第5話 混沌の巣
ぬるぬるした階段を一歩おりるごとに、瘴気と悪臭が濃くなっていく。これほどになると人体に影響ありそうだが、夏音さんは特になにも言わない。
地下へ二階分ほど潜り、駅のコンコースに似た場所までやってくる。天井や壁や床は黒い苔や緑の粘液に覆われ、やけに滑りやすくなっていた。いたる所にバスケットボール大の繭のようなものがあり、不気味な燐光を放っているせいで、内部はそれほど暗くない。
事務所のあるあたりはまだ市街という感じの場所だったが、ここはまったくの異界だ。どこからともなく冷たい風が吹いてきて、僕は背すじを震わせた。
「んー、少し奥に行くか」
夏音さんがベルトから二挺の銃を抜いた。片方には艶があり、もう片方には艶消しが施されている。彼女が語るところによると、これはコルト・ガバメントと呼ばれる銃で、使う弾丸の威力は僕のトーラスより少し低いが、二挺合わせて十六発の弾丸が装填できる。
僕たちは大地下街の浅層をゆっくりと進む。どこかで銃声が響き、屍食猫のものと思しき咆哮が聞こえた。
「お、もう誰かやってるな」
入口から五十メートルほど奥で足を止め、獲物の気配に耳を澄ませる。いくつか見える横道は、内部の複雑な構造を予感させた。夏音さん曰く、深層がどうなっているのか知る者は極端に少なく、最奥に辿り着いた者は皆無とのことだ。
「屍食猫もそのうちこっちの気配に気づくから、わざわざ探す必要はない。いつでも撃てるよう準備しとけ」
彼女の言う通り、三十秒ほど待ったところで濡れた足音が近づいてくる。やがて暗がりの奥から、二匹の屍食猫がゆっくりと姿を現わした。サイズは僕が昨日遭遇した個体とほぼ同じ。
「向こうからもだ。今日は楽に稼げるな」
別の横道からもう一匹。こちらは少し身体が大きい。歪に裂けた口からは凶悪な形の牙が覗き、絶えず滴る涎が地面に糸を引く。
食われたくない、という原始的な本能が僕の全身を支配しつつあった。これで一匹八千円だって?
合計三匹の屍食猫が、数メートルの間合いを取りながら僕たちを囲む。夏音さんはその内の二匹にコルトで狙いをつけながら、低い声で言った。
「まだ撃つな。撃つと一気に襲ってくるから、タイミングを合わせる。あのちっちゃいのを狙え。顔が剥がれかけてるヤツな。お前のトーラスなら、上手く当たれば一発だ。よおく狙えよ。三、二、一……」
あと半秒の時点で、屍食猫がこちらの殺気を感知して距離を詰めてきた。僕は強張った指に力を込めて、トーラスのトリガを引く。閃く発射炎、鼓膜を叩く銃声、手に伝わる衝撃。生まれてはじめての発砲は、僕の感覚すべてを強烈に圧倒した。
肝心の弾丸は屍食猫の首元に命中し、その身体を大きく仰け反らせた。しかし怪物は即死せず、血反吐をまき散らしながらなおも僕に迫ってくる。
爪と牙が届きそうな距離。僕は恐怖に駆られてトーラスを撃ち続けた。二発目で頭の半分が吹き飛び、三発目で胴体に風穴が開いた。四発目は倒れていく身体を逸れて、少し先の床を盛大に削り取った。
「撃ちすぎ。花火大会かよ」
夏音さんに背中を叩かれ、僕は我に返った。
「すいません」
気づけばほかの二体も斃されている。自分のことに夢中で注意を払っていなかった。
「まあ、はじめてならこんなもんだな。とりあえず肉球取るから、ちょっと見張ってろ」
夏音さんはポケットから小さなノコギリを取り出して、いましがた僕がボロ雑巾のようにした屍食猫の肉球を切り取りはじめた。骨を断つゴリゴリという音が、静かになった大地下街に響く。
「朝から精が出るな。お嬢さん」
しばらく作業を続けていると、横道の一つから誰かが出てきた。長身の男性が二人。どちらもジャケットにネクタイ姿で、この場所ではひどく場違いな印象を与える。
「そっちは新入りかね?」
男の一人が言った。
「どうも……深見といいます」
僕たちが入ってきたときにドンパチやっていたのは、多分彼らだろう。所長や夏音さんの同業といったところか。
「サンフランシスコ市警のキャラハンだ」
「ぼくはマーロウ。フィリップ・マーロウ」
「サンフランシスコ……?」
二人とも日本人にしては彫りの深い顔をしているが、アメリカ人には見えない。そもそも、サンフランシスコの警察がここにいるはずがない。フィリップ・マーロウという名前もどこかで聞いた覚えがある。〈檻〉流の冗談だろうか。
「おい省吾、あんまり関わり合いになるな」
夏音さんがノコギリを止めずに小声で囁く。僕はその理由を聞こうとして、不穏な物音に気がついた。なにか大きなものが近づいてくる。キャラハンとマーロウのコンビも気配に反応した。
次の瞬間、象ほどもある巨大な屍食猫が横道から半身を覗かせた。
「う、わ……」
これはもはや怪獣だ。僕は肝を潰しながらもトーラスを構えたが、撃てば襲ってくるという夏音さんの言葉がよぎり、すんでのところで思い留まる。
「おーおー、こんなデカいのは珍しいな」
夏音さんが立ち上がり、二挺のコルトを抜き放つ。キャラハンも余裕の表情で重厚なリボルバーを構え、唸る屍食猫を低い声で挑発した。
「やれよ。楽しませてくれ」
屍食猫がその巨躯に見合わぬ疾走を見せ、それを迎えるようにいくつもの銃火が閃いた。
発射炎と鉛、咆哮と牙、圧縮された一瞬の地獄が大地下街に現出する。僕はなんとか一度トリガを引いたあと、迫りくる黒い顎を辛うじて躱した。あんなものを喰らったら即死は免れない。ぬめる地面を転がって、再び構える。
「省吾、頭を狙え! トーラスなら頭蓋骨をぶち抜ける」
僕は背を向けて逃げ出したい思いを抑え、しっかりと地面に踏ん張った。いつまでも恐れているばかりではいられない。狙い澄ました射撃を、屍食猫の醜い鼻面に命中させる。さらにダメ押しを加えようとしたとき、撃鉄が立てるカチリという音で弾切れに気がついた。
巨大な屍食猫は何発もの銃弾を浴びながら、まだ動きを止めていなかった。丸太のような前肢が勢いよく振り抜かれ、太く鋭い爪が飛び退いた僕の腹部を掠る。
パーカーが派手に切り裂かれ、大きな穴が空た。あと三十センチずれていれば、僕の破れた腹から内臓が零れ出していただろう。
しかし反撃もそれまでで、夏音さんの、キャラハンの、マーロウの銃弾がとどめを刺した。撃ち込まれた十発近くの弾丸が、屍食猫に致命傷を与えた。小山のような身体が末期の呼吸で一度膨らみ、それから完全に動かなくなった。




