第3話 猫の神話
「〈檻〉ができた大体の経緯は、外の世界で暮らしていた君もなんとなく知っていると思う。でも屍食猫について知る機会はほとんどなかっただろうね。彼らは〈夢幻世界〉と呼ばれる場所からやってきた。横浜駅の地下から屍食猫が溢れ出したのは、なにかの拍子で〈夢幻世界〉と〈覚醒世界〉が繋がってしまったからだと考えられているんだ。そして屍食猫がやってきたのと同じタイミングで、〈夢幻世界〉の猫や人間たちも、少数ながら〈覚醒世界〉にやってきたんだ。横浜駅とは別の経路でね」
〈夢幻世界〉に〈覚醒世界〉。現実離れしたワードに少しくらっときたが、我慢して続きを聞く。
「屍食猫や瘴気の影響で、〈檻〉は両世界が混ざりあった汽水域みたいな状態になっている。秩序ある〈覚醒世界〉を守るという意味では、この場所を壁で覆ったのは正解だったんだと思う。もし放っておいたら、屍食猫の勢力圏は徐々に広がっていっただろう。
とはいえ、そのあたりの大きな話は脇に除けておこう。省吾君はさしあたり、〈檻〉の中がいままで住んでいた場所と違うんだということを意識しておけば足りると思う。でも〈檻〉を理解するにあたって、猫に対する認識は改めておく必要があるだろうね」
既にかなり改まっている気もするのだが、どうやらまだあるらしい。
「ちなみに省吾君は、バステト女神を知っているかな?」
「ええと確か……、エジプトの神様でしたっけ? 猫の頭と人間の胴体を持った」
僕が答えると、所長は満足そうに尻尾をくねくねと揺らした。
「〈覚醒世界〉の認識からすると、それが正解なんだろう。けれど、ぼくたちの理解は違う。バステト女神は、それ自体が完全な存在であって、自らの頭を持つ生き物として猫を、自らの胴体を持つ生き物として人間を造ったんだ。なぜ自らと同じ姿にしなかったのかという理由については諸説あるけれど、一種類の完全な生き物は段々と傲慢になっていく、と考えたのかもしれないね。
猫と人間の二種類を造ったバステト女神はなにを望んだのか。それは理性と知恵を備えた猫、勇気と技芸を備えた人間が互いに協力しあい、調和の取れた世界を築くことだと考えられている。この目的においては、もちろんどちらかが優れているというわけではないし、ましてや片方がもう片方を支配すべきというものでもない。ただ悲しいかな、この考えを忘れている猫が非常に多いんだ」
正直なところ、僕は人間と猫を同列に考えたことはないし、なんなら猫が備えているのは、可愛さと気ままさと怠惰さぐらいだと考えていたから、所長の言葉もすんなりと腑に落ちるものではなかった。
しかし現に理性と知恵を備えているらしい猫が目の前にいる状況では、神妙な顔で頷かざるをえない。
「〈檻〉の外で通用した常識の大部分が、ここでは通用しないかもしれないよ。君がこれまで経験しなかったような危険も、ここには多く存在する。屍食猫だけのことを言っているのではない。悪い猫、悪い人間、ぼくにさえ正体の知れない脅威。もし〈檻〉で妹さんを捜すのなら、君はいままでの認識を改めるのと併せて、具体的な危険に対処する方法も学ばなければならないだろうね」
所長は目つきに神妙な雰囲気を漂わせ、こちらの顔を覗き込む。僕はそれを聞いて、自分よりも姫花のことが心配になった。彼女はいまも無事でいるのか。人間や猫の悪意に晒され、怯えているのだろうか。
「ごめんごめん、少し脅かしすぎたかもしれないね」
「悪い人間って言いましたけど、ここには夏音さん以外にも人は住んでるんですか?」
「もちろん住んでいる」
「あんまり便利で住みやすい場所には思えないですが」
「外の常識で考えればそうだね。肉体的な危険は言うまでもなく、精神的にも決して健全とは言えない。少なくとも、子育てには向かないだろう」
「じゃあ……」
「しかし場合によってはそれを上回るメリットが〈檻〉にはある。具体的に言うと法律とか秩序に関することだね。〈檻〉には警察がほとんど干渉してこないから、違法行為でお金を稼ぎやすいんだ。密輸、密入国、管理売春、違法薬物や銃器の取引、なにをどれだけやっても、〈檻〉にいる限りは取り締まられない。不便さとか屍食猫の脅威を受忍できるのなら、犯罪者たちにとってこれ以上やりやすい場所はないだろうね。だから必然〈檻〉の住民も、外で罪を犯しているか、なにかから逃げてここにやってきた人間が多いんだ」
「女性を攫うような連中もよくいるんですか」
「それなんだけどね。少なくとも頻繁に拉致事件が起こっているとか、そういうことを生業にしてる集団がいると聞いたことはない。この国では、人身売買ってあんまり儲からないんじゃないかな。まして警察の目がある〈檻〉で犯行に及ぶほどの利益があるとは思えないね。なにか特別な意図でもない限り」
「特別な意図ですか」
「心当たりはないかな?」
僕は首を振った。
「まあ、確かなことはまだなにも言えない。ともあれ、シリアスなことは明日から考えればいいよ。今日はなにかお腹に入れて、ゆっくり休みなさい」
「……はい」
そう言われてもすぐにシリアスが振り払えるはずもなく、僕は色々なことを脳裏に巡らせながら、ラムコークが入った目前のグラスをしばらく見つめていた。中の氷がすっかり溶けるころになって、ようやく腰をあげる。
僕はグラスの中身を一気に飲み干してから、ひとまず荷物を置くため、さきほど夏音さんにあてがわれた部屋へのドアを開いた。
そこはひんやりとした空気の漂う六畳ほどの洋間で、パイプベッドと、木製のデスクと、いくつかの段ボール箱があるだけの部屋だった。
壁紙はボロボロになっているが、逆に言えば気になるのはそれぐらいで、居心地は思いのほかよさそうだ。僕はそれほど過敏な体質ではないので、埃っぽさも大した問題にはならない。
僕は家を出る前に用意した着替えを持ち出して、とりあえず汗を流すことにした。事務所の浴室はバスタブと洗面所とトイレが一体になったタイプのもので、少し狭いが使用に不便はない。
水や電気はどうやって供給されているのか気になったが、猫が喋ったり赤い霧が漂ったりする世界だ。あまり深くは考えないことにする。
手早くシャワーを浴びて浴室を出ると、夏音さんがキッチンでヤカンを火にかけたところだった。
「焼きそば作ってるんだけど、食うだろ」
「いただきます。……所長、どっか行きました?」
「夜の見回り。大抵朝まで帰ってこない」
夕方以降にうろつくのは危ないとのことだったが、〈檻〉の猫にとっては、恐れるほどではないのかもしれない。
「顔赤いぞ。大丈夫か」
さきほど飲んだラムコークのせいだろう。僕は酒に弱い。
「飯食ったらとっとと寝ろよ」
夏音さんにも色々と聞きたいことはあったが、アルコールでやや頭がぼんやりしていたし、所長の話で既に消化不良を起こしていた僕は、間もなくできあがったカップ焼きそばをもそもそと食べ終えたあと、早めに部屋で休むことにした。
ベッドに倒れ込むと、改めて疲労が意識される。体力はそこそこある方だと自負していたが、屍食猫から逃げたときの全力疾走が思いのほか応えたようだ。はじめからこれでは、なんとも先が思いやられる。
勢い込んで〈檻〉までやってきたはいいものの、僕はちゃんと姫花を見つけられるだろうか? それ以前に、五体満足でいることができるだろうか?
不安と焦燥と、情けないような気持ちに打ちのめされているうちに、いきなり波乱含みとなった〈檻〉での初日が終わろうとしていた。




