第26話 深淵を孕む船
午後五時十二分。廃ホテルで待機していた猫たちが、いっせいに赤煉瓦城塞の方向へ耳を向けた。直後、人間である僕の耳もグレネードの爆発と思しき音を捉えた。どうやらフェリス秘密教団による黒獅子騎士団への攻撃がはじまったようだ。
しかし僕たちの予想によれば、その攻撃は陽動にすぎない。教団の本命は、ババヤガ公園内に係留された船でおこなわれる冒涜的な儀式だ。教団の首魁であるシャビスカは、そこで姫花を利用してバステト女神へ転生することを目論んでいる。
緑淵丸内部の状況は不明ながら、すでに儀式の準備ははじまっているはずだ。それが完了される前にシャビスカのもとへ到達し、姫花を救い出さなければならない。
ロゼッタの指揮で廃ホテルを出発した僕たちは、ババヤガ公園の辺縁に沿って緑淵丸を目指した。
〈檻〉の夕暮れ。空は東から濃紺に染まり、アスファルトの地面は赤い瘴気でうっすらと煙りはじめる。気温は低く、風はわずかな腐臭を孕む。二人と四匹は言葉もなく、静かな足取りで進む。
ホテルを出てから数十メートルも行かないうちに、ババヤガ公園の森の中から、僕たちの進路を塞ぐように二つの影が飛び出してきた。ライオンほどの体躯を持つ屍食猫だ。
いち早く反応したのは猫たち。所長が一匹の正面に立ちはだかり、毛を逆立てて気を引く。その間にロゼッタが電撃のように懐へ入り込み、柔らかい腹部を爪で切り裂いた。屍食猫が苦痛の呻き声をあげるころには、所長もその首にかぶりつき、肉を噛みちぎって致命的な傷を与えていた。
ジェニィとピートはもっとスマートに対処した。盾のような力場で跳びかかる屍食猫を防ぎ、四肢を拘束する。その黒く爛れた身体がふわりと浮かんで逆さまになり、きりもみしながら地面に衝突する。頭蓋骨の割れる嫌な音がして、屍食猫は完全に動かなくなった。
僕と夏音さんは銃を構えながら援護の機会を窺っていたが、結局、猫たちはあっという間に敵を殺してしまった。
「銃を撃つのはもう少し我慢してね。人間のお兄さん」
「音で敵に気づかれてしまうからね。人間のお姉さん」
障害を排除したあとで、僕たちは再び歩きはじめる。途中、屍食猫の唸り声を聞くこともあったが、同類が圧倒された様子を見ていたのか、二度目の襲撃に出くわすことはなかった。
やがて長細い船のシルエットが見えてきた。舳先をババヤガ公園に向け、搭乗用のタラップで陸地と接続されている。
緑淵丸だ。錆びついた深緑色の船体。名前の通り、海藻の繁茂する淀んだ淵から浮かびあがってきたような、おどろおどろしい雰囲気を漂わせている。
これ以上近づくためには、木々に浸食された海沿いの貧弱な道路を進まなくてはならない。身を隠すために森の中を通ってもいいが、そのためには屍食猫の脅威を考慮する必要がある。
「人間の見張りがいるようです。侵入前の発覚は避けられないでしょう」
ロゼッタが耳をひくつかせながら言った。
「このまま道路を進みます」
いよいよ派手な撃ちあいがはじまる。僕は手に汗がにじむのを感じながら、薄闇に目を凝らした。道路から船の横腹に伸びるタラップ上で人影が動いている。ここからの距離はおよそ八十メートル。
僕たちは可能な限り足音を忍ばせたが、船まで五十メートルの距離まで近づいたとき、タラップから警戒の声があがった。さっと猫たちが走り出す。僕たちもそれを追う。
見張りが発砲し、僕と夏音さんの傍でアスファルトが弾けた。すでにいつ命中してもおかしくない距離だ。それでも僕たちは足を止めない。数秒のうちに不安定なタラップへ飛び乗り、船に肉薄する。猫たちが声をあげた見張りに跳びかかり、素早く引き倒した。
それと同時に、船の内部から二人の新手が現れた。僕と夏音さんが弾丸を浴びせると、一人がその場に倒れ、一人は数歩よろめいたあとで海に落ちた。
凛風が用意してくれたロベリアには充分な余裕がある。リロードする暇さえあれば、七、八人は相手にできるだろう。
「いいね、順調だ」
夏音さんが浮かれた声を出す。なんだかんだで、この人は喧嘩が好きなのだ。
僕たちがドアを押し開けるとそこは短い廊下で、少し進むとエントランスロビーになっていた。広さは学校の教室と同じ程度。電灯はついておらず、古風なランタン――これも儀式の一環だろうか――の光が、弱々しくあたりを照らしている。
入ってすぐ、奥の通路から足音がして、二人の教団員と一匹の猫が飛び出してきた。敵味方が互いを認めるやいなや、問答無用で戦闘がはじまる。
弾丸が交錯し、爪牙がぶつかりあい、不可視の力場が渦を巻く。銃声が屋内の空気を揺るがし、腐りかけたフローリングが砕ける。
足元をロゼッタに掠められた男の教団員が、バランスを崩しながらこちらへ向かってくる。僕は相手の射線から身を外しつつトーラスを振りかぶり、銃把で思い切り頭を殴りつけた。膝をついた男の横腹を爪先で蹴りあげると、力を失った身体が仰向けに崩れ落ちた。
夏音さんは女の教団員と撃ちあいながら距離を詰め、見事な足技で相手の銃を弾き飛ばした。そのまま身体を反転させ、顔面を潰すようなうしろ回し蹴りを見舞うと、相手の身体は放物線を描いて後頭部から地面に落ちた。
まず二人。いまのところ、さらなる増援が来る気配はない。
人間の教団員が比較的あっさり無力化された一方で、残った三毛猫は四匹を相手にしつこく食い下がっていた。空間を縦横無尽に跳ねまわり、有効打をことごとく躱していく。攻撃はさして激しくないが、油断すれば致命傷を負いそうな鋭さがある。
「中々に手強い猫みたいね、ピート」
「僕らが引き受けようか、ジェニィ」
ピートとジェニィは相手の目的を時間稼ぎだと判断し、僕たちに先へ進むよう促した。
「任せましょう。きょうだいなら心配ありません」
ロゼッタの言葉に背中を押されるようにして、僕と夏音さんが先頭に立ち、さきほど敵が跳び出してきた奥の通路へと足を踏み入れる。
船の中だけあって、通路の幅も一メートルほどしかない。左右にはいくつか、客室のものと思しきドアが取りつけられている。等間隔に吊るされたランタンが作る光の列は、冥界への道めいて不気味だった。
二、三歩進んだあたりで、こちらを待ち構えていたらしい教団員が二人、通路の奥から突っ込んできた。僕は慌てて前方に身を投げ、うつ伏せの姿勢で射撃を加えた。視界を曇らせる硝煙の向こう、弾丸を浴びて仰け反った二人が揃って床に倒れ、劣化したリノリウムに血の池を作った。
「もっとゾロゾロ出てくりゃいいのに。なあ? 省吾」
「やめてください、こっちは一杯一杯なんですから」
僕たちは血と肉と鉛の欠片を乗り越え、緑淵丸の奥へと進む。客室のあるエリアを通り過ぎると、通路がいくつかに分かれていた。点々と置かれたランタンの灯りは、急な下り階段へと続いている。
「夏音君じゃないけど、敵の数が少ないね。嫌な感じがする。照明の配置もなんだか誘うようだし」
所長がフンフンと床のにおいを嗅ぐ。
「罠があるかもしれないということですか?」
僕は周囲の安全を確認してから、囁くように言った。
「明確な根拠はない。でも、気をつけて行こう。シャビスカは狡猾な猫だ」
「階段の下は……機関室ですかね」
「普通ならそうだろうね。これだけの船なら、エンジンも大きいだろう。その空間を神殿に改造しているのかも」
夏音さんとロゼッタが窮屈な階段室を覗き込む。近くに敵の気配はない。
罠があろうとなかろうと、この期に及んでは進むだけだ。僕たちは反響する足音に神経を尖らせつつ、船の下層に足を向けた。




