第2話 ネコノテ探偵事務所
僕を屍食猫から救ってくれたのは、カラフルなジャンパーを羽織り、少し日焼けした肌を持つ活発な印象の女性だった。顔立ちは美人といって差し支えないが、その目からは鋭い野生が覗き、どこか危険な雰囲気を発散させている。
「おい、大丈夫か。兄ちゃん」
彼女はさきほど発砲した銃を腰のベルトに挿しながら言った。左手に提げたビニール袋の中には、飲料の瓶やペットボトルが見える。どうやら買い出しの帰りだったようだ。
僕はゆっくり立ち上がろうとしたが、うまく脚に力が入らなかった。地面に手をつき、生まれたての仔鹿よろしくガクガクと膝を震わせる。なんとも格好のつかない姿だが、もう少しで死ぬところだったのだから仕方がない。
「情けねえなあ」
女性が歩み寄ってくる。手を貸してくれるのかと思いきや、彼女はそのまま僕を通り過ぎ、いましがた仕留めた屍食猫の傍にしゃがみこんだ。なにをするのか見ていると、ジャンパーのポケットから小型のノコギリを取り出し、屍食猫の肢をゴリゴリと切っている。
「……なにやってるんですか?」
「見りゃ分かんだろ。肉球取ってんの。欲しいとか言うなよ。わたしが殺したんだから」
別に欲しくはない。
「兄ちゃん〈檻〉の外から来たのか」
「はい」
「死にたくなかったら夕方以降はうろつくなよ。もう宿に帰って飯食って寝ろ」
女性はぞんざいな手つきで肉球を切り取り終えると、四つのそれを飲料の入ったビニール袋に放り込んだ。
ようやく脚がしっかりしてきた僕は、腿や尻の埃を払い、女性に近づく。足元で屍食猫の体液がぬちゃりと音を立てた。
「この辺って、ホテルとかあるんですか」
「ない。ホテルっぽい廃墟ならあるけど。お前、泊まるところないのか?」
しゃがんだままの女性がこちらを見あげた。眼力が強いので、つい顔を逸らしたくなる。それでも僕は命の恩人に失礼があってはいけないと思い、彼女の顔を正面から見つめた。
「そうみたいです。あの」
「ん?」
「助けてくれてありがとうございます」
頭を下げた僕に対して、女性は面倒そうにヒラヒラと手を振った。
「それで、ありがとうついでなんですけど」
思い切って尋ねてみる。
「なんだよ」
「妹を捜してるんです。名前は深見姫花。十八歳で、ショートカットで、身長はこれぐらい。知りませんか」
「知らん。この辺にいんの?」
「多分」
「ふぅん。まあ、見かけたら教えてやるよ」
突き放すように言ったあと、女性は立ちあがり、少しばかり葛藤するような表情を見せてから、僕の目を覗き込んだ。
「で、宿はどうするつもりなんだよ」
「頑張って探します」
「知り合いとかいねえの?」
「いないですね……」
女性は低く唸る。
「お前の名前」
「え?」
「名前教えろよ」
「深見省吾といいます」
「年齢は?」
「二十二です」
「年下か……」
女性は腕を組んでしばらく黙ったあと、再び口を開いた。
「お前、ウチに来い。泊めてやるから」
「あなたの家に?」
「あなたはやめろ。気持ち悪い」
「すみません」
「夏音でいい。わたしの名前だ。行くのは家っていうか、事務所だけどな」
「ありがとうございます、夏音さん。助かります」
「ここでサヨナラしてお前が食われたら、わたしのせいみたいになるだろ」
はじめは不愛想に思えたが、実は情に篤い人のようだ。〈檻〉のような場所にもいい人はいるんだな、としみじみする。
「ぼーっとすんな。とっとと行くぞ」
彼女は長い髪をたなびかせながら、悪臭の漂う夕暮れの路地を歩きはじめた。
◆
夏音さんの住居兼事務所は、僕が襲われた場所からほんの数十メートルしか離れていなかった。大きめの通りを一本奥へと入った先に建つ、すすけたクリーム色の雑居ビル。導かれるまま狭い共用階段を二階まであがると、表札もついていないアルミのドアがあった。
夏音さんに続いて中へお邪魔する。入ってすぐ、外観から想像したよりも広い応接室が目に入った。
「おかえりなさい」
どこからか、夏音さんの帰りを迎える声がした。男性らしいが、部屋には誰もいない。
いや、正確には猫が一匹いる。艶のある黒い体毛と、輝く金色の目を持った立派な猫が、窓際のスツールで丸くなり、尻尾をゆらゆらと揺らしていた。
「夏音君、その人は?」
猫が言った。聞き間違いではない。
「喋った……」
「そりゃ喋るだろ」
夏音さんが鼻を鳴らした。
「え? いや、普通なんですか?」
困惑しながら黒猫を見つめていると、彼――声からしてオス――はスツールから降り、足元に寄ってきてにおいを嗅いだあと、僕の顔を見て瞳孔を膨らませた。
「君は〈檻〉の外から来たんだね。なら驚くのも無理はない。外の猫は人前であまり喋らないから」
あまり、ということは、たまには喋るのか。僕の混乱をよそに、夏音さんと黒猫は普段通りといった様子で会話を続ける。
「宿がないっつーから仕方なく連れてきたんだよ」
「そうなんだ。ぼくはてっきり依頼人かと思った」
黒猫はうしろ肢で耳をかきながら言う。
「依頼人っていうのは、どういうことですか」
「ここは探偵事務所なんだよ。ぼくが所長で、そこの夏音君が職員」
喋る黒猫が運営する探偵事務所。ほかにあてがないとはいえ、妙なところに連れてこられてしまった。
「まあ、立っててもアレだからとりあえず座ったら?」
応接室の中央には古ぼけた黒革のソファとガラス机がある。言われてみれば、確かに探偵事務所に見えなくもない。僕は黒猫に勧められるままソファに腰をおろし、キョロキョロとあたりを見回した。
調度は少なく、殺風景と言ってもいいほどだ。ソファセットのほかには木製の本棚とクローゼット、灰色のキャビネット、大きな冷蔵庫があるだけ。白い蛍光灯と床のリノリウムも、部屋のうら寂しさを増している。あまり景気はよくなさそうだ。
「あらためまして、ネコノテ探偵事務所へようこそ。ぼくは所長のネメオス。夏音君の名前は、道中でもう聞いたかな」
ネメオス所長は僕の対面に座って言った。
「はい。僕は深見省吾といいます」
「省吾君だね。ここに来たのもなにかの縁だ。大したものはないけど、ゆっくりしていくといい」
はじめは面食らったが、優しい人だ。いや猫か。
「コイツの妹さんが行方不明なんだってさ」
冷蔵庫に飲み物をしまっていた夏音さんが戻り、所長の隣に腰かけた。その手にはドリンクの入った背高のグラス。彼女はいつのまにかジャンパーを脱ぎ、黒いタンクトップ姿になっていた。二の腕から腰にかけての引き締まったシルエットが、優れた身体能力を窺わせる。
「夏音君、自分だけじゃなくてお客さんにも飲み物出してあげなよ」
そう言われた夏音さんは肩をすくめて、持っているドリンクを僕に差し出した。お礼を言ってひと口飲むと、アルコールの苦みがある。
コークハイだろうか。僕は酒類が苦手な性質だが、いまはひどく喉が渇いていたし、別のドリンクを求めるのも憚られたので、もうふた口飲んでからグラスを置いた。
「少し事情を聞かせてくれるかな」
ネメオス所長に促されて、僕はごく簡単な生い立ちと、姫花が行方不明になるまでの経緯を語った。僕がいかに姫花を大切に思っているかに話が及ぶと、夏音さんはやや渋い顔になり、所長の方をちらりと見遣った。
「所長の好きそうな話だな」
夏音さんは立ちあがって冷蔵庫へ向かい、自分の飲み物を作る。キッチンに立つ彼女の傍らに、大きなラム酒の瓶がちらりと見えた。
「ありがとう省吾君。大体の事情は分かった。人を捜しているという君が探偵事務所に辿り着くというのは、なんとも数奇な巡り合わせだね」
「捜してもらえるんですか」
「うん。最近あんまり依頼がなくて、夏音君も半分屍食猫ハンターみたいになってたから、むしろ歓迎したいところだ」
「ありがとうございます」
「カネは持ってんのか?」
夏音さんが戻ってきた。手にはグラス入りのラムコーク。
「もちろんです」
僕の銀行口座には充分な貯蓄がある。金額だけで言えば、一週間やそこら探偵を雇うのは難しくない。
「でも、それは妹さんの学費なんだろう?」
所長が言った。
「それはそうなんですが、当の妹がいなくなってるので……」
「戻ってくれば当然必要になるお金だよ。取っておきなさい。ただ、もちろんウチもただでやるわけにはいかないからね。依頼の分は、身体で払ってもらいたいんだ」
僕は夏音さんの方を見た。……身体でというのは、つまり?
「なに考えてんだ。バカ」
「違う違う。いやらしい意味じゃなくて、省吾君自身も仕事を手伝ってほしいってことだよ。なにせ、いまこの事務所に所属してるのは彼女だけだからね。臨時のアルバイトとして働いてもらって、給料と依頼料を相殺しよう。確かに〈檻〉は危険な場所だ。けれど、さっき言っていた妹さんへの気持ちが本物ならば、君としても望むところだろう?」
妹が行方不明なのだ。もとよりじっと待っているつもりはない。土地勘のある人と一緒に姫花を捜すことができ、なおかつ依頼料も減免されるというなら願ってもない話だ。
〈檻〉の中をうろつくのが恐ろしくないと言えば嘘になる。しかし僕は所長の推察通り、喜んで提案を呑むことにした。
「やります。命より大事な妹ですから」
「よし、じゃあ決まりだね」
「仕方ねえなあ」
「夏音君はこういう態度だけど、実は面倒見のいい性格だから、心配しなくていいよ」
「うるせえ。……ああ、そうだ。部屋だけど」
彼女は思い出したように立ちあがり、事務所の奥に二つあるドアの一つを開けた。
「お前のはこっちな。ずっと使ってなくて埃っぽいけど、寝るだけならそんなに困んないだろ。もう一つの部屋はわたしのだから、勝手に覗いたり入ったりするなよ。シャワーとトイレはこっち。食いもんと飲みもんは冷蔵庫に入ってるから適当にな」
なにからなにまでありがたい。僕は何度もお礼を言うと、夏音さんは少しうっとおしそうな顔をしながら、自分の部屋に引っ込んだ。
時刻は午後七時前。外はもうかなり暗くなっている。自分で寝床を探す羽目になっていたら、屍食猫に襲われなくともさぞ心細かったことだろう。
物思いをしながら窓の外を眺めていた僕は、空中に赤い霧のようなものが漂っていることに気がついた。周囲に出所となるようなものは見当たらない。目にしたことのない気象現象だが、〈檻〉特有のものだろうか?
所長に尋ねてみる。
「アレはね。異界から漏れ出てくる瘴気だよ。夜になると特に濃くなって、屍食猫を活発にする。だから〈檻〉の住人は、夜ほとんど出歩かない。出歩くとしても必ず銃を持っていく」
「……僕は、いままで〈檻〉に縁のない生活をしてて」
「うん」
「ここは一体どういう場所なのか、全然知らないんです」
屍食猫と呼ばれる怪物が出るということぐらいは知っていたが、実際に足を踏み入れてみれば、猫は喋るし、赤い瘴気は漂うし、軽々しく銃という単語は出てくるしで、戸惑いが隠せない。
「そうだね。省吾君は完全に新参みたいだし、ぼくが基本的な知識をレクチャーしてあげよう。夜はまだはじまったばかりだし」
そう言うと、所長はときおり物憂げにまばたきをしながら、〈檻〉について穏やかな口調で語りはじめた。




