第23話 猫サロン
「カダスの凍てつく荒野に……か。今度わたしも使ってみよう。カダスってどこか知らんけど」
「シベリアみたいなところだと思っておけばいいよ」
「北海道より寒いのか?」
ショゴス桟橋から撤収した僕たちは、そこから五百メートルほど移動して、大きなスタジアムのある公園までやってきていた。教団の猫が直接乗り込んできたことを考えれば、事務所もすでに安全な拠点ではなくなっている。
「所長は、どこかで桟橋の動向を見てたんですか」
思えば、夏音さんたちの登場はほとんど完璧なタイミングだった。彼女らの登場がもう三十秒でも遅れていれば、僕はラシードが操るショゴスによって、逃げられないよう脚を折られるなり砕かれるなりされたうえで、再びコンテナに捕らわれていただろう。あるいは脱出を試みることさえ考えられないような、より厳重な監禁場所へ移されていたかもしれない。
「うん。ぼくが事務所に戻ったのは、省吾君が拉致されてそんなに経ってないときだったと思う。銃声を聞いていたし、地面にトーラスが落ちていたから、ただならぬ事態が起こったのはすぐに分かった。ぼくは急いでロゼッタと合流して、情報をこちらに流してもらうよう頼んだんだ。
今回、騎士団の援助が結構あったんだよ。朝には省吾君の位置が知れたから、いつでも奪還できるよう、近くで準備を整えてたんだ。夏音君の体調もかなり戻ってきてたからね。無名の女王から教団の増援がなかったのも、騎士団が牽制していてくれたおかげだ。ぼくが当初思っていた以上に、彼らは省吾君のことを気にかけているのかもしれないね」
そう話しながら、所長は公園内に生えた大樹の根本で足をとめた。僕たちの頭上には青々とした葉の円天井があり、直径数十メートルに及ぶ柔らかな陰を落としている。そこには二十匹ほどの猫がいて、思い思いの小グループを作っては談笑していたり、身体を使った活動的な遊戯に興じていたりした。
「ここは?」
いままで訪れた場所とはまた違う印象を与える、不思議な区画だった。
「サロン的なところだと思えばいいかな。どこにも所属してない猫とか、〈覚醒世界〉出身の猫とか、特に害も益もない連中が集まってる気楽なところさ。中立地帯と言ってもいい」
「おいおいネメオス、益がないってのは失礼じゃないか」
僕たちの会話を聞きとがめ、こちらにやってくる一匹がいた。所長と同じくらい世慣れた感じのするシャム猫で、所長とも知己であるようだった。
「人間を連れてくるなんて珍しいな。別に悪いってわけじゃないが」
「彼女らはぼくの部下だよ。少し事情があって、落ち着いて話せる場所が必要なんだ。迷惑はかけないから」
「ふぅん」
シャム猫はおもむろに僕の足元まで寄ってきて、ふんふんと鼻を鳴らした。僕は名前を告げようとしたが、相手はどうやらにおいにしか興味がないらしく、夏音さんの足首も嗅いだあと、軽く頬をこすりつけてから仲間のところへ戻っていった。
それからしばらくの間、入れ替わり立ち代わり猫たちがやってきた。新参者に対する挨拶なのか、単に危険な人間でないか確かめるためなのか、においを嗅ぎ、ときおり身体の一部をこすりつけては、特になにも言わず去っていくのだった。
「どうやらぼくたちを叩き出そうって猫はいないみたいだね」
猫たちの態度から察するに、所長はこのあたりでちょっとした顔役のようだった。以前口にしていたバランサーという立場も、あながち誇張ではないのだろう。
一通り洗礼を終えたあと、所長がふっと顔をあげる。気づけば赤煉瓦城塞の方角から、ロゼッタが歩いてやってくるところだった。どうやら彼女も僕たちの話しあいに加わるらしい。
「ごきげんよう。ネコノテ探偵事務所のみなさん。ご無事でなによりです」
はじめて出会ったときと同様の優雅な所作で、ロゼッタは所長の隣に腰をおろした。
「で、こっからどうすんだ? 教団はいまごろブチ切れだろ」
周囲の目と耳を憚るように、夏音さんが言った。
「ひとまず情報を整理したいね。そのうえで、今後の方針を決定しよう」
「それがいいでしょう。私からもご相談したい事柄があります」
ロゼッタが所長に同調した。確かに僕が拉致されたせいで、状況に混乱が生じてしまっている。騎士団とも歩調をあわせ、後手に回らないよう行動しなければならない。
そうして僕たちははぐれ猫サロンの一角で、作戦会議をはじめる。
「ぼくたち三人の目的は、深見姫花をフェリス秘密教団より奪還することだ。目下のところ彼女の居場所は不明。ただし、教団の猫であるラシードの話によると、ババヤガ公園に係留されている船の中に、秘密の神殿があるらしい。そう遠くないうちに、シャビスカは姫花君とともにそこへ赴き、バステト女神となるための儀式を遂行するだろう」
「ほう……」
ロゼッタが興味深げに尾を揺らし、少しの間考え込むような素振りを見せた。ラシードの話は彼女もはじめて聞くはずだ。
「この件において、私たち黒獅子騎士団の目的は、教団に奪われたバステト秘典を奪い返すことでした。けれど、ネメオス所長や省吾さんが収集した情報を統合して考えると、シャビスカの儀式遂行阻止こそが、最も喫緊の目的ということになります。そしてそれは深見姫花の奪還と、おおむね同義ということになりますね」
彼女は言った。しかし僕はその言葉にひっかかりを覚え、思い切って口をはさんだ。
「本当にそうですか?」
「おかしいところがありましたか?」
「僕たちの目的と騎士団の目的において、姫花がキーになるのは間違いないと思います。でも、ロゼッタさんたちが儀式を阻止するためには、姫花を排除できさえすればいいわけでしょう。極端な話をすれば、儀式が完遂される前に海へ突き落とすとか、銃で頭を撃ち抜くなんてことでも目的は達せられるんじゃないですか。もし将来のリスクまで排除するなら、姫花を教団から救い出したあとで、僕を含めて殺してしまってもいい」
色々と骨を折ってくれている彼女に、こんな疑念をぶつけるのは心苦しかった。しかし気づかないふりをしていれば、文字通り致命的な局面で表面化しかねない問題だ。
僕の口から姫花を殺すなんて言葉が出てきたからか、夏音さんも所長も意外そうな顔をした。しかしすぐに真意を察してくれたのか、横やりを入れてくるようなことはなかった。
以前に対面したときの印象からすると、クセルクは非常に現実的で冷徹な猫だ。昔馴染みであるはずの所長に対しても、決していい感情を持っていないようだった。そういうことを鑑みると、騎士団が姫花に危害を加える可能性は決して低くない。
「私たちがそうすると、本当にお思いですか」
「ロゼッタさんはすごく親切にしてくれてると思います。あなたが姫花を殺すなんて判断をするとは考えたくない。でも、クセルク団長が命令したとしたらどうです? もしそんなことになれば――」
僕が一瞬言葉に詰まったとき、夏音さんが身を乗り出し、ロゼッタに顔を近づけた。
「もし妹さんに手ェ出したら、シャビスカの前にアンタらを撃つことになるってことだ。そんときの銃口は一つじゃないかもな」
僕は夏音さんの加勢をありがたく思いつつ、頷いた。もちろん、これは非常に無礼な発言であり、ロゼッタがこの場で激高し、協力関係を破棄すると宣言してもおかしくはなかった。
しかし彼女は毛を逆立てたり、爪を出したりはせず、瞳孔をわずかに広げただけで、一貫して落ち着きのある態度を保ち続けた。
「私はこの件に関してかなりの裁量を与えられています。そして現時点で、姫花さんを害する種類のいかなる命令も受け取っていません。もっとも私に言えるのはそこまでで、今後クセルク団長がどのような判断をするかについては、一切保証はできません。とはいえ団長の心中については……ネメオス所長の方がよくお分かりになるのではないですか?」
言葉に含まれた小さなトゲに所長は目を細め、しばらくの間静かに尾を揺らしながら、慎重に言葉を組み立てている様子だった。
周囲の猫たちの話し声と、葉擦れの音がやけに大きく聞こえた。
「クセルクにはいま、騎士団長としての立場がある」
やがて彼は口を開いた。
「それがクセルクの判断にどんな影響をもたらすのかについて、ぼくにはなんとも言えない。ぼくたちがたもとを分かってから、あまりに長くの年月が経ってしまった。でも、ぼくの記憶にあるクセルクは情に篤い猫だ。彼が兄の前でその妹を殺すなんて真似をするとは思いたくない。だから省吾君、ぼくは騎士団と協力関係を続けても問題ないと思う。万が一、騎士団が姫花君に危害を加えるようなことがあれば、ぼくも全力で抵抗すると約束しよう。それでどうかな?」
結局のところ確かなものはなく、僕が彼ら彼女らを信頼するかどうかという問題なのだ。そしていままでのやりとりを思い返してみれば、夏音さんも、所長も、ロゼッタも、信頼に値しないと考える要素はどこにもないのだった。
僕は腹を括ることにした。
「ありがとうございます、所長。妹のことになるとどうも心配で……。ええと、ロゼッタさん。ここまで失礼なことを言っておいてなんですが、改めて、よろしくお願いします」
「構いませんよ、省吾さん。目的と利害の調整は必要なことですし、妹さんを思うあなたの気持ちも十分理解しているつもりです。懸念については心に留めておきましょう。さて……」
ロゼッタはややもったいぶるように前肢の付け根を毛づくろいしてから、騎士団が得た情報について話しはじめた。
「無名の女王を監視している騎士団員から、教団の動きが活発化しているとの報告があがっています。長射程のライフル、擲弾発射器、爆発物が搭載可能な無人飛行機などが運び込まれているという内容です。これらは近々赤煉瓦城塞への攻撃があることを示唆していますが、おそらく拠点の制圧が目的ではないでしょう」
「囮だな」
夏音さんが言った。
「はい。重要な儀式から目を逸らすための陽動と考えるのが自然です。とはいえ、さすがにわたしたちも無視するわけにはいきません。赤煉瓦城塞の施設が破壊されれば、〈檻〉のインフラにも大きな影響出てしまいますから、万全な防御態勢を敷かなければなりません。
一方で、儀式の阻止も確実に成功させる必要があります。それらを踏まえて、私はクセルク団長に小部隊での神殿潜入を提案するつもりです。その際、省吾さんたちがそのメンバーに加わることも進言します。目的はもちろん、教団の首魁であるシャビスカの排除、および深見姫花の救出です」
言うなれば、特殊部隊に混じってテロリストの拠点に突入するようなものだ。危険度としては当然、これまでにないほど高いものになる。しかしここで座しているだけなら、僕はいったいなんのために〈檻〉へ来たのか。
「いつやるんですか。その潜入は」
僕は勢い込んで尋ねた。
「早すぎればシャビスカを逃がしますので、儀式の遂行直前、つまり無名の女王から赤煉瓦城塞への攻撃が開始される前後ということになります。とはいえ、そう遅くはならないでしょう。正確な時刻は知れませんが、本日の夕方になるかと。それまでは、探偵事務所の皆さんも英気を養っていてください。準備ができ次第無線を入れますから、必ず連絡がつく状態にしておくように」
あと数時間。僕としてもそれ以上じっとしていることはできそうになかったので、丁度いいタイミングなのかもしれない。
「つまり、それまでは自由時間ってことか? 所長」
「うん。ぼくとしては別段指示もないかな」
「なら、ちょっと省吾を借りるぞ」
「なにか用が?」
「飯、食いに行ってくる」
所長が怪訝そうに夏音さんを見あげる。
「省吾もいいだろ? なんかあるか?」
「……いえ、ご一緒します」
夏音さんがなにを意図しているのかいまひとつ分からなかったが、これ以上の準備も必要ないと考えた僕は、彼女と遅めの昼食を摂ることにした。




