納得してくれたそうだ。
ただ津田だけはかたくなに面会を拒否し、七海の言い分を信じ続けた。実際に会ったときに少し感じたが、もしかすると津田は、私に恋愛感情に近いものを抱いていたのかもしれない。
話を聞き終え、私は体の力が抜けたようにソファの背にもたれかかった。
マンションの階段の下で倒れていたのも、誰かに突き落とされたのではなく、恐らく突発的に自殺しようとしたのだろう(夫によれば、警察も事件性はないと結論を出していたようだ)。
ソファで隣に座る夫が、自分の手を私の手に重ねた。
「七海、もう一度、僕とやり直さないか?」
返事の代わりに私は訊ねた。
「……なぜ私のスマホを処分しなかったの?」
残されていた赤ん坊の写真を私が見なければ、夫は過去のことを説明する必要もなかったはずだ。
「……捨てられなかったんだ。たった一ヶ月だけど、圭太がこの世に生きていた証しだったから……僕たち家族三人の生活があったことを何か残しておきたかった……」
膝に視線を落としたまま、夫が声を振り絞る。
「圭太の写真をもう一度、見せて……」
私が頼むと、夫がスマホを手渡した。写真の中で私は笑顔で赤ん坊を抱いていた。
「……私、今も記憶は戻ってないわ……」
この先、夫と出会ったときのことも、結婚生活のことも、我が子との思い出も、何も思い出せないかもしれない。
「僕が覚えてるよ。君が好きなアイドルの解散で泣いたことも、シチューを作ろうとして鍋を焦がしたことも、掃除や片付けが苦手だったことも……圭太を抱く君のすてきな笑顔もぜんぶ覚えてるよ」
私は照れたように笑い、鼻声で訊ねた。
「……それを私に教えてくれる?」
私とあなたがどうやって出会ったのか、どこにデートに行ったのか、プロポーズの言葉は何だったのか、結婚生活の出来事を聞かせてほしい。そして――圭太はどんな男の子だったのか。
私たちに時間はいくらでもある。
(完)