第17話 Do I feel lucky?
一瞬の浮遊感があり、直後に背中から硬いものに叩きつけられた。僕はあまりの衝撃に呻くこともできず、口を開閉させながら声もなく悶絶した。
だが幸運にも、そこは廃車の上だった。地面からの高さに加え、ルーフがほんの少しだけダメージを軽減した。もしこれがコンクリートの上だったら、骨の何本かは容易に砕けていただろうし、打ち所が悪ければそのまま死んでいただろう。
苦痛は耐えがたかった。しかし僕はまだトーラスを離していなかった。格闘でキャラハンに敵わない以上、これを離すわけにはいかなかった。なんとか身をよじり、ルーフから地面に転がり落ちた。
キャラハンが窓枠に足をかけて飛び降り、廃車のルーフに着地するのが、視界の端に映った。彼は僕を完膚なきまでに叩きのめすまで、攻撃の手を緩めないつもりらしかった。
とはいえ彼はほんの少し、ほんの少しだけ、僕の執念を見誤っていたように思う。でなければ、銃を手にした僕に近づくのをもっとためらったはずだ。
僕はしっかりと両脚を踏ん張って立ち、両手で握ったトーラスを構えた。全身が痛み、すでに照準も覚束なかったが、それでも精一杯に強気を装い、まだ戦う力があることを目で示した。だまし討ちを考えるほどの余裕はなかった。
距離一メートル半。二つの銃口が互いの額に向いたのは、ほとんど同時だった。
「大したもんだ」
指先一つで命が失われるというこの状況においても、キャラハンは余裕の表情を崩さず、それどころか笑みさえ浮かべてみせた。
「君のことは殺さなくてもいいと言われてるんだが、降参するつもりはないかね?」
「弱気ですね。弾が切れましたか」
あながちデタラメな発言ではなかった。キャラハンの大型リボルバーにはせいぜい五発か六発しか入らない。さきほどまでの銃撃戦で、弾丸を惜しむほどの余裕も、弾込めをする暇もなかったはずだ。
「正直なところ、俺も数えちゃいない。だがこの拳銃なら、一発で綺麗に頭を吹き飛ばせる。賭けてみたいかね? ラッキーなのは俺か、君か」
これは賭けなんかじゃない。賭けをやっているつもりなんかない。僕の行動ははじめから決まっているのだ。
「……そうかい。分かったよ」
僕の決意を読み取ったらしいキャラハンの口がわずかに歪む。
どこかで猫が怒ったような鳴き声をあげた。直後に一発の銃声が轟き、その妙に間延びした残響が、僕の鼓膜を長々と揺さぶった。
脳天に弾丸を受けたキャラハンが倒れ、ルーフから落ちた。その手から彼のリボルバーが零れ、近くの地面に転がる。
僕はまだ生きていて、身体のどこにも穴は開いていなかった。
キャラハンのリボルバーは発射されなかったのだ。
震えながら銃口をおろし、しばし立ち尽くす。そのうち地面に落ちたリボルバーが目に入り、どうしても気になって拾いあげた。過熱した銃身に注意しながら、シリンダーを開ける。
弾丸は一発も残っていなかった。
僕はそれをキャラハンの近くに置き、茫然としながら、彼の死体を長いこと見つめていた。
人間に向けて銃を撃ったのは、もちろんこれがはじめてではない。充分に狙いをつけ、明確な殺意を込めた弾丸を放ったのも一度や二度ではない。しかしいままでは自分の行為の結果として、誰かが死ぬことはなかった。誰も殺してはいなかったのだ。
人間の命を奪った。紛れもないこの自分が。殺害の実感が湧くにつれ、僕は言いようもない嫌悪と脱力に全身を支配された。
夏音さんが二階から飛び降りてきたのは、そんなときだった。ルーフに着地した彼女は、ゆっくりボンネットまでずり落ちてきて、右肩を抑えたまま気だるげにあぐらを組んだ。精彩を欠いた動きからは、明らかな疲弊とダメージが見て取れた。
「マーロウは逃がしたよ。ただ、さんざん痛めつけたから、しばらくはまともに動けないだろ。それにしても、よく死ななかったな。わたしがセンセイだったら二重丸だ」
キャラハンの死体を見てから、彼女は言った。しかしたとえ花丸を貰ったとしても、あまり喜ぶ気になれなかった。僕が黙ったままでいると、夏音さんはボンネットから降り、背後から僕の首に腕を巻きつけてきた。
「どうした、落ち込んでるのか?」
「いえ……」
僕はいまの感情をどう表現していいのか分からなかった。
「お前が考えてること当ててやろうか。これでもう自分は被害者じゃなくなった、って思ってんだろ。同情されたり共感されたりする資格がなくなった、って。命に代えても妹さんを助けるって言っときながら、お前はまだほかの人間とか社会にどう見られるかってことを気にしてんだ」
夏音さんの囁いたことは正しかった。僕の手がこれまで汚れていなかったのは、それ彼女に殺人の肩代わりをさせていたからに過ぎない。人が死ぬという結果は同じなのに、いまさら自分の手が汚れたからといってショックを受けるのは、僕が威勢のいいことを言いつつも、まだ世間体や常識というものに縋りついていたからにほかならない。
僕は愚かだ。
夏音さんはさらに言葉を続けた。
「でもしょうがないんだよ、省吾。〈檻〉ではしょうがないんだ。生きるためには誰かの肉を喰わなくちゃいけないんだよ。わたしが頑張ってお前を守って、綺麗なままで、妹さんと一緒に外に帰してやれればよかったんだけど、ごめんな」
似合わない慰めの言葉をかけさせるほどに、僕は愚かなのだ。それを嫌というほど感じると同時に、僕は夏音さんの異変にも気がついた。ゆるりと首に回された腕は冷たく、口調はどこか朦朧としている。
「夏音さん、撃たれたんですか」
僕は彼女を廃車の傍に座らせ、ジャンパーをはぎ取った。見れば腕の付け根に銃創があり、そこからはいまも大量の血が流れ出していた。
「乱暴にすんなよ……。これぐらい平気だ」
銃で撃たれたほかにも、その上半身には、格闘でついた痛々しい痣や擦り傷がいくつもあった。マーロウもまたキャラハンと同等か、それ以上に侮りがたい相手だったのだ。
僕はジャンパーで夏音さんの傷口を押さえつけ、自分のベルトでそれを固定した。一刻も早く医者に診せなければならない。
しかしどこで、どうやって? 〈檻〉に電波は届かず、届いたところで救急車が来ることもない。黒獅子騎士団の拠点なら医療設備ぐらいはあるだろうが、あいにく無線機は事務所に置いてきてしまった。
「ここからだと、ヤナギ堂が近い」
夏音さんが掠れ声で言った。顔からは血の気が失せている。
「そこまで行けばなんとかなる。ちょっと立たせてくれ」
僕は彼女に肩を貸し、傷ついていない方の半身を支えるようにして立ちあがった。
「歩けますか?」
「北海道までだって余裕だ」
いまは軽口をたしなめている時間も惜しい。僕は自分のふらつく脚に気合を入れてから、夏音さんの治療を求めるべく、ヤナギ堂を目指して歩きはじめた。




