第19話 望まれぬ訪問者
所長が施してくれた治癒の効果は素晴らしく、三時間ほど休息を挟んだ僕の身体には、痛みも腫れもほとんど残らなかった。しかしより深刻なダメージを受けた夏音さんは、しばらく経っても目を覚まさなかった。僕と所長は彼女を事務所に移そうと話したが、凛風がまだしばらくは寝かせておけと言うので、結局はその厚意を受けることにした。
そうして夏音さんをヤナギ堂に残し、僕と所長はネコノテ探偵事務所へと戻る。
「コズミックワールドでは、なにか収穫があったかな」
言葉少なだった所長が口を開いたのは、僕がシャワーを浴びて血と汚れを落とし、カロリー補給のために、応接室のソファで牛乳をがぶ飲みしていたときだった。
「……すみません。いままで頭から抜けてました」
「まあ、ショックなことがあった直後だからね」
「コズミックワールドでの経験も、それなりにショックではあったんですが……、それはそれとして」
僕はかの場所でアルハズラッド氏から聞いたことを、詳しく所長に報告した。もっとも重要な点は、フェリス秘密教団の現トップであるシャビスカという猫が、バステト秘典と姫花――女神の祭司であるミルカの血筋――を利用して、自らバステト女神となろうとしている、ということだ。
「シャビスカがバステト女神になることでなにが起こるのか……。そこまでは聞くことができませんでした。所長には見当がつきますか」
「詳しいことは僕にも分からないけれど、彼女がこれまでになく強い力を手に入れたのなら、少なくとも〈檻〉の外への進出を目論むだろうね。権勢を振るうのはこの狭い地域の中でだけにしよう、なんて謙虚な考えがあれば、そもそも神になんてなろうとしない。いま話したことはロゼッタに伝えたかな?」
「まだです」
「なら、ぼくから共有しておこう。省吾君はなるべく安静にしていた方がいいね。傷とか炎症は抑えられても、体力を回復するには食べて休まないといけない」
僕はふと思い立ち、所長が出口に向かところを引き留めた。
「なんだい?」
「いえ……なんというか……。所長は僕を止めないんだな、って。夏音さんなんか死ぬところだったんだし。別に、止めてほしいというわけじゃないですけど」
我ながら妙なことを口走っていると思う。しかし所長はおざなりな態度を見せず、柔和な金色の目を細めながら、宥めるような声で言った。
「君の気持は分からないでもない。もしかしたら、危険を受け入れつつある自分に戸惑っているのかもしれないね。ときとして脅威それ自体よりも、脅威に適応している自分が恐ろしくなる、なんてこともあるだろう。でも、それでいいんじゃないかな。これまでと違った環境で生きていくには、どうしたって変化が必要だからね。
夏音君のことについては、そういう生き方が好きなんだから、ぼくがどうこう言う話じゃない。彼女は身体を売ったり、薬を売ったり、媚を売ったりする代わりに、いまの生き方を選んだんだ。止めたところで止まらないさ」
なんにせよ、と所長は続ける。
「ぼくは君を応援しているよ。多分、夏音君も応援しているんじゃないかな」
「そう思いますか」
「うん。そもそも彼女、年下の人間にはかなり肩入れするタイプなんだよね。先輩気質っていうかさ。昔に働いてた売春宿の嬢も、みんな妹みたいなもんだったって言ってたし」
「昔……って、そのころは夏音さんもだいぶ若いんじゃないですか」
「ここは無法地帯だから、外の店より幼い嬢もたくさんいるんだよ」
「ああ……」
「まあ、省吾君が年下だということを差し引いても、彼女は君に好意を持ってると思う。しっかりと芯があって、小狡いところがないからかな」
「……裏切らないようにしないといけませんね」
「その点に関して、ぼくは全然心配していない」
尻尾をくねくねと動かしながら、所長は言った。
「引き留めてすみませんでした。ロゼッタさんに会うんですよね? お気をつけて」
「うんうん。いまの問答で、少しでも迷いが晴れたならいいんだけど」
僕は所長の外出を見送りがてら、立ち上がって大きく伸びをした。明日になれば、夏音さんも多少は元気になるかもしれない。そうしたらまた作戦を立てて、姫花の救出に動くとしよう。伴う危険がどれほどになるのかは、まだはっきりと見通せているわけではないけれど。
就寝までの時間を持て余し、キッチンや部屋の掃除などをしていると、日没の少し前に凛風が尋ねてきた。夏音さんの着替えを取りにきたとのことだった。
「夏音ちゃんはもう起きてるけど、今日は泊まらせるぞ。一緒に寝るの久しぶりだ」
「早乙女さんの寝床、奪っちゃってませんか」
「まあな。でも早乙女サンは早めにやっておきたい作業があるって言ってたから、朝になってから眠らせればいい。……ほら見ろ、これ、夏音ちゃんの下着。結構可愛いの着てるだろ? ワタシが選んだんだけどな」
「見せなくていいです」
水色に染めた髪とピアスを揺らして、凛風はカラカラと笑う。
「夏音ちゃん、省吾のこと心配してたぞ。アイツは大丈夫だったかって。ワタシがここ来たのは、様子見てこいって言われたからでもある。これバラしたの、夏音ちゃんには秘密」
「……元気そうだったって伝えてください。迷いもなさそうだ、っていうことも」
「ふふん。リョウカイした」
彼女が帰ってから、僕は応接室の掃除にも取りかかった。床、ソファ、テーブル、所長お気に入りのスツール。無心に手を動かすことで、逸る気持ちを多少なりとも発散できた。
ひと通り綺麗にしたあとは、通風のために窓を開ける。流れ込んでくる空気は湿りけを帯びており、夕刻以降の雨を予感させた。
◆
深夜。姫花に呼ばれた気がして、僕は目を覚ました。
ベッドから起き上がり、両手で顔面をこする。いまのは多分、僕の焦りが見せた夢なのだろう。ここに姫花がいるはずはないのだから。
いや、本当に?
ここは〈檻〉だ。そして姫花も〈檻〉のどこかに捕らわれている。彼女が監禁場所から逃げてきて、僕に助けを求めている可能性だってないとは言えない。
もう一度、呼び声が聞こえた。
すっかり目の冴えてしまった僕は、音を立てずにベッドからおり、自室を出た。暗い応接室は静まり返っており、誰かがいるような気配はない。所長もいまは見回りに出かけているようだ。電気をつけて確かめてみても同じことだった。
そのまましばらく耳を澄ましていると、事務所のドアを控えめに叩く音がした。
「兄ちゃん、いるの?」
その声は言った。紛れもなく姫花の声だった。
本当はすぐにでもドアを開けたかったが、コズミックワールドの例もある。僕はつかのま躊躇してから、いったん自室に戻り、デスクの引き出しに仕舞ってあるトーラスを持ち出した。
ノックが繰り返される。もし姫花が命からがら逃げてきて、すぐ背後に追手や屍食猫が迫ってきているのだとしたら、一秒を争うかもしれない。
僕は逸る気持ちを抑え込みつつ、外開きのドアをゆっくりと開ける。
果たしてそこには、怯えた表情の姫花がいた。
「よかった……兄ちゃん」
僕より二十センチ低い背丈、ショートカットの黒髪、恐怖と疲労によるものか、顔は少しやつれ、目元にもクマがある。
姫花がドアを押し広げ、僕の胸に頭を預ける。僕はそれを拒否することも、抱きしめることもせず、うしろ手にトーラスを隠しながら、どんな態度を取ればいいか判断しかねていた。
感情は無心に再会を喜べと唆す。理性はまず疑ってかかれと戒める。
「どうしてここが分かったんだ?」
葛藤の末、僕は尋ねた。
「猫ちゃんが教えてくれた」
姫花が僕の胸から顔を離し、自らの背後を指し示す。僕は伸びあがるようにして覗き込んだが、そこにはただ闇がわだかまっているだけだった。
次の瞬間、ぐん、と身体が前にのめる。姫花が僕のバランスを崩すように、思い切り腕を引いたのだ。それはおよそ彼女らしからぬ強い力だった。僕はよろめき、前方の壁に頭をぶつけ、足を踏み外して共用階段を転げ落ちた。
姫花ではない。やはり姫花ではなかった。警戒することまではできたのに、結局まんまと罠にかかってしまった。僕は自分の愚かさを呪いつつ、痛みを堪えて態勢を整えた。トーラスを構え、階上の姫花に向ける。
「本当に撃つの?」
姫花ではないなにかが、姫花の声で笑った。
「ただ操られてるだけかもしれないのに?」
ありえない話ではなかった。もし目の前にいるのが異能を操る猫ならば、幻覚、変身といった方法以外に、姫花を洗脳し、意のままに動かすこともできるだろう。
「いや」
しかし、僕は目の前にいるのが姫花本人であるという可能性を排除した。
「わざわざ拉致するほどの人間を、囮に使うはずがない」
動揺する自分を叱咤するため、僕は声に出して言った。
姫花が口角を吊りあげる。事務所内の明かりで照らされる顔に、彼女らしい純真さはなかった。
「じゃあ、撃ってみれば?」
頭では分かっていても、すぐ行動に移すのは難しかった。姫花がゆっくりと階段をおりてくる間も、僕はトリガに指をかけながら、それを引くことができなかった。
三メートルの距離まで近づかれてようやく、姫花の頭上に威嚇の一発を放つ。しかしそれはむしろ、僕の弱気を相手に確信させただけだった。
「ひどいお兄ちゃん」
そして姫花の姿をしたなにものかは、自らの余裕を誇示するかのように、その正体を明らかにした。小柄な女性のシルエットが蜃気楼のように揺らぎ、数秒後には、薄紫色の和毛に覆われた猫の姿を取った。右眼の潰れた、醜い顔をした猫だった。
「間抜けなお兄ちゃん」
猫がしわがれた声で嘲る。
姫花でないなら、ためらう理由はない。僕はトーラスを構え直して猫を撃った。
狙いは正確だった。しかし薄紫色の影は素早く跳躍し、いとも簡単に弾丸を躱してしまった。さらにはその勢いを活かし、左右の壁を蹴りながらこちらに飛びついてきた。人間と猫。反射神経と敏捷性の差は歴然だ。トーラスから二発目が放たれる前には、もう猫の爪が僕の胸に食い込んでいた。
それ自体は大きな傷でなかったが、奇妙にも猫に触れられたとたん、僕の身体は不可視の鎖で縛られたように動かなくなってしまった。僕はとりついた猫を引きはがすこともできず、バランスを崩して仰向けに倒れた。
路上にはみ出した僕の顔に、霧のような雨が降りかかる。
「人間風情がわたしを殺せると思ったのか?」
猫がこちらの顔を覗き込みながら、前肢を振りあげる。
「身のほどをわきまえろ、愚図め」
顎に強烈な一撃を喰らって、僕は意識を失った。




