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ガンズ&キャットパウズ  作者: 黒崎江治
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第22話 犠牲

 衝突の勢いはさほどでもなかったが、その黒い物体は軟らかい泥のように広がってへばりつき、僕たちの視界を奪ってしまった。


 それだけではない。僕が驚きから立ち直らないうちに、物体の表面から無数の眼球が現れ、こちらを窺うようにギョロギョロと動きはじめたのだ。


「クソ、ショゴスだ!」


 権藤さんはスピードを緩めない。しかし三十メートルもいかないうちにタイヤが空回り、エンジンが妙な音を立てはじめた。ショゴスが駆動部にも絡みつき、車の動きを内外から邪魔しているようだ。


 悪臭が車内に充満し、例の笛に似た鳴き声があちこちから聞こえてくる。


 テケリ・リ! テケリ・リ! テケリ・リ!


 こちらを嘲るような響きに、僕の背すじが寒くなる。


 知性と残酷さを備えたショゴスによって、やがてライトバンのエンジンは完全に停止し、桟橋の出口まで五十メートルの距離を残して、完全に立ち往生してしまった。


「走りましょう!」


 これ以上ライトバンに留まるのは危険だ。僕は慌てて車外へ転がり出た。桟橋では海から這いのぼってきたショゴスが、絶えず沸き立つように蠢きながら、僕たちの進路を完全に塞ごうとしていた。


 現れたショゴスの数や大きさは容易に表現できない。それは頭や胴体といった部位を持たない不定形の怪物だった。いまいる全体が丸々一匹なのか、何匹もの個体が融合しているのかすら判別できない。あえて容量を推し量るならば、ゆうに二トントラックの荷台を一杯分にはなるだろうか。その巨体が桟橋の上にべっとりと広がっている様子は、踏み入った生物を決して逃がさんとする毒沼のようだった。


 桟橋の出口まで走れば十秒足らずの距離。僕と権藤さんは銃を乱射してショゴスを退けようとしたが、不定形の黒い肉体は弾丸などものともしない。やむなく僕たちは無理やりショゴスの妨害をすり抜け、活路を見出そうと試みた。


 僕は走りながら身体をひねり、跳びすさり、ショゴスから伸ばされた幾本もの偽足を辛うじて躱す。変幻自在な肉体は確かに脅威だ。しかし敏捷性という観点で言えば、ショゴスは人間に及ばない。いったん距離を取れれば、そのまま逃げ切ることができるだろう。


 僕が希望を抱いた矢先、すぐうしろで権藤さんが毒づき、苦痛の呻き声をあげるのが聞こえた。捕まってしまったのだ。


「権藤さん!」


「ああああああああ! クソ! クソ! クソがッ! 放せッ!」


 僕は権藤さんに手を貸そうと振り返った。しかしそのときにはもう、ショゴスが彼の下半身をすっかり覆い、筋肉や骨を破砕機のようにぐしゃぐしゃと潰していた。


 助けることはまったく不可能だった。僕は嫌悪や悔しさを振り切るように、前方へ向き直る。


 しかし僕が気を取られているうちに、ショゴスが進路を塞いでしまっていた。伸びあがった巨体が高さ二メートルの壁を作り、その表面に浮かぶ無数の眼球がこちら見おろしている。


 テケリ・リ! テケリ・リ!


 背後で権藤さんの絶叫が響いた。僕には彼の最期を確かめる勇気も余裕もなかった。


「バカだなあ、ここから逃げ出そうなんて」


 そのとき、建屋から桟橋におり立つ影があった。非常に大柄な黄色い虎柄の猫。ラシードに違いない。


「別に人間の手下が死ぬのは構わないんだけどさ、おれを煩わせないでほしいよね。余計な仕事を作られると困るんだよ」


 ショゴスの壁に隙間なく囲まれた空間。僕は相手が身構える前にと、自動拳銃でラシードを狙い撃ちにした。しかしその猫はでっぷりした体躯に似合わぬ反射神経と俊敏さを発揮し、たやすく弾丸を回避した。


「人間が猫を殺せると思っちゃってるのかな? そういうのだよ、そういうの。無駄なんだからとっとと降参すればいいのに」


 僕は銃を持つ腕が異様に重くなるのを感じた。シャビスカに襲われたときほどではないが、ラシードの念動力によって身体の自由が奪われているのだ。必死に抵抗してはみるが、どうにもならない。


「ほら、ほら、もう諦めなよ、面倒臭いなあ。別に殺しちゃってもいいんだよ? そうすればこれ以上変な気を使わなくて済むもんね」


 状況は絶望的だった。しかし僕は降参を口にしなかった。明確な目算があったわけではない。ただの意地だ。


「とりあえず脚の一本でも潰しとこうか……」


 ラシードが歯ぎしりするような唸り声をあげると、それに反応して周囲の壁がざわざわと蠢いた。そして一本の太い偽足が伸び、僕の近くまで空中を這い進んでくる。


 事態が変化したのはそのときだった。


 連続する銃声が響き、僕を囲むショゴスの一部――桟橋の付け根方向――が緑色の煙をあげてどろりと崩壊したのだ。


 ラシードが僕から注意を外し、不可視の拘束が解かれる。僕は自由になった身体でショゴスから距離を取りつつ、なにが起こったのかを見極めようとしていた。


「省吾! しゃがめ!」


 夏音さんだ。数十メートル先から、二挺のコルトを手に走ってくる。


 僕が言う通りに頭をさげると、何発もの銃弾が周囲のショゴスに命中し、気味の悪い煙を発生させた。


「ああ、もう! また厄介ごとだ!」


 ラシードが苛ついたように叫び、大きく跳躍して建屋の庇にのぼる。安全な場所からショゴスを操るつもりのようだ。しかし彼が態勢を立て直したときには、すでに夏音さんが僕のすぐ近くまで来ていた。


「ホラ、お前のトーラスだ。凛風(リンファ)のお土産も装填(はい)ってる」


 僕は彼女が突き出した腰のベルトから自分の銃を引き抜き、振り返りざま、ショゴスの壁に向けて発砲した。


 さきほどまでの鬱憤がこもった一発。早乙女さんお手製の弾丸は大きな効果を発揮した。弾頭に詰められた化学物質がショゴスの細胞を崩壊させ、命中した部分にぽっかりと穴を空けた。


 ショゴスは例の不気味な鳴き声をあげながら、目一杯広げていた肉体を収縮させ、小山のような塊に姿を変える。特殊弾頭(ロベリア)によって苦痛を感じているようではあるが、致命傷を与えるのは簡単でないようだ。


「夏音さん、さっきのデブ猫がショゴスを操ってるみたいです」


「おう。そっちは所長に任せてある」


 僕たちがショゴスを牽制しながら桟橋の出口へと向かいはじめたとき、建屋から二匹の猫が落ちてきて、激しい格闘戦をはじめた。小さな黒と大きな虎柄。所長とラシードだ。


 二匹の体格差は歴然だったが、所長は手数と技量で相手を圧倒した。間もなく地面に引き倒されたラシードは、急所である首元を爪で押さえつけられ、ぜいぜいと喘ぎながら仰向けになった。


「夏音君、ショゴスを撃退してくれ。彼をここで尋問する」


「よし。省吾、ありったけやってやれ」


 形勢有利となった僕たちは、ショゴスの巨体に次々とロベリアを叩き込んでいった。操り主の戦意が挫けたいま、忠実だった怪物も踏み止まる理由をなくしたようで、やがて組織のほぼ半分を失いながら、安全な海へと撤退していった。


「一つだけ聞く。深見姫花は、ミルカの娘はどこにいる?」


 所長がラシードを押さえつけながら、冷徹な声で言った。


「知らない」


 とぼけたような口調に、目にも留まらぬ前肢の報復。


「ああっ、うう……痛いよ……やめてくれよ……」


「ぼくが三十年前にやったことを、シャビスカから聞いていないのか。お前のようなノロマの喉笛を、いくつ引き裂いたか知らないのか。次にお前が正しく答えなければ別の猫を探す。答えが見つかるまで殺して探すだけだ。お前の意地にはなんの価値もないぞ。これで聞くのは最後だ。深見姫花はどこにいる?」


 年季の入った脅しに、所長よりも遥かに若輩らしいラシードは震えあがった。彼はミャオミャオと甘える仔猫のような鳴き声を発してから、いじらしい口調で話しはじめた。


「いま、その女の子がどこにいるかは本当に知らないんだ。でも、ババヤガ公園の端に、廃船があるだろ? あそこの中に秘密の神殿があるんだよ。シャビスカは必ず女の子をそこに連れて行くはずだ。そこで儀式をやるつもりなんだから。本当、本当だよ」


「秘密の神殿?」


「ふ、船の中に入口があるんだよ。おれは行ったことがないから、これ以上は本当に知らない。これ以上は言えないよ。な、な? もう行かせてくれよ」


「なら、行け」


 所長がラシードの首から前肢を外して言った。


「二度と顔を見せるな。次に見かけたら、カダスの凍てつく荒野に送ってやるぞ」


 ラシードは頭を低くしながらじりじりとあとずさり、しばらくなにか言いたげにしていたが、やがてぱっと背を見せると、飛び出すように逃げていった。


「……さて、こんなところかな。多分嘘はついてないだろう。しかしババヤガ公園とはね。教団は色んな所に施設を持ってるんだな」


「所長、ありがとうございます。助かりました」


 僕は言った。所長と夏音さんが現れなかったら、いまごろ僕も権藤さんと同じ運命を辿っていただろう。


「諸々の話はあとにしよう。教団の増援が来ないうちに、安全な場所まで退避だ」


 桟橋を去る前、僕は一度だけ振り返り、権藤さんがショゴスに捕えられたあたりを見つめた。そこにもはや遺体はなく、彼が果敢に戦った証として、地面にこびりついた血痕と、教団員から奪った銃があるだけだった。

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