苛立ちの消失
5月2週目の日曜。
俺が体調を崩した翌日の朝ー。
「36.7℃ 平熱ですね。」
体温計の数値を見て、森野がにっこり笑った。
「熱は下がってよかったですけど、まだ本調子じゃないんですから、今日は安静にしてゆっくり休んで下さいね。」
「分かってる。」
昨日より、大分体が軽くなったのを感じる。
と、同時に急に体が空腹を訴え始めた。昨日は朝も昼もほとんど食べれなかったからな。
俺が腹を押さえていると、森野が笑った。
「ふふっ。先輩もしかしてお腹が空いたんですか?。体が回復してる証拠ですね。
先輩のお母さんに作って頂いたお粥と、あと食べられそうでしたら、煮物もありますから、持ってきますね。」
「煮物も母が作ったのか?」
俺の問いに森野がギクッとしたような表情になった。
「ええと…。先輩のお母さんに里見家のレシピを教えて頂いて、昨日の夜その通りに作ってみたのですが、いらなかったら、お粥だけでも…。」
森野は自信なさげに言いながら、語尾が小さくなっていった…。
「いや、頂くよ。持って来てくれ。」
森野はパァッと顔を輝かせて答えた。
「はいっ!ただいま。」
そして、そのまま部屋を出て行こうとしたが、
ふと思い出したように振り返って言った。
「あっ。そういえば、さっき電話があって、
先輩のお母さんお昼過ぎにいらっしゃるそうですよ。」
「そうなのか?もういいのに。」
っていうか、なぜ俺に連絡せず、森野によこすんだ?
「先輩が心配なんですよ。何たって一人息子ですからね。そ・れ・に!今日は何の日ですか?」
「ん?今日って5月9日?アイスクリームの日だったか?確か東京アイスクリーム協会で記念事業にアイスクリームをプレゼントしたのが始まりだとか…。」
「へー、そうなんだぁ。先輩、物知りですねぇ。じゃない、違う!そんな豆知識今いらない!
母の日ですよ!母の日。」
「あぁ!」
毎年女子達が騒いでいる奴か。
小さい頃は、母に絵を描いたり、カーネーションをあげたりしていた記憶があるが、年頃になってからは、ほぼスルーしていたので、念頭になかった。
「こんな大事な日を忘れてどうするんですか!仕方のない先輩ですねぇ。例のブツ(カーネーション)は私が用意しときましたから、後でちゃんと渡すんですよ?」
森野は偉そうにそう言うと、今度こそ部屋を出て行った。
ちっ、森野め。上から目線で生意気な!
男子には縁遠い日なんだよ!
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「ふーっ。」
俺は森野が持って来たお粥と煮物を平らげると
一息ついた。
食欲もすっかり元に戻ったな。
もう普通のご飯にしてもらって、量を増やしてもらった方がいいかもな。
体調も良くなった事だし、それを伝えがてら、食べ終わった食器を持ってやるか。
階下に下りていくと、リビングの方で森野の声が聞こえた。
家の電話で誰かと話をしているらしい。
「うん…。そうそう、もう大丈夫みたい。心配かけてごめんなさい。ん?ああ、届いたんだ。いやいや、そんな大したものじゃないんだけどさ、いつもありがとうね。ふふっ。うん、和菓子好きでしょ?一緒に入れといた。」
電話で話している森野はいつものハキハキ物を言う森野とは違って、少し照れて甘えるような
声音だった。
まるで、初恋の相手と話でもしているように。
「あ、うん。こっちは何とかやってるから、大丈夫大丈夫。うん。じゃあ、またね。」
森野は電話を切ると、ふーっとため息をついた。その表情は一転して、口をとがらせ、寂しげに見えた。
「森野…?」
「わひゃあっ!」
いきなり声をかけられて驚いた森野は悲鳴のような声をあげた。
「いや、そんなに驚くなよ。お粥の容器を持ってきたんだけど。」
「あ、ああ。ごめんなさい。起きて大丈夫なんですか?わざわざ持ってきてくれなくても取りに行きましたのに。」
森野は慌てたように言って、食器を受け取った。
「もう、体調もいいし大丈夫だ。次からはお粥にしなくてもいいから、普段のご飯の量に戻してくれ。それから、もう下で食べてもいいか?」
「わ、分かりました。先輩が大丈夫ならいいですよ。」
「それと…、さっきの電話…誰からだったんだ?」
「え。」
「随分親しそうだったな。もしかして、好きな奴…とか?」
「え、ええ…。私が世界で一番大好きな人です。」
森野はポッと頬を染めて答えた。
やっぱり…。何が男嫌いだよ?
一見真面目で良い奴に見える森野も裏では好き勝手にやってるって事か。
『女は皆同じ…。』
あの人の言葉が思い出された。
「そういう相手がいるのに、非常識じゃないか?こんな同居なんて…。相手に対しても失礼だろ?」
俺は苛々と畳み掛けるように言った。
「え、いや、だって向こうも了承済みだし。」
「何だソレ?どんな男だよ?」
「男…?女ですけど。」
「ん?」
「お母さんですけど…。」
森野は目を閉じてはにかむように言った。
「私が世界で一番大好きな人…お母さんです。」
「…………。」
俺は額に手を当てて、深いため息をついた。
「先輩はさっきから何を苛々しているんですか?」
「苛々なんかしてない!紛らわしいんだよ。君は!」
世界で一番好きな人がお母さんって…幼稚園児かっ!!
「な、何ですか?母の日にお母さんと電話して何が悪いんですか?先輩なんて、私が言わなきゃ今日が母の日だって事も、忘れていた親不孝者のくせにっ!」
「うるさいっ。マザコンはどっちだっつーの!」
足音も荒く、二階に続く階段を登って行く俺に森野が呼びかけた。
「あっ。昼ご飯は12:00頃の予定ですから時間になったら下りてきて下さいねー。」
「分かったよっ。」
返事をしざま、部屋のドアを閉めた。
「もう、何かしら?反抗期?」
聞こえよがしな森野のボヤきも実はそんなに腹が立たなかった。
まぁ、森野は見たまんまだ。隠し事ができよう筈もない。
彼氏がいようものなら、とっくにバレてる。
なんせ、今だに世界で一番好きな人が『お母さん』のガキだものな。
俺はその事に不思議と安堵を覚えながら、再びベッドで眠りについた。
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「浩史郎がカーネーションくれるなんて、何年ぶりかしらね。
どういう風の吹き回し?」
母は小さな赤い花束を嬉しそうに抱えて言った。
「まぁ…。日頃の感謝の表れというか。昨日も色々世話になったし…。」
俺は、今考えた取ってつけたような理由を言った。
「そうなの?まぁ、どうせ森野さんが口添えしてくれたんでしょうけどね…。」
母は口に手を当ててクスクスと笑った。
「……。」
速攻でバレてるし。
俺は気まずい思いで目を逸らした。
「それで、森野さんとは話せた?体調は回復したみたいだけど、この先どうする?」
「取り敢えず、一ヶ月はここで、生活してみるよ。今実家に戻ると、何か俺が森野に負けて追い出されたような気がするし。」
「そう。負けた気がするか…。負けず嫌いの浩史郎らしいね。」
「俺が負けず嫌い?」
「そうよ。小さい頃から、あなたは何でも人に負けると、例え2番でも泣いてぐずって大変だったのよ。
慰めるのが大変だから常に一番を取りなさいって言ってたの。」
「はぁ?そんな理由で一番になれって言ってたのか?」
「そうよ。あれ?言わなかったかしら。」
顎に手をかけて不思議そうな母を見て、俺は、大きなため息をついた。
中学の時あんなにプレッシャーだった言葉がそんな理由によるものだったとは。
中学生の時の俺に教えてやりたい。
逆上して、グレかねなかったぞ。
「まぁ、お父さんは会社を継いで欲しいから上を目指せって言ってたんでしょうけどね。
でも、負けず嫌いもいいんじゃない?
浩史郎前よりいい眼をしているよ。
森野さんに負けないように一ヶ月頑張って生活してみたら?」
母は俺が中学一年の時、学年1位の成績をとったときと同じ顔で、嬉しそうに笑った。
男子でもちゃんと贈る人はいますけどね。
母の日が男子には縁遠い日だというのはあくまで浩士郎の個人的見解です。




