第16話 ガンファイト
コズミックワールドをあとにした僕たちは、ひとまずネコノテ探偵事務所へ戻ることにした。どうにかして姫花の居場所を特定し、救い出す算段を立てなければならない。そろそろ拉致から丸二日が経つ。儀式の準備にどの程度時間がかかるのかは分からないが、あまり悠長にしてはいられない。
僕は胸の奥を焦燥にひりつかせながら、傷ついた暗黒の塔の横を通り過ぎる。
夏音さんもしばらくは黙って歩いていた。しかし僕たちが、廃線となった鉄道の高架や、大きな通りを何本か横切ったあたりで、しきりに虚空を見つめ、耳を澄ませるような仕草をしはじめた。常人には感じ取れない、なにがしかの予兆を捉えているようだった。
「どうかしました? さっきから」
「省吾、歩きながら聞けよ」
「はい」
「マーロウが尾行けてきてる」
彼女が前を向いたまま口にしたのは意外な名前だった。
マーロウ。ヨコハマ大地下街で出会ったスーツ姿の男。ハードボイルド小説の探偵を自称する奇人。僕はつい背後を振り返りそうになり、なんとか思い留まった。歩きながら聞けと夏音さんが言ったのは、尾行に気づいた素振りを見せないようにするためだ。
「なんで彼が?」
「お前のことが好きだからだろ。近くにキャラハンもいるはずだ。広い場所であの二人を相手にしたくない」
「襲ってくると思います?」
「普通に話をするだけなら、事務所に客として来ればいい。一応、顔見知りではあるんだし。まあ、間違いなく教団がらみだろうな」
たとえ知己であろうと理由があれば襲ってくる。彼女の態度は、そうした〈檻〉における事実を端的に示していた。
「とりあえず、あそこに入るか。通りをブラブラ歩いてるよりはマシだ」
夏音さんが顎で指し示したのは、おそらくかつて小学校だった建物だ。広く入り組んだ内部を持つ校舎は、身を隠したり尾行を撒いたりするのに都合がいい。
僕は背後の気配に神経を尖らせつつ、開きっぱなしの正門を通過し、学校の敷地へと立ち入る。
マーロウは当然、この寄り道の意図に気づくはずだ。夏音さんの口振りからすると、彼もキャラハンもこれまでの有象無象とは違い、かなりタフな相手なのだろうと予測できた。尾行が発覚し、不意打ちが失敗したことで、今回は諦めようと考えてくれればいいのだが……。
四階建ての校舎は、正門からすぐのところに佇んでいる。白い外壁には無数のヒビが入り、所々塗装が剥がれ落ちて灰色のコンクリートを晒していた。他の公共施設と同様、かつての役割は完全に失われているようだ。ドアや引き戸の類は既に壊されるか取り除かれるかしており、人間や猫の出入りを妨げるものはなにもない。
おそらく住民も少しはいるのだろう。わずかに生活の痕跡が残っている。ただしいまは稼業に出かけているのか、不在のようだった。
僕たちは校舎に近づく。マーロウはまだ仕掛けてこない。
そのままおもむろに昇降口へ侵入すると、崩落しかけた天井が僕たちを迎えた。ひときわ強い荒廃のにおいが、不安と緊張を増幅させる。
いくつも並ぶ傘立てや木製の下駄箱は、蜘蛛や得体の知れない虫の巣と化していた。僕たちの気配を捉えて身じろぎする小さな居住者。なにを食べて生きているのだろう。
廊下を隔てた正面の壁に目を遣れば、かつて掲示物だった紙の残骸が画鋲で貼りつけられていた。どうやら、外出後の手洗を勧めるもののようだ。しかしここまでボロボロになっていると、子ども時代を偲ぶ気持ちも起きない。
薄暗い校舎の中。分厚く積もった埃を踏みながら、僕たちはいつでも襲撃に対応できるよう、銃を抜き、昇降口の右手に伸びる廊下を進む。
ほどなく夏音さんが、少し先の曲がり角に置かれたなにかを見つけ、足を止めた。
「ありゃなんだ?」
目を凝らしてみれば、それは二本の赤いボンベだった。
「消火器ですか? 別になにも――」
言いかけて、僕もその不自然さに気づいた。消火器はただ打ち捨てられているのではなく、わざわざ元の場所から持ってきて、通路の真ん中に配置されている。
次の瞬間、校舎内に銃声が轟いた。
消火器の一つが勢いよく破裂し、あたりに白い消火剤をまき散らす。もう一本のボンベが衝撃で吹っ飛び、回転しながら十五メートル離れた僕の頭上を掠めた。
ほぼ同時、曲がり角の先から誰かが走ってくる。
「こっちだ! ついてこい」
夏音さんの声で僕は衝撃から立ち直り、すぐ脇にあった階段を駆けあがった。
踊り場からちらりと見た階下には、リボルバーを構えるツイードジャケット姿の男――キャラハンの姿があった。彼の銃が派手な発砲音とともに火を噴き、弾丸が僕の足元をすり抜けて壁のモルタルを抉る。
「なるべく手間をかけさせないでくれると、ありがたいんだがね」
キャラハンはごく落ち着いた声音で言った。
おそらく彼は、マーロウの尾行に気づいた僕たちがここに入ることを見越し、罠を張って待ち構えていたのだ。夏音さんも相手の思い通り動いてしまったことに気づいたらしく、不機嫌そうな唸り声を漏らす。
「じきにマーロウも来る」
彼女はキャラハンの足を止めるため、階下に銃弾を撃ち込みながら言った。
「少し先を見てくる。省吾、わたしの背中を守れ。できるな」
できようができまいが、この状況ではやるしかない。僕は夏音さんと場所を代わり、キャラハンと睨み合うこととなった。
牽制の一発を送り込み、階段の手すりを遮蔽にしつつ時間を稼ぐ。同じ条件なら僕が持ちこたえるのは難しいだろうが、いまは高所の優位がある。ひと呼吸置いたあと、ちらつくキャラハンの頭を狙い、さらに二発、三発とトーラスを撃ち込む。
とはいえ相手も慣れたものだ。じっくりと腰を据え、こちらの隙を窺っている気配がした。僕の弾倉が空になったと見るや、一気に反撃を仕掛けてくるだろう。
沈黙の圧力。夏音さんの指示がなければ、とっくに逃げ出しているところだ。
「省吾! こ――」
やや離れた場所で夏音さんの声が響いたかと思うと、それが連続する銃声でかき消される。二階の廊下で銃撃戦が発生したようだ。マーロウが回り込んできたに違いない。
そしてそのタイミングを待っていたのだろう。キャラハンが銃を撃ちながら突進してきた。何発もの弾丸に身体を掠められた僕は、辛うじて射撃を続けながらも、階段からの後退を余儀なくされる。
手練れの刺客二人は、着実に僕たちを追い込みつつあった。
辿り着いた廊下では、夏音さんが二挺のコルトを乱射し、廊下の先にいるマーロウを食い止めているところだった。彼女は素早い手振りで、僕にすぐ傍の教室に入るよう指示する。
僕はキャラハンに背後を脅かされながら、言われるまま教室へ飛び込んだ。
あたりにはカビた木材のにおいが漂っている。ここはどうやら図工室のようだ。周囲を見回せば、分厚い埃の積もった木のテーブルとスツール、壁際にある電動の糸鋸盤、棚には児童が作ったものだろう、およそ実用に耐えるとは思えない不格好な焼き物が並ぶ。ハンマーやノコギリの類は、既に持ち去られたのか残っていない。
続いて夏音さんも室内に転がり込んできた。僕は手近にあった廃材を使い、急いでドアのつっかえ棒にした。図工室に出入口は一つしかない。これで少しは時間が稼げるだろう。
心臓が早鐘を打っている。喉も痛むほどに渇いていた。しかし降参する気にはならなかった。〈檻〉に来てからの度重なる衝撃体験で、恐怖を感じる神経が麻痺しつつあるのかもしれない。
「いったん撒こうと思ってたが、やめだ」
夏音さんが低い声で言った。
「ここでブッ殺す」
彼女の態度は心強かった。僕もせめて足手まといにならないよう、死に物狂いでやらなければならない。
一発一発覚悟を込めて、トーラスに弾を装填する。
間もなく、キャラハンとマーロウは図工室のドアを開けようとし、つっぱり棒の存在を悟ると、ガンガンとドアを蹴飛ばしはじめた。金属製とはいえ三十年も放置されたドアは、何度も衝撃を与えられるうちに少しずつひしゃげていく。
僕は装填を終え、レンコン状のシリンダーを元に戻す。トーラスが使う銃弾なら、ドアだって貫通するはずだ。膝立ちの射撃姿勢を取り、トリガに指をかける。
ドアにガラスの窓はなく、相手の位置は気配で判断するしかない。僕は相手の胴体部分に見当をつけ、発砲した。
轟音とともに、44口径のマグナム弾がドアを穿つ。
しかし、室外からはなんの反応もなかった。呻き声も、のたうち回る音もない。
直後、向こう側から貫通してきた銃弾が、僕の背後にある窓枠に当たってかん高い音を立てた。間髪を入れずドアが蹴り破られ、健在なキャラハンとマーロウが躍り込んでくる。
敵と味方、五挺の銃が同時に火を噴き、決して広くはない室内が苛烈な戦場と化した。殺気と硝煙が渦巻く中では、一秒先の生存さえ見通せない。
僕は頭を下げ、壁沿いを移動しながら、キャラハンとマーロウから距離を取ろうとした。一方の夏音さんは銃弾を避けながらテーブルを越え、スツールを足場にして宙を舞いながら、信じがたい身体能力で敵に向かっていった。彼女は果敢にもマーロウに肉薄し、至近での格闘を挑もうとしていた。
僕が援護しようと立ち止まった矢先、キャラハンがこちらに向かってきた。トーラスでの迎撃を試みるが、わずかに肩を掠めただけで終わる。激しく動く人間相手の射撃は、想像していたよりもずっと難しい。
キャラハンの投げた木のスツールを避け損ね、肩に強い痛みが走る。たじろいでいる隙を突かれ、鳩尾に蹴りを見舞われる。僕は踏ん張り損ねて背中から倒れ、あまりの苦しみにトーラスを取り落としてしまった。
「慣れないことはするもんじゃないぜ、君」
キャラハンは僕の襟首を掴み、額に銃口を突きつけた。火薬に熱された鋼鉄が、確実な死を意識させた。
しかし僕は諦めなかった。なんとかトリガが引かれる前にと、まだ自由な両手でキャラハンの銃に掴みかかった。
それから先は、泥臭い取っ組みあいだった。キャラハンは僕より大柄で、筋力においても優っていた。そしてなにより、戦闘の意欲が旺盛だった。もし彼が僕を本気で殺すつもりなら、早々に決着がついていただろう。
キャラハンは僕の腕や腹やこめかみを、拳や銃把でしたたかに殴りつけた。あばら骨に肘打ちを食らわせ、膝で金的を狙った。しかし彼は銃を撃たなかった。無名の女王近くのビルで襲撃してきた教団員たちと同様、なるべく僕を殺さないようにとの指示があったのかもしれない。
僕は彼の手加減をいいことに、力を振り絞って抵抗し続けた。弱くとも、拙くとも、両の拳を振り回し続けた。相手の胴体に組みついては時間を稼いだ。形勢逆転には至らずとも、可能な限り食いさがった。
何発かは有効打もあった。それでもやはり僕は劣勢だった。やがて腹や顔面を嫌というほど殴られた挙句、足払いを受けて盛大にバランスを崩した。机の角に頭をぶつけ、痛みに視界が赤く染まった。
そして腕で身体を支えることもできず、うつ伏せで床に倒れるころには、僕の戦意もいよいよ底を尽きつつあった。
しかしそのとき、僕の指先にトーラスの銃身が触れた。さきほど落としたものが、テーブルの下に転がっていたのだ。
千載一遇のチャンスだった。腕を伸ばし、銃把を掴む。爪先で横腹を蹴飛ばされるが、僕はトーラスを離さなかった。身体を反転させ、キャラハンを狙う。
しかしキャラハンも油断していなかった。彼は素早く僕の腕を掴んで銃口を逸らすと、そのまま強引に僕を持ちあげた。
「えっ――」
そして僕は、ガラスのなくなった二階の窓から力任せに放り出された。




