第6話 命の価値は
「よし、よし。結構危なかったな。省吾、大丈夫か? ヤバいの食らったか?」
「いえ、なんとか大丈夫です」
動悸が中々収まらない。今日は昨日よりも死に近かった。
「おいオッサン。このデカいのは山分けだからな」
「まあ、いいだろう」
人間の掌よりずっと大きい肉球を、協力してなんとか切り取る。さすがに今回はこれで切りあげだろう。戦果は中型の肉球が十二個、特大の肉球が二個。
「随分と及び腰だったね。これまでの人生では、蝶々でも追ってたのかな?」
マーロウが僕に言った。
「ここでは、タフでなければ生きていけない。あまり無理はしないことだ」
彼は僕の肩を軽く叩き、先に大地下街を出ていった。
「夏音さん、あの人たちがさっき言ったの、本名じゃないですよね」
「ああ」
彼女は肉球をビニール袋に入れ、その口を縛った。
「キャラハンは自分をアクション映画の主人公だと思い込んでて、マーロウは自分を探偵小説の主人公だと思い込んでる。両方とも頭がおかしいから、話ができそうだと思ってもあんまり近づくなよ」
その言葉を聞いて、僕は以前に姫花と観た映画のことを思い出した。捜査手法は違法スレスレだが、悪を決して許さない剛直な刑事ハリー・キャラハン。「やれよ。楽しませてくれ」というのは、いくつかあるシリーズのうちで、敵が人質の女性に銃をつきつけるシーンで放たれたセリフだったか。
フィリップ・マーロウの方も確か映画になっていたはずだ。堅実な捜査で犯人を明らかにする私立探偵にして、ハードボイルドの代名詞。「タフでなければ生きていけない」という台詞の次には、「優しくなければ生きる価値がない」と続く。
悪い人たちではなさそうに思えたが、夏音さんの口振りからすると、うっかり地雷を踏むような発言をして、撃たれるようなことがないとはいえない。忠告通り、あまり関わり合わないようにするべきだろう。
「ちょっと早いけど、今日はこれで終わりにするか」
夏音さんは手についた屍食猫の体液を苔でぬぐいながら言った。肉球を切り取ったあとの死骸をその場に放置して、僕たちは大地下街を出ることにした。時刻はまだ朝七時。随分長く潜っていたように思えたが、滞在した時間は二十分にも満たない。
入口付近まで戻ると、例の長毛猫や座り込んだ男たちが、こちらに胡乱な目を向けてくる。彼らにしてみれば、僕たちがしくじってくれるのを期待していたのだろう。夏音さんはそれを気にすることもなく、疲労を感じさせない足取りで先へ行く。
「このあとはどうしますか」
「肉球を金に換えたあと事務所の近くに戻って、ヤナギ堂に寄って噂話でも聞こう。約束通り、妹さんを捜さないとな」
「ヤナギ堂?」
「食料も銃も扱ってる店で、顔が広いから、情報も集まるんだ」
「なんでもアリですね」
「お行儀よく商売してたんじゃ、生きてけないからな」
それからしばらく、僕らは肉球を買い取ってくれる場所に寄るため、壁沿いの細い道を進んだ。このあたりは〈檻〉の外と繋がる侵入口が近いらしく、少なからず人の行き来があるようだ。あたりには日用品の積まれた台車や、パケ袋に入った怪しげな薬を扱う露店も見える。
「そういえば夏音さん。素人の僕が言うのもアレなんですけど、屍食猫を狩るなら、もっと強い武器の方がいいんじゃないですか。短機関銃とか、散弾銃とか」
「まあ、それは正しい。けど、本体も弾も高価いからな。メンテナンスの手間があるし、盗まれでもしたら悲しくなるだろ。それに、火力のある武器を個人が持ってると、猫があんまりいい顔をしないんだよ」
「猫が?」
「弾をバラ撒くような武器なら、猫だって殺せるだろ?」
「拳銃でも殺そうと思えば……。いや、殺すつもりはないですが」
夏音さんがじっとこちらを見る。なにか変なことを言っただろうか?
「お前が住んでたトコじゃそう見えるんだろうな。所長が言うに、外の連中は仔猫の皮を被ってるらしいから。でも〈檻〉にいる猫がどういうモンかっていうのは、お前もちゃんと知っとく必要がある」
「はあ。喋る以外にも特別な力があるんですね」
「ここじゃ異能って呼ばれてる。パウには肉球って意味もあるらしい。猫にはあって人間にはないものってことだろうな。人間を従わせたり、姿を変えたり、見えない力で物を動かしたり、ほかにも色々」
どこか間の抜けた響きとは裏腹に、とんでもない能力だ。
「ネメオス所長も使えるんですか?」
「ああ。猫によって得意不得意はあるらしいけど、ドアを開けるぐらいのことなら、どんなヤツでも使える。そういうわけで、理由が無けりゃ猫にはつっかからない方がいい。〈檻〉じゃ人間はお前が思ってるほど偉くないし――」
夏音さんが言いかけたとき、僕たちの背後から忍び寄る人間たちがいた。
「おうい、そこの兄ちゃん。朝っぱらから肉球ブラブラさせてちゃダメだよ。預かってあげるから、こっちよこしな」
ヘラヘラした、しかしねっとりした悪意の込められた声に振り返ってみれば、いましがた路地の暗がりから出てきたらしい二人が、三メートルほどの距離でこちらに拳銃を向けていた。
強盗だ。こんな人目につきやすい場所で、朝から堂々と。
「女連れだからって意地張んなくて大丈夫だって、ホラ」
僕が横目で夏音さんを窺うと、彼女は渡してやれというような表情で顎をしゃくった。死ぬ思いをして手に入れた肉球だが、値段としてはせいぜい数万円といったところだ、無防備だったこちらにも多少落ち度はあるし、銃で撃たれることを考えれば……。
僕はゆっくりとした動作で、手に持っていたビニール袋を男たちに放る。
その瞬間、夏音さんが動いた。
彼女が腰に挿した拳銃を抜いて射撃するまでは、コンマ五秒にも満たなかっただろう。すぐ横にいた僕には、なにが起こったのか咄嗟には分からなかった。
強盗たちには見えたかもしれないが、夏音さんのことはほとんど無警戒だった上、僕が投げたビニール袋に一瞬気を取られたせいで、構えた銃を撃つのもままならなかったらしい。
二挺のコルトから同時に放たれた弾丸は、狙いを過たず強盗たちの胴体に吸い込まれた。向こうもトリガに力を込めることまではできたようだが、その弾丸は僕らのはるか上に逸れ、どこかのガラス窓を砕いただけだった。直後、ビニール袋がどさりと落ち、強盗たちも膝をついて倒れた。
二人ともまだ息をしていたが、夏音さんは容赦なくとどめを刺した。原型を失った後頭部から、ピンク色の脳が弾けて散る。
「こういう感じで、命の価値も軽い。頭に入れとけ」
僕は動揺でわずかに震えながらも、〈檻〉がどのような場所なのか、ようやくうっすらと理解しはじめていた。この場所で姫花を捜すという行為に、どんな覚悟が求められるのかを。
命より大事な姫花を探して連れ帰る。ここで怖気づいていては、ネメオス所長に宣言したことが嘘になってしまう。僕は嘘つきではない。臆病者でもない。
僕は吐き気を飲み下し、男たちの死体に近づいて、肉球入りのビニール袋を回収した。
「行きましょう」




