第4話 トーラス
翌朝、僕は応接室からの物音で目を覚ました。時計を確認すると、午前五時を回ったところだった。ガラス窓から見える景色は、まだ紺青の薄布を被っている。
暖房器具のない部屋の中、毛布一枚で寝ていた僕の身体はすっかり冷えてしまっていた。ベッドから降り、両腕をさすりながら応接室に行くと、そこには窓際で目を閉じて丸くなっているネメオス所長と、ソファで食パンを頬張っている夏音さんがいた。
「早いですね」
「普通だろ」
夜の活動に危険が伴う分、〈檻〉の朝は外に比べて早いのかもしれない。
「パンもらっていいですか」
「ああ」
食パンは袋に入ったままテーブルに置かれている。傍らにはいちごジャムの瓶。僕はキッチンから牛乳とコップを二つ持ってきて、夏音さんの対面に腰かけた。
「今日の予定だけどな」
彼女が二つのコップに牛乳を注ぎながら言う。
「午前中はヨコハマ大地下街に行くぞ。所長が銃の試し撃ちぐらいはしておけって」
「ダンジョン?」
「アレだよ。屍食猫の巣になってるとこだ。昔は横浜駅って名前だったらしいな。まあ、奥に行かなきゃ大したことねえよ。わたしもいるんだし」
「はあ。いや、でも……」
「やめとくか? 撃つ練習だけなら壁相手だってできる。人間の絵を描いて、胸に当てたら五十点、ってな」
夏音さんの挑発するような表情に僕はむっとするより悲しくなった。妹が命より大事なんて言っておきながら、この程度のことで怖気づいてるのだから。
「行きます」
僕は勢いこんで答えた。
「ただ、銃なんて撃ったことないですし、そもそも持ってないんですけど」
「一回も?」
「ないですよ」
「その年齢で?」
「〈檻〉の外では銃なんて撃つ機会ありませんよ。持ってるだけで捕まるんだから」
「だから練習するのさ。必要に迫られたとき、多少なりともためらわず撃てるようにね」
所長が目を開けて、大きくあくびをした。
「銃は照君が残してったのを使えばいい」
「あの遺品か?」
「照君は死んでないでしょ」
「死んでるだろ。二年も音沙汰ないんだから」
僕には背景の分からないやりとりだが、二年前までここに照という人間がいたらしい。所長が伸びをしながら説明する。
「照君っていうのは、夏音君よりも前からぼくと働いてた人間でね。元々放浪癖があったんだけど、二年前にふっと出ていったっきり戻ってこないんだ。多分〈檻〉の外をふらついてるんだろう。で、彼の置いてった銃がまだ引き出しに入ってたはずだから、当面はそれを持ってるとといいよ」
あるというのならいりませんと言うわけにもいかない。僕はパンを牛乳で飲み下したあと自分の部屋に戻り、デスクの引き出しを開けてみた。
所長の言った通り、そこには黒いグリップに銀色の銃身を持つ、重厚な回転式拳銃がしまわれていた。日本の警察が持っているようなものより、軽く二回りは大きい。警告や自衛のためでなく、いかにも殺傷のための武器といった見た目だ。
手に持ってみればずっしりとした質感と、金属の冷たさが伝わってくる。平和な世界に生きてきた僕には、ひどく異様な物体のように思えた。
僕はそれを応接室まで持っていき、ごとりとテーブルに置いた。
「トーラス社製44口径マグナム。なーんか趣味要素が強すぎるんだよな。リボルバーだから整備は楽なんだろうけど」
夏音さんは銃を手に取り、しげしげと眺めながら言った。
「ちょっと構えてみ?」
こちらにグリップを向けて差し出す。僕は最近映画で見た主人公の姿を思い出しながら、見様見真似で銃を構えてみせた。
「全然ダメ。義務教育以前の問題」
善良な日本国民として生きてきただけなのに、なんでそこまで言われなくてはいけないのか。僕は投げやりな態度でいったん銃を下ろす。
「だから撃ったことないんですって」
「仕方ねえなあ」
夏音さんは大袈裟に肩をすくめてから立ちあがると、僕の腕や腰に手を添えながら、基本的な射撃動作のレクチャーをはじめた。
◆
「出発する前に〈檻〉の地理を簡単に説明してやる」
僕がなんとか様になる構えを身につけたあと、夏音さんはどこからか段ボールの切れ端を持ってきて、それに黒いペンで縦長の楕円を書いた。
「これが〈檻〉な。天辺のここがヨコハマ大地下街。左の横っ腹にこの事務所がある。一番下のあたりに中華街」
「右の……海の方ってなにがあるんですか?」
「色々ある。傷ついた暗黒の塔とか、コズミックワールドとか、赤煉瓦城塞とか、ショゴス桟橋とか、ババヤガ公園とか、そういう名前の施設とか場所がゴチャゴチャと。ヤバいカルトの連中がうろついてるから、用がなけりゃ近づくな」
そんな禍々しい名前の場所には、用があっても近づきたくない。
「まあ行くとなったらその都度教えてやるよ。じゃあ、出発するか」
目的地までは三十分ほどでつくという。〈檻〉には電車もバスもタクシーもないため、当然、徒歩での移動だ。僕は腰に挿したリボルバーの重みを感じながら、夏音さんについて早朝の〈檻〉へと繰り出した。
昨日は陽の傾いていた時間だったし、気が急いていたうえ、いきなり屍食猫に襲われたものだから、景色や建物を詳しく観察する余裕がなかった。しかし明るさを増しつつある空の下で改めて見てみると、〈檻〉独特の景観や雰囲気が、目や耳や肌で感じられるのだった。
この場所が行政によって管理されていたのは二十五年以上も前のことだ。建物の多くはそれよりも古く、修繕や増改築の形跡は所々あるものの、老朽化するに任せている物件も多い。
モルタルごと剥げた塗装や、ひび割れたまま放置されたガラス窓、建具が完全に無くなって吹きさらし状態になっている物件もある。車がほとんど通らないせいかアスファルトはややましな状態だが、それでも亀裂や剥離が目立った。
とはいえ生活の痕跡が見て取れる建物も少なくない。道中ではリヤカーを引きながら歩く男性ともすれ違った。ときおり饐えた臭いを放つ生ゴミが投棄されていて、ネズミやカラスの餌となっていた。
健康で文化的かどうかは置いておいて、確かにここで暮らしている人がいる。日本に在りながら、明らかに日本とは違う、この場所で。
「そういえば昨日、助けてもらったときに」
僕はふと思い出したことを尋ねた。
「ん?」
「屍食猫の肉球取ってるとか言ったじゃないですか。アレってなんですか? 美味しいんですか?」
「食べるわけねえだろ。買い取ってくれるヤツがいるんだよ。一個二千円ぐらいで。屍食猫が多くなりすぎると〈檻〉の外に漏れるから、役人が金を出してるんだってさ」
乱暴に言えば害獣駆除のアルバイトだ。一匹につきおよそ八千円。肉体的な危険の割にはかなり安い気がする。
「依頼がないときはそれで食ってる。生きてくにはやっぱ現金が必要だからな」
「……大変な生活ですね」
「クスリ売ったり身体売ったりするよりは楽なんじゃねえの。わたしは〈檻〉の外にも半年だけいたことあるけどな、じゃあそこが楽かっていうと怪しいもんだと思ってる。毎日決まった時間に起きて、決まった場所に行って、人間関係が複雑だから、目上にはニコニコしてなきゃいけない。税金とか警察なんてもんもある。モノだけは溢れてるが、実際手に入るのはほんの一部だしな。お前はどうだった?」
僕は自らの生活を振り返る。決して不幸ばかりではなかったが、それでも楽だと感じたことはあまりない。それでもなんとかやってこれたのは、やはり姫花がいたからだろう。
「よくよく考えると、そんなに楽じゃなかったかもしれません。気を遣うことも多かったし……。というか夏音さん、ここ出身なんですか」
「そうだよ。物心ついたときから〈檻〉ん中だった」
〈檻〉が成立した時期を考えると、そういう人間がいてもおかしくはない。このような場所で育つということが僕には想像できなかったが、彼女もかなりハードな環境で生活してきたのだろう。
その割に悲愴感がないのは性格ゆえか、あるいは周囲の人――もしくは猫――に恵まれたからか。
右手に海を望みながら、まっすぐ伸びる幹線道路を歩く。ヨコハマ大地下街へと近づいていくにつれ、人の気配は薄くなり、街並みは荒廃の度合いを増していった。海風で散らしきれない錆びたような悪臭が徐々に濃くなり、うっすらと漂う瘴気で遠景が赤く霞んで見える。
そのうち見えてきたのは、かつて駅ビルだった建物だ。いまは一面なにやら黒い苔のようなもの覆われており、いかにも怪物の巣窟といったおどろおどろしい雰囲気を発散している。
僕は夏音さんの半歩うしろに付き従いながら、さきほど教えてもらった射撃動作を頭の中で反復する。まだ大地下街の外であるにも関わらず、周囲すべてから屍食猫の気配が放たれているように思え、僕はほんの微かな物音にも反応してしまうほど過敏になっていた。
「今回は東の入口から行く。初心者向けだからな」
彼女が指し示す場所に目を遣ると、そこには横幅の広い地下空間への開口部があった。周囲には僕らと同じように拳銃を持った男たちが何人もいる。
「あの人たちも肉球目当てですか」
「そうだ。あいつらは中に入るだけの度胸がないから、このあたりに出てきたのを集団で狩ろうとしてる」
また別の場所には長い毛の猫が座り込んでいて、僕たちに胡散臭げな目を向けていた。そういえば〈檻〉に来て見た二匹目の猫だ。この猫も喋るのだろうか。
「ほら、早く行くぞ」
試しに挨拶してみようとも思ったが、急かされてしまった。僕は腰に挿したリボルバーを抜いて両手で持ちながら、ゆっくりと大地下街に潜っていった。




