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ガンズ&キャットパウズ  作者: 黒崎江治
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第27話 シャビスカ

 薄暗い空間の中、四方を分厚い金属の壁に囲まれ、圧し潰されるような息苦しさを感じる。僕は努めて穏やかな呼吸を繰り返すことで気持ちを保ったが、それでもシャビスカとの対決が近づいてくるにつれ、嫌が応にも緊張が高まる。


 階段の下まで辿り着くと、人間の鼻にも明らかに感じ取れる異臭が漂ってきた。それは花から採った香水と腐った血液が混ざったような、ねっとりと濃く、重たく、胸が悪くなるようなにおいだった。


 儀式の場は近いようだ。


 あたりは静寂に満ちている。肉を切り刻む音も、不穏な詠唱も聞こえない。自分の心音さえ聞こえそうなほどだ。しかし僕の本能は、残忍な肉食獣に狙い澄まされているような、ヒリヒリとした危険を感じとっていた。


 所長もロゼッタも毛を逆立たせている。夏音さんからもピリピリとした殺気が伝わってくる。


 シャビスカがいる。僕たちを待っている。


 トーラスを握る手に、またじっとりと汗がにじんだ。


 機関室への出入口は階段から近い場所にあった。身をかがめなければ通れないほどに小さいが、その奥にはかなり広い空間があるようだ。僕は進んで捕食者の胃に飛び込むような気持ちになりながら、機関室の中へと滑り込んだ。


 内部は暗く、がらんとしていた。幅と奥行きはそれぞれ二十メートルほどだが、深さはその倍以上もありそうだった。以前に機関室であったのは間違いないだろうが、どうやらかなり無茶苦茶な改装が施されたらしい。船底に穴を開け、海底さえ掘り抜いて確保した、妄執さえ感じられる異様な空間だ。


 出入口からすぐのところに、建築現場で使うような荷物用のリフトがあった。せいぜい四、五人が乗れる程度の大きさで、四方を腰までの金属柵で囲んだ簡易的なものだ。遥か下を見遣れば、ランタンの小さな灯が揺らめき、周囲に描かれた得体の知れない図柄を浮かびあがらせている。


 ここが神殿で間違いない。


「……行きましょう」


 僕は率先してリフトに乗り込み、全員がそれに従うのを待ってから、銃把を握った手で下降のボタンを叩いた。


 細かな振動とともに、僕たちは深淵へと吸い込まれていく。リフトの操作盤が放つかすかな光が、壁面に描かれた様々なものを舐めるように照らした。アラベスク模様の中に横たわるバステト女神、異形の獣と猫たちの戦い、空を覆う竜か蝙蝠のような生き物、氷に覆われた山々やその中腹に建つ塔、終末を告げるように燃え盛る彗星。


 壁に描かれているのは〈夢幻世界〉の光景なのだろうか。少なくとも僕が知っている芸術や文化に、こんなモチーフは存在しない。


 リフトはいよいよ底へと近づく。むせかえるような悪臭が濃度を増していく。


 最下部の様子が段々と子細に見えはじめた。巻きひげのような曲線や組み合わされた鋭角、燃え盛る目のような図柄が、腐肉にも似た赤黒の塗料で描かれている。その混沌とした空間の中央には、横たわる姫花と、彼女の上に寝そべる薄紫色の体毛を持つ猫の姿があった。


「姫花!」


 僕はリフトから身を乗り出して叫んだ。薄紫色の猫が物憂げに顔をあげる。右眼の潰れた、醜い顔の猫だった。昨日の夜――随分昔のように感じられる――姫花に化けて僕を襲ったあの猫だ。彼女がシャビスカだったのだ。


 リフトの停止を待たず、僕は柵を跳び越えて床におり立ち、シャビスカに向かってトーラスを構えた。


 しかし僕はすぐに撃つことができなかった。少しでも狙いが外れれば姫花に当たってしまう。さらに言えば、シャビスカの悠然とした佇まいには、安易な行動をためらわせるような威厳があった。以前に対峙したときとは比べものにならない、無慈悲で強大な気配だった。


 夏音さんが僕の傍に立ち、二挺のコルトを構えた。彼女の技量ならば、狙いを誤らずにシャビスカを撃てるだろう。しかしトリガは引かれなかった。血気盛んな射手でさえも、慎重にならざるをえないほどの敵なのだ。


 このとき、所長に聞いた猫殺しのコツなどというものは、僕の頭からすっかり吹っ飛んでいた。


「ネメオス……」


 しわがれた掠れ声で、シャビスカが言った。


「またわたしの邪魔をしにきたか、このおいぼれめ」


「失礼だが、どなたさまだったかな。齢を取ると覚えが悪くなってね」


 所長の挑発に、シャビスカはその醜い顔貌をさらに醜く歪めた。


「姫花を返せ」


 僕はトーラスを構えたまま、ゆっくりと歩み寄った。三十年前の確執にかかずらっている余裕はない。五メートルまで近づけば、誤射の恐れも少なくなる。


 一歩、二歩、三歩。しかし四歩目を踏み出そうとしたとき、急に見えない手が伸びてきて、喉が締めつけられたようになる。


「かっ……あ……!」


「誰が近づいていいと言った?」


 シャビスカが言った。姫花の上で。ゆったりと身を横たえながら。


 気道が潰され、頸動脈が圧迫される。酸素と血液が滞り、気が遠くなる。


「ざ……な……」


「なんだと?」


「ふざ……けるな!」


 妹のもとへ駆けつけるのに、お前の許可なんて必要ない。


 僕は目を剥きながら、膝を震えさせながら、半歩ずつ、数センチずつでも前に進もうとした。トーラスを握る手に力を込め、じりじりとシャビスカに、姫花に近づいていった。


 するとシャビスカが目を細め、紙をこするような声で威嚇した。次の瞬間、僕の喉を絞めつけていた力が消え、代わりに大きな手に張られたような衝撃が襲った。僕は後方に数メートル吹き飛ばされ、リフトの柵に叩きつけられ、全身を襲う痛みとともに激しく咳き込んだ。


「シャビスカァ!」


 夏音さんが吠え、コルトを連射するのが分かった。その銃声は神殿の壁で複雑に反響し、ランタンの灯で照らされた空間に歌のような余韻を残した。


 僕が霞む目で弾丸の行方を確認すると、それらはすべてシャビスカの手前で静止していた。なんとか起きあがろうとしている間に、弾丸は向きを変えて発射され、まとめて夏音さんの胴体に命中する。


「夏音さんッ!」


「夏音君!」


 反撃を受けた彼女はよろめき、傷ついた部位を押さえながら膝をつく。肉にめり込んでいた弾丸が、床に落ちて固い音を立てた。


「クッソが……」


 彼女は苦痛よりも悔しさをにじませた声で毒づいた。重傷ではないようだったが、シャビスカとしてもこれは小手調べの範囲なのだろう。


 所長とロゼッタの協力があっても、対抗できるかどうか。ジェニィとピートはまだ合流してきそうにない。


「あなたの目的を聞きましょう、シャビスカ」


 張りつめた空気の中、ロゼッタが口を開く。


「目的? 目的だと? いまさらそんなことを聞くのか? クセルクの愚かな愛玩猫よ。バステト秘典を手に入れ、ミルカの娘を連れてきたのを知っておいて、いまさら目的がなにかだと?」


「あなたがなにをしようとしているのかは知っています。バステト女神への転生。しかしそれは、あなたにとってどんな意味を持つのでしょうね? 私の予想を申しあげましょうか。あなたは〈夢幻世界〉と〈覚醒世界〉のミックスであるという出自ゆえに、周囲から蔑まれた。だから権力に執着したのです。己を軽んじてきた同輩を見返すため、涙ぐましい苦労をしてきた。女神への転生などという冒涜的な所業も、しょせんは力を手に入れる過程の延長線上なのでしょう。いかがですか?」


「……面白い。続けてみろ」


「若いころに一度試み、無様にも失敗した。それからフェリス秘密教団のような小さな組織の頂点にのぼり詰めるまで、三十年もの長い月日がかかったのは、あなたが神に匹敵するどころか、せいぜい管理職程度の器量しか持たないからではないですか? だから私から提案します。もし教団を解散し、騎士団の軍門にくだるなら、あなたには適切な役職をご用意して差しあげましょう。差し当たって……上下水道の管理などいかがです?」


 冷然とした声で嘲るロゼッタに対して、シャビスカは大きなあくびで応じた。


「まあ、仮にそれが正鵠を射ているとしよう。射ているとして、生まれゆえに軽んじられ、小さい器量を必死に押し広げながら、三十年も耐えてきた……そういう猫が、お前の取るに足りない脳が咄嗟に考え出した安い挑発で、多少でも動揺すると思うのか?


 まったく、それこそ涙ぐましい努力よな。どれ、まだ話すことがあるなら、もう少し付きあってやろうか? お仲間はまだ合流してこないようだが。わたしは一向に構わんぞ? 時間を稼げば有利になるのは、お前たちだけではないのだからな」


 シャビスカが立ちあがって大きく伸びをする。僕たちがなにも言わないでいると、彼女は神殿の上方に目を遣ってから、おもむろに歯ぎしりするような声を出した。


 どこかで聞いたことのある声だ。確か例の桟橋で、虎猫のラシードが……。


 テケリ・リ!

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