第18話 おかゆをどうぞ
小学校から三百メートルほどまでは、夏音さんもなんとか歩けていた。しかしそこからは目に見えてよろめきはじめ、やがて僕が引きずるようにしなければ進めなくなった。
「夏音さん、大丈夫です。もう少しですから」
「ああ……」
これ以上は歩かせられない。僕は夏音さんを背負い、腕をしっかりと首に巻きつけさせた。彼女の体温は、僕に発破をかけたときよりもさがっていた。
改めてあたりを見回すと、道には覚えがあった。ヤナギ堂まであと数分だろう。
とはいえ、その数分が大変だった。夏音さんの体重は見た目より軽かったが、いかんせん僕も万全にはほど遠い。もしこれが〈檻〉の外なら、救急車を呼ばれたっておかしくないような有様なのだ。
しかしへたばってはいられない。僕は夏音さんの失血を気にかけつつ、懸命に足を急がせた。何度かは通りかかった人間に声をかけ、助力を仰いだものの、いかにも修羅場を潜ってきました、といった風体の僕らに手を差し伸べてくれる人間はいなかった。誰も彼も恐怖と好奇の目でこちらを一瞥したのみで、そそくさと去ってしまう。
仕方なく、僕は独力で夏音さんを運んだ。ときおり彼女に励ましの言葉をかけたが、反応は段々と弱くなってきていた。
ほどなく僕は肩で呼吸をするようになり、腕にも腰にも脚にも、充分な力が入らなくなってきたのを感じた。僕はあと一歩だけ、あと一歩だけと思いながら頑張ったが、そのうちコンクリートの割れ目に足を取られ、顔から地面に倒れた。鼻を打ちつけ、眼前に星が散り、そのまま意識を失ってしまいそうになる。
それでも僕はなにくそと精神に鞭を打ち、夏音さんの身体の下から這い出した。ヤナギ堂まではあと百メートル弱。店先の軽トラックも視界に入っている。ここから彼女を背負い直して歩くよりは、凛風たちを呼んできた方が早いだろう。
「ちょっと待っててください。いま、凛風さん呼んできますから」
夏音さんを路傍に座らせ、僕はヤナギ堂へと急いだ。
転んだときに打った鼻からぼたぼたと血が出ている。僕はアスファルトにその跡を残しながら、ゾンビのような足取りで店まで辿りつき、ドアを開けて中に転がり込んだ。カウンターにいた早乙女さんが驚いたように顔をあげ、凛風がうわぁと声をあげた。
「省吾か? どうした? 誰にやられた?」
「夏音さんが、少し先にいます。撃たれてます。ここに来ればなんとかしてくれると――」
「おう、おう。分かった。もう喋らなくていい。よく頑張ったな。休んでろ」
幸い、彼女はすぐに事情を呑み込んでくれた。もしかしたら前にも同じようなことがあったのかもしれない。
「早乙女サン、車出して。早く早く早く」
「わ、わ、分かったよ。急かさないで」
「チンコ重いのか? とっとと鍵取ってこい」
僕は彼女らの邪魔にならないよう店の隅まで這っていき、積まれた段ボールの間に挟まる形で、ぐったりと身体を横たえた。ひと仕事終えた安堵で、今度こそ気が遠くなるのを感じる。
数分後、二人が夏音さんを連れてきて、そのまま店の奥へと運んでいった。凛風は中国語で何事か呟きながら、手当を施してくれている。早乙女さんはネメオス所長を呼ぶと言って、再び店を飛び出していった。
バトンは渡した。あとはなるようになるだろう。凛風が少しだけ顔を覗かせ、飲料の缶を置いてくれたので、プルタブを引いて喉に流し込む。度数の高いレモンチューハイだった。
そこから、僕の記憶は少し途切れる。
次に気がついたとき、僕が寝ていたのは店舗の片隅でなく、ダブルベッドの上だった。首を少し動かすと、すぐ隣に寝かされている夏音さんの姿が見えた。
彼女は横たわって目を閉じ、胸をゆっくりと規則正しく上下させている。その顔にはわずかではあるが血色が戻ってきていた。どうやら危険な状態は脱したようだ。
「気がついたみたいだね、省吾君」
僕の足元から、所長の黒い顔が覗いた。床から伸びあがるようにして、ベッドの縁に前肢をかけている。
「僕は大したことありません。夏音さんは……?」
「放っておいたら危なかったけど、いまは大丈夫」
所長はベッドを回り込んで枕元に飛び乗り、その長い尻尾で僕の鼻先に触れた。そういえば、夏音さんを背負って転んだときにひどく打ちつけたが、いまはほとんど痛みを感じない。
「異能の話は夏音君から聞いたかな? ぼくは治癒を得意としているんだ。多少の外傷なら治してしまえる。もちろん、万能ではないけれど」
どうやら凛風たちが急場を凌いだあとで、所長が僕たちを治療してくれたようだ。
「そう。万能ではないんだよ。なのに、夏音君はぼくの治癒をアテにしてやたらと無茶をする。致命傷を受ければ回復が追いつかないし、即死してしまったらそれまでなのに。今回だって、時間が経てばどうなってたか分からない」
「でも、僕は夏音さんのおかげで助かりました」
「夏音君だって君のおかげで助かったんだよ。負傷した彼女を、ここまで運んできてくれたんだろう?」
僕は所長の言葉を照れ臭く思いつつ、ゆっくりと身を起こした。殴られたり打ちつけられたりした傷は癒えていたが、その分カロリーを消耗したのか、貧血気味で頭がふらふらした。
「寝てた方がいいよ。いま、凛風君がごはんを作ってくれてるから」
それでも僕は横たわる気になれず、起き上がったままぼんやりとあたりを眺めた。
ここはヤナギ堂の奥にある一室のようだ。広さは八畳ほど。たくさん置かれているカラフルなクッションやぬいぐるみは、多分凛風の趣味だろう。一見子供っぽく見えるが、コウモリの羽を生やしたタコとか、虹色の泡の集合体とか、どこかグロテスクやパンクを感じさせるものが多かった。ダブルベッドが置かれていることを考えると、凛風と早乙女さんが二人で使っているのかもしれない。
想像を膨らませていると、凛風が部屋に入ってきた。
「お、省吾は目を覚ましたな。おかゆ作ったからシコタマ食え」
「いま、何時ですか?」
「十二時ちょっと過ぎな。ちょうどお昼時」
彼女はボウル入りのおかゆと白いレンゲを差し出しながら答えた。
どうやら一時間以上寝ていたらしい。
「ご迷惑をかけてすみません」
「友達はお互いに迷惑かけるものだから、気にするな。ワタシも昔、中華街のマフィアと喧嘩したとき、夏音ちゃんにすごく助けられたことがある」
聞けば、それなりに前からの付き合いなのだという。夏音さんがまずここに連れていくよう僕に言ったのは、凛風と長らくの信頼関係があったからこそだろう。
「妙に苦い薬湯も飲め。これ、中華名物」
大量のおかゆが片付いたあとは、茶色い液体の入ったコップを手渡される。恐る恐る啜ってみると、ずっと昔に飲んだことのある葛根湯と同じ味だった。
「省吾たち、フェリス秘密教団と喧嘩してるんだろ」
僕が飲み終えたのを見計らったように、凛風が少し声を落として言った。
「はい。今回襲われたのも、教団がらみで間違いないと思います」
「まだ続けるつもりあるか?」
「……妹を助けるまで、やめるつもりはありません。僕ひとりでも」
「ならこのお土産、無駄にならないな」
彼女が手渡してきたのは、紙の箱に入った銃弾だった。
「特別製。早乙女サンは〝ロベリア〟って名前つけた」
「ロベリア……。特別っていうのは、どういう風に?」
一つ取り出して眺める。外見上、これまで使っていたものとそう違わない。
「教団と喧嘩続けるなら、多分これからネチョネチョした怪物が出てくる。怪物には普通の銃弾があんまり効かないけど、ロベリアの弾頭には早乙女サンの調合した特別なケミカルが入ってて、怪物の細胞を崩壊させるようにできてる」
怪物? と僕が聞き返すと、所長が説明を補足してくれた。
「ショゴスのことだね。フェリス秘密教団が飼っている、得体の知れない怪物だ。実際、厄介な相手だよ。教団が装備と人員の充実した黒獅子騎士団に対抗できているのは、主としてこの怪物の力による」
僕は以前観たB級映画のクリーチャーたちを脳裏に描き、身震いした。どうやらこれからは人間の刺客だけではなく、ショゴスなる恐ろしげな怪物まで相手にしなくてはならないらしい。
つくづく〈檻〉は魔境だと思う。
しかし、いまさら戻ることはできない。僕は凛風に葛根湯のおかわりを求め、それを飲み干してから、体力の回復を早めるべく、もうひと眠りしておくことにした。




