第13話 幻影の遊園地
ロゼッタの話を聞いてから、僕は不思議な気分になっていた。これまで茫洋としていた母のイメージが、これまで思い描いていたものと、かなり異なった姿で浮かびあがってきたからだ。
母が昔の記憶を失った人間だったこと。以前には〈檻〉にいたこと。ネメオスという喋る黒猫と友人関係であったこと。バステト女神の祭司をしていたこと。ミルカという名前であったこと。この世界とは異なる場所で生まれたということ。そのどれもが、僕の平凡な予想の範疇を大きく超えていた。
そして母の持つ〈檻〉との因縁が、僕と姫花をここに連れてきた。僕にとってもはや〈檻〉はただの危険な異郷でなく、かつて母が生活し、秩序の確立に尽力し、得難い友と過ごした、特別な場所であることが明らかになった。
昨晩、夏音さんに〈檻〉の印象を聞かれたとき、僕は「嫌なだけの場所じゃない」と答えた。いま改めて聞かれたらどうか。多分、言葉にすることはできないだろう。少なくとも、「好き」と答えることはまだできそうにない。
僕はそんなことを考えながら、コズミックワールドまでの道を歩く。
ふと物思いから覚めてみれば、傲然とそびえ立つ塔がすぐ左手に現れていた。
僕が見あげたそれは、高層建築としての端正さを著しく欠いていた。不必要と思われる場所に突起があったり、中心近くまでごっそりとへこんでいたり、樹木のように枝分かれする部分があったかと思えば、再び合流して一つになる部分があったりした。歪んでねじれた部品同士を乱暴に組み合わせ、溶接し、なんとか自立するように体裁を整えたような代物だった。
どう見ても自然物ではない。かといって人間が作れるとも思えない。これもヨコハマ大地下街のように、吹き出た異界の瘴気によって、無残に変わり果ててしまったものの一つなのだろうか。
外壁は全体的にヘドロ色だが、所々ぞっとするほど鮮やかな赤に覆われている。百メートルより高い部分には局所的な霧のようなものが渦巻いており、それより上に存在する塔の正体を不気味に覆い隠していた。
高さを考えれば、〈檻〉を覆う壁の外側からでも容易に見えそうなものだ。だが僕はこんな建築物があることなどいままで知らなかった。〈檻〉に入ってからも、すぐ近くに来るまで存在を意識することはなかった。
しかしそれは確実に建っていた。傷ついた暗黒の塔だ、と夏音さんが言った。
「いまは別に用ないから、観光したけりゃまた後でな」
「見て楽しいものがあるんですか?」
「さあ……」
数十メートル進んで振り返ったとき、もう塔の姿は見えなくなっていた。
代わりに近づいてきたのが、目的地であるコズミックワールドだ。低い金属柵で囲われた敷地の中に、赤く錆びついた奇妙な形の構造物がいくつも見える。
「〈檻〉ができる前は遊園地だったらしい」
夏音さんが呟いた。言われてみれば、多くの構造物は一部にレールか座席のようなものを備えている。遊園地のアトラクションだと言われれば、その面影を見てとれなくもない。
しかしすべての構造物は、すでに取り返しのつかないほど損なわれていた。大量に発生した錆は単に表面を侵すだけでなく、キノコのように増殖し、全体のシルエットをひどく変形させていた。どんなに長く放置していても、どんなに風が潮気を含んでいようとも、金属がこんな有様になるとは思えない。
「わたし、遊園地って行ったことないんだよ。外の遊園地もこんな感じなのか?」
「そんなわけないでしょう。もっと楽しげですよ。いや、僕も行ったことはないですけど」
柵はせいぜい腰までの高さで、乗り越えるのは容易だった。しかしひとたび敷地に踏み込めば、自分もあのアトラクションと同じような末路を辿りそうな気がして、僕は少しの間ためらっていた。しかしなんとか意志の力で恐怖を押さえつけ、夏音さんと軽く頷きあってから、コズミックワールドの中へと立ち入った。
地面は砕けたアスファルトと、酸化した小さな金属片に覆われており、僕たちが歩くたびにザクザクと固そうな音を立てる。
いまのところ人間や猫の気配は感じられない。このような場所で、アルハズラッド氏は本当に見つかるのだろうか?
「夏音さんは何度か来たことあるんですか、ここ」
住居らしき建物でもないかと探しながら、僕は尋ねた。
「中に入ったのは二、三回か。そんときは人を捜してて、仕方なく入った。普段は近づかない。わたしだけじゃなく、誰も近づこうとしない」
「単に不気味だから? それとも、具体的な危険があるんですか?」
「前に来たときは――」
ふいに海の方角から冷たい風が吹いて、僕の頬を撫でた。気づけば周囲に濃密な霧が立ち込めており、赤い錆にまみれたアトラクションの姿を、白い帳で覆いつつあった。
「そう。これと同じような霧が出た。わたしから離れるなよ。なにが起こるか分からんから」
空気中に牛乳を溶かしたような霧は、あっという間に数メートル先の景色さえ隠してしまった。山岳や高原ならともかく、およそ都市部で発生するようなものではない。夏音さんの口振りから察するに、コズミックワールドに特有の現象らしい。この場所自体が、侵入者である僕たちの存在に反応しているようでもあった。
得体の知れない害意が、あたりにわだかまっているのを感じる。微小な水滴の一つ一つが目となり耳となり、こちらの動向を窺っているように思える。
神経を尖らせつつ、夏音さんと離れないように歩いていた僕は、突如、目の前から巨大な物体が近づいてくるのを察知した。クレーンで吊られた鉄球を思わせる重さと速さを持ったなにかが、霧を掻き分けながら迫ってくる。
これほどまでに直接的な脅威は予想しておらず、反応が遅れてしまう。次の瞬間、僕は夏音さんにドロップキックの要領で蹴り飛ばされ、地面に転がった。
「うわっ」
直後、巨大な物体は音を立てて通り過ぎ、そのまま霧の中へと消えてく。
……いまのは一体、なんだったのだろう?
痛む身をさすりつつ起きあがる。
しかしそのとき、僕は夏音さんの姿がどこにも見えなくなっていることに気がつついた。何度か名前を呼んでみても、返事がない。
僕を庇ったせいで、飛んできた物体と衝突してしまったのだろうか? いや、だとすればもっと派手な音がしたはずだ。それに猫のような敏捷性を持つ彼女のこと、助けも呼べないほどの重傷を負ったとは考えにくい。
なにが起こるか分からない。ついさっき聞いた夏音さんの発言が思い出された。どうやら僕たちは、コズミックワールド――あるいはアルハズラッド氏――が持つ不可解な力によって、互いに引き離されてしまったらしい。あまり嬉しくない状況だ。
不安に駆られた僕は、乳白色の闇の中を彷徨いながら、どうにかして夏音さんを捜そうとした。しかし間もなく、それが容易でないことを悟った。
さきほどと同じような物体が、今度は横合いから迫ってきたのだ。僕は衝突を避けるため、身体を前方に投げ出した。アスファルトと金属の角ばった砂利が、服を通して腕に食い込むのを感じる。
こんなことでは長く持たない。すでに体のあちこちに――半分は夏音さんに蹴り飛ばされたからだが――擦り傷ができている。どうすればこの状況を脱出できるのか?
巨大な物体は繰り返し出現した。僕は十秒とおかずに次々と飛来するそれを、必死で避け続けなければならなかった。一度はうしろから来たのに気づくのが遅れ、右肩の先をぶつけてひどく痛めた。警戒して姿勢を低くしていても、押し潰すような動きに脅かされた。とはいえ、それらは必ずしも僕を襲ってきているわけではないようだった。軌道はごく大雑把で、一度避けてしまえば追ってくることもない。
そして右往左往するうちに、僕は徐々に脅威の正体を掴みつつあった。
物体の大きさはおおむね同じようなもので、長さは四メートル、高さは二メートルほど。倒したラグビーボールを半分に切ったような形をしている。
一方で、色や質感にはかなり差があった。黒、茶、白、ときおり真紅や薄い青。表面は滑らかなもの、凹凸のあるもの、キャンバス地のようになっているもの。動きは基本的にはまっすぐだが、ときおり速度を落として着地し、再び飛んでいく。
どこか覚えのある動きだ、と僕が感じたとき、また強い海風が吹いて、霧がほんの少し薄らいだ。
そのとき、僕が周囲に見たのは、巨大な人間の脚だった。さきほどまで僕を脅かしていたのは足首から下の部分、つまり靴だったのだ。
ここはいくつもの足が行き交う雑踏の中だ。しかし歩き回る人々の身長は、ざっと三十メートル以上もあるだろう。霧の中ではせいぜい膝あたりまでしか見えないが、それはむしろ幸運だったかもしれない。もし全体像を目にしていたら、僕は恐ろしさで竦んでしまったはずだ。
これはコズミックワールドが僕に見せている幻覚だろうか? しかし少なくとも、靴にぶつかられたときの痛みは本物だった。試しに正面衝突してみよう、という気にはとてもなれない。
目下のところ、巨人たちは僕に無関心なようだ。それどころか、存在を認識してすらいないように見える。積極的に追いかけたり急所を狙い澄ましたりしてこなかったのは、そのせいだろう。反面、蹴り飛ばさないように、踏みつけないように、との配慮もなかったわけだが。
なんにせよ、このまま留まっていては身が持たない。
霧が薄まり、最低限の視界が確保されたいま、人間の歩行だと思って動きを予測すれば、靴を避けるのはそれほど難しくなかった。僕は硬い革靴の爪先を、角ばったヒールのピンを、分厚いスニーカーのゴム底を掻い潜りながら、風向きから大体の方角に見当をつけ、コズミックワールドの奥に向かっていった。
しかし二、三百メートル進んだあたりで、違和感に気づいた。地理的に考えて、コズミックワールドはこんなに広くないはずだ。もしかすると、同じところをぐるぐると回されていたり、歪んだ空間の中を歩かされていたり、夢でも見せられていたりするのかもしれない。そうだとすれば、いくら移動したところでどこにも行けないことになる。
それでもなんとか、巨人たちの交差点からは脱出できたようだ。靴はもう飛んでこなくなっていた。
僕は大きく一息つき、改めて周囲を眺めた。多少薄まったとはいえ相変わらず視界は悪く、目を凝らしてみても、アルハズラッド氏の姿はおろか、施設の影さえ見つけることができない。
しかし聴覚を働かせてみると、エンジンの重低音と、なにかがガリガリと地面をひっかく音が聞こえてくるような気がした。




