第28話 救出
笛のような音が神殿内に響く。おぞましいショゴスの鳴き声が響く。その不定形の怪物はどろりと壁を伝って僕たちの背後におりたち、ざわざわと蠢きながら主の命令を待った。
「さあ、戯言の続きはどうした? 愚図ども」
「調子に乗ってんじゃねーぞ」
傷を受けてから大人しかった夏音さんが、唸るような怒声をあげた。彼女は低い姿勢のまま、再びシャビスカにコルトの連射を見舞った。
途中までは一度目と同じ結果になった。多少の不意をついたところで、念動力の隙間を穿つことはできなかった。弾丸は空中で静止し、向きを変え、夏音さん目がけて高速で飛来した。
しかし夏音さんは当然に反撃を予測し、助走なしの側宙――常人には想像もできない動き――で回避してみせる。
射撃の結果はそれだけでなかった。この時点で、シャビスカの想定していない要素が一つだけあったのだ。ショゴスの体組織を崩壊させる特殊弾頭の存在が。
シャビスカが撃ち返した弾丸は、僕たちの背後にいたショゴスに吸い込まれた。衝撃で弾頭が砕け、中に詰められていた化学物質が溶け出すと、怪物は緑色の煙をあげながら全身を激しく震わせ、背すじの凍るような鳴き声をあげた。
なにが起こったのか見極めようとしたシャビスカに、ほんのわずかな注意力の隙が生まれる。夏音さんも、所長も、ロゼッタもそれを見逃さなかった。僕にさえ絶好の機会だということが分かった。
二挺のコルトから再び弾丸が放たれ、不可視の障壁をシャビスカの鼻先までたわませる。白と黒の毛皮が稲妻のように疾走し、爪と牙を剥き出して跳びかかる。僕はそれらを視界の端で捉えながら、さきほどシャビスカに妨げられて果たせなかった、姫花の救出に急いだ。よろめきながら走り、彼女の傍らに跪き、その青白くなった顔を覗き込んだ。
姫花は目を閉じ、身じろぎすらしないでいる。
一瞬、嫌な想像が脳裏をよぎり、僕は茫然としかけた。しかしすぐさま正気に戻り、彼女の背中に腕を回して、抱きしめるような格好のまま、闘争の中心から退避する。
なんとかリフトの近くまで姫花を運んできたとき、神殿の中に耳をつんざく絶叫が響いた。声の方向を見てみれば、シャビスカが左眼から血を流しながら、床の上をのたうち回っているところだった。
しかし両眼を潰されてなお、シャビスカは食い下がった。彼女は自分を中心にして強力な衝撃波を放ち、追い打ちをかけようとする所長とロゼッタを引きはがした。そのエネルギーは凄まじく、ぼくはほとんどリフトの柵に押しつけられるようになり、しばらく身体を動かすことさえできない有様だった。
「殺せ……そいつらを殺せ!」
シャビスカがぜいぜいと喘ぎながらショゴスに命じると、神殿の上からぼとぼとと追加の塊が落ちてきて、僕たちを取り囲もうとした。
「ロゼッタ、限界だ! リフトで脱出しよう!」
所長が衝撃波を避けるよう、身体を丸めながら言った。
「しかし、まだバステト秘典のありかが……」
「このままだとショゴスに囲まれる! 君はシャビスカと心中するつもりか?」
ロゼッタは名残惜しそうにしながらも、しぶしぶ所長の進言に従った。夏音さんもまだ戦闘を継続するつもりのようだったが、結局はシャビスカの方を悔しげに見遣ったあと、姫花をリフトへと運ぶ僕に手を貸してくれた。
全員が傷だらけになっているが、動けないほどの者はいない。あとはこの船から逃げ出すだけだ。
僕は拳で上昇のボタンを叩こうとして、すんでのところで手を止めた。そこには既に、腫瘍のようなショゴスの小塊がべっとりとまとわりついていたのだ。
テケリ・リ! テケリ・リ!
「省吾、どけ」
コルトから放たれたロベリアがショゴスを溶解させる。しかし同時にボタンも吹き飛んでしまった。
「あ、やべえ」
僕は思わず夏音さんを責めそうになったが、どのみちボタンがあったところで、リフトが上昇する見込みは薄そうだった。可動部のあちこちにショゴスが絡みつき、機構が大きく損なわれていたからだ。
僕と夏音さんですべてを駆逐できるだろうか? トーラスの残弾はまだ十発以上あるが、距離や腕前を考えると決して余裕のある数ではない。それに視力を失ったとはいえ、シャビスカの脅威も去ってはいない。さらに言えば、すべての危険を排除したところで、神殿の出入口は四十メートルもある垂直な壁の上部だ。
「下は大変なことになっているようよ、ピート」
「例の妹さんは助けられたのかな? ジェニィ」
「ねえ! 私たちの声が聞こえてるかしら?」
「僕たちも行くからおり方を教えてくれよ!」
きょうだいの声がした。いまの僕たちにとってはもっともありがたい加勢だった。
「リフトをあげて! ショゴスがくっついて動かないの!」
ロゼッタが叫んだ。
「いまの聞こえた? あんな重そうなもの、この距離から引きあげられるかしら?」
「やってみるしかないね。僕と君との力を合わせれば、不可能なんてことはないさ」
「ジェニィ、ピート、早く!」
急かすロゼッタの声と相前後して、リフトに強烈な上向きの力がかかる。僕と夏音さんは可動部にひっついたり、足元に這い寄ったりするショゴスを、至近からの射撃で退治していった。
最初はゴリゴリとぎこちなく、やがてズルズルと滑らかさを増し、わずかに付着するショゴスをすり潰しながらリフトは上昇する。地獄の亡者が如きシャビスカの唸り声を聞きながら、僕たちは神殿の出入口へと向かう。
「姫花、姫花。大丈夫か。もう安心だからな」
僕がその小柄な身体を背負うと、弱いながらも耳元に息遣いが感じられた。どうやら薬かなにかで眠らされているだけのようだ。
姫花はまだ生きている。よかった。本当によかった。
しかしまだ気を抜くわけにはいかない。安心するのは無事に船の外へと辿り着いてから、もっと言えば姫花を〈檻〉の外へ送り届けてからだ。
「さあ、脱出しよう」
所長が先導し、三匹の猫たちが続く。夏音さんは後方を警戒しながら、僕と姫花の背中を守ってくれた。
神殿までの階段や通路には、石油が零れたようなテラテラとした痕跡が残っていた。どうやらショゴスたちは海から甲板に這いあがり、船内に侵入したようだ。すべての個体がシャビスカのもとに呼び集められたのか、僕たちを待ち構えているような個体は見かけなかった。人間や猫の教団員も、すでに全滅したか逃げたかしているようだった。
ロビーを通り抜け、緑淵丸の外に出る。ぐらつくタラップを渡り、ようやく確かな地面を踏みしめる。日没を迎えたババヤガ公園では、空からおりる宵の帳と、森から漏れる赤い瘴気が景色すべてを覆いつつあった。
赤煉瓦城塞の方向からは、まだ散発的に銃声が響いてきている。とはいえシャビスカの野望が砕かれた以上、戦闘は遠からず終息するだろう。
屍食猫の危険を考えるなら、この場所も早々に離れた方がよさそうだ。激しく消耗していない者は一人もおらず、たとえ普段は脅威にならない相手にさえ、おくれを取る可能性があった。
僕は背中の姫花に励ましの声をかけ、ひとまずどこまで移動すべきか、所長に尋ねようとした。
しかしそのとき、いましがた離れたばかりの緑淵丸から、ドガン、と強烈な音がした。
ボゴン、ドガン、ズドン。まるで薄い金属の板を拳で殴りつけているようだ。命令を聞かなくなったショゴスが暴走しているのだろうか? いや、なにかもっと統制の取れた、目的を持った動きのような……。
ひときわ破壊的な音がして、緑淵丸の左舷が突き出るように歪んだ。船底に穴でも空いたのか、船体がゆっくりと傾いていく。
僕たちがなすすべもなく眺めていると、次は甲板の一部が派手に吹き飛んだ。そうしてできた亀裂から、黒々としたなにかが現れる。
「なんだ、アレは……」
所長が茫然としたように呟いた。




