第1話 檻の中にて
僕はいま、怪物じみた猫に襲われている。
それは僕のたった五メートルうしろから、掠れた唸り声をあげながら追ってきていた。猫といってもシルエットや顔つきが似ているというだけで、体格はツキノワグマやライオンにも匹敵する大きさだった。
全身を構成する部位も極めて恐ろしげだ。黄色く濁った眼は敵意に満ち、剥き出しの牙は人間の親指ほども太く、禍々しい形に伸びた爪は、僕の身体などパンのように引き裂けそうだった。全身を覆うまだらな灰色の体毛は所々剥げて爛れており、映画やゲームに登場するゾンビを彷彿とさせた。
それはおよそ自然の摂理に従って生まれた存在とは思えなかった。底知れない悪意を持ったなにものかが、健全な生物に対する敵として創造したに違いなかった。そんな怪物に捕えられれば、生きながらに内臓を喰われ、無残な最期を遂げるのは疑いようがなかった。
強烈な嫌悪と恐怖に突き動かされ、僕は夕暮れの路上を駆ける。背すじに氷柱を挿しこまれたような寒気と、全身を巡る血液の過熱を同時に感じる。僕はパニックになりながら、必死に猫の怪物から逃げていた。
死にたくない!
常識的な生存本能があるという以外に、僕には死ねない理由があった。いままでの質素ながら安定した生活を放り出し、このような怪物に遭遇する危険を冒してまで〈檻〉に立ち入ったのも、その理由のためなのだ。
行方不明になった妹を捜し、無事に連れ帰る。
僕はその目的を果たすまで死ぬわけにはいかなかった。こんな醜悪な怪物に喰われるわけにはいかなかった。
しかし僕に理由があるからといって、悪意の創造物が見逃してくれるはずもない。僕は恐怖に足をもつれさせ、剥がれたアスファルトに躓きながらも必死に逃げた。もっと速く走るためには背負った荷物を捨てるべきだったが、そのためにロスする一秒さえいまは致命的だった。
いよいよ僕の目前に〈檻〉の内外を隔てる高い壁が迫ってきていた。そこまで追い詰められてしまえばもはや逃げ場はない。いや、多分壁に阻まれるまでもなく、僕は力尽きるだろう。もう二百メートル近く走っている僕の肺や心臓や筋肉は、すでに限界を迎えつつあった。
息切れと疲労が運動能力を損ない、僕は大きくよろめきはじめた。廃墟の軒先に積まれたビールケースにぶつかり、勢いよく転倒するに及んで、僕はとうとう死を覚悟した。
いまにも怪物の牙と爪が首筋に突き立ち、激烈な痛みが襲ってくるだろう。その先にあるのは、生きながらに手足を喰いちぎられ、内臓を破られる惨たらしい最期――
僕が絶望に慄きながら目を閉じたとき、どこかで破裂音――銃声が響いた。
頭上を弾丸が通り抜け、背後の猫に命中したのが分かった。不意打ちで傷を負った猫が、ぞっとするほど人間に似た苦痛の声をあげる。
「そのまま動くなよ」
前方から現れたらしい誰かが言った。
直後、続けざまに銃が放たれる。その残響と哀れっぽい鳴き声が、荒廃した路地で歪に混じりあった。
発砲が止んだあと、僕は姿勢を低くしながら背後を窺った。
黒い怪物猫は既に倒れ伏し、わずかに四肢を痙攣させるだけになっていた。銃創からは悪臭を放つ腐敗した体液が流れ出し、アスファルトの上に小さな池を作っていた。
助かったのか?
現状を認識するとともに、下腹のあたりにじんわりと安堵が広がっていくのを感じる。僕はまだ息を切らしながらも、命を救ってくれた狩人の正体を確かめようと前に向き直った。
すぐ先にそびえる高いコンクリートの壁が、あたりに暗い影を落としている。その中に立っていたのは、黒々とした拳銃を手にし、こちらを気だるげに見遣る長髪の女性だった。
◆
時間を少しさかのぼる。
仲のよかった両親が交通事故で無くなったのは、僕が小学校二年生のときだった。父は高校の教員で、母も近所の花屋でパートをしながら家計を支えていた。僕と妹の姫花は横浜市内で生まれ、同じ場所で育ち、なんら不自由のない生活を送っていた。
それは幸せな日々だった。
昼間から飲酒運転をしていた乗用車が、時速七十キロで父と母を撥ねるまでは。
本当に突然の出来事だった。僕と姫花もその場にいたが、咄嗟に動いた母のおかげか、軽い擦り傷を負うだけで済んだ。
交流のある親戚もいなかった僕と、四歳下の姫花は、その後児童養護施設に引き取られた。両親の死は極めて大きなショックだったが、僕と妹はお互いに励ましあい、助けあいながら、なんとかそれを乗り越えた。
いま思えば、支援者や友人にも恵まれたのだろう。仲間内でのささいな喧嘩ぐらいは体験したが、ひどいいじめに遭うようなことはなかった。養護施設の職員は皆優しく、実の両親には及ばないまでも、愛情を持って接してくれた。
施設での生活が板につくと、僕は一生懸命勉強した。快活な性格の姫花は、多くの友達を作った。彼女が見せる笑顔は宝物だった。両親を亡くし、決して多くを持たない僕にとって、命に代えても守るべき大切な存在が姫花だった。
それから僕はつつがなく小学校を卒業し、中学校を卒業し、普通科の高校に進学した。そのころ姫花は小学校六年生で、以前から持っていた将来の夢を、たびたび口に出すようになっていた。
「兄ちゃん、私ね、学校の先生になりたい」
おそらくそれは教員であった父や、なにかと気遣ってくれた担任の影響が大きかったのだろう。彼女は教員になって、子供たちが健康に成長していくのを見守りたい、と言った。
それはどこに出しても恥ずかしくない真っ当な目標で、僕は兄として誇らしく思ったし、当然のことながら最大限の応援をするつもりだった。
教員資格を得るためには、大学を卒業する必要がある。学費には奨学金を充てるとしても、最低限の生活費は工面しなければならない。そのような事情を鑑みれば、僕が高校卒業後に就職するというのは当然の選択だった。
不満などあろうはずもなかった。なぜなら姫花の笑顔こそが僕の生きがいだったからだ。
姫花と一緒に暮らせるという条件が満たせれば、仕事はなんでも構わなかった。結局、僕は横浜市内にある金属加工の会社で働きはじめた。
体力を使う大変な仕事だったが、給料は悪くなかった。気難しい先輩も多かったので、なるべく波風を立てないよう、素直で真面目な人間であることを心がけた。遅刻も欠勤もせず、残業も快く引き受けた。
僕は市内の安い賃貸に住みながら節約に励み、姫花の学費を貯めた。仕事が落ち着いたタイミングで姫花を呼び寄せ、一緒に暮らしはじめた。決して贅沢はできなかったし、施設の外で生活することへの大変さもあったが、いままでと同様、僕ら兄妹は助けあいながらなんとかやっていた。
ささやかな趣味もできた。映画を観ることだ。映画館に行くとお金がかかるので、DVDを借りてきたり、インターネットで配信されているものを観たりした。作品を選ぶのはもっぱら姫花で、彼女はどちらかといえば古い映画を好んだ。
姫花は教員になるため、中学高校と勉強に励んだ。彼女は決して天才でなかったが、大学進学レベルの学力は充分に持っていたし、なにより社交的な性格だったから、どんな環境でもうまく適応できるだろうという見込みがあった。
姫花が第一志望の大学に合格し、高校を卒業するころには、通帳の残高もそれなりに積みあがり、僕の気持ちにも少なからず余裕が出てきた。
このときまで、物事は万事順調だった。
しかし、姫花が高校を卒業し、大学入学を目前とした春休み、友人と共に出かけていたときに事件が起こった。彼女は〈檻〉の近くで、ライトバンから出てきた怪しげな数人の男たちに拉致され、そのまま行方不明になってしまったのだ。
ライトバンは一時間後に〈檻〉の内外を隔てる壁沿いで発見された。そのことから、犯人たちは〈檻〉の中へと姫花を連れ去ったのだと推測された。
〈檻〉という場所についても説明しなければならない。
それが成立したのは、僕が生まれるさらに前のことだ。
神奈川県内で最大のターミナルである横浜駅では、昔から絶えずどこかで工事がおこなわれていた。一か所が終われば別の場所で。そこが終わればまた新しい場所で。地下街の開発は特に盛んだった。より広く、より深く、無節操で貪欲な掘削が、何年にも渡って続けられていた。
当時の人々は土の下には土があると考えていたし、岩の下には岩があると信じていた。せいぜい軟弱な地盤や水の層が顔を出して、工事が滞るかもしれないという懸念があった程度だろう。
少なくとも、掘削機が地獄の蓋をぶち抜き、そこから異界が溢れ出すなどという事態は、誰一人として想像していなかったはずだ。
なにが起こったのか、あるいは現に起こっているのか、正確に知っている者は誰もいない。広く知られているのは、そこから屍食猫と呼ばれる生き物が溢れ出したことだけだ。
突如、数百匹数千匹の規模で現れたそれらは、人間を無差別に襲い、乱雑に貪り喰った。屍食猫は決して不死の怪物ではなかったが、退治しても退治しても、横浜駅の地下深くから、そして周辺の地域から際限なく現れた。
当然、警察や自衛隊が動員され、必死の鎮圧が図られた。大勢が横浜駅の地下に突入して、地獄の門をなんとか封印しようと試みた。
しかしその場所はもはや完全に異界と化しており、部隊には死者、行方不明者、それから発狂者が続出した。肉体が変異し、自らもまた怪物になってしまうような、恐ろしい被害者も存在したと聞く。
そして数年に渡る苦闘のあと、横浜駅の地下奪回と屍食猫の根絶は断念された。
その代わり日本政府は屍食猫の生息域と化した一帯――横浜駅から桜木町、みなとみらい地区、関内、元町中華街までを含む――を高さ五十メートルに及ぶ巨大なコンクリートの壁によって封鎖し、その場所を〈檻〉と呼んで、以降黙殺することに決めた。
これが大体、一九九五年ごろの出来事だ。
当時こそ未曾有の災厄として日本のみならず世界中を震撼させ、様々な推察や憶測を呼んだものの、二十年以上の歳月が経過したいまは、人々もごくたまに迷い出てくる屍食猫を警戒する以外、〈檻〉を自分たちにはほとんど関わりのないものとして扱っている。
せいぜいふざけ半分に無責任な想像を膨らませたり、コンクリート壁のせいで日当たりが悪いとぼやいたりする程度だ。
僕にしたところで、それまで大した関心を持っていたわけではなかった。しかし姫花が拉致され、〈檻〉の中に連れ去られたのではないかということになってから、僕は〈檻〉の中に入ることしか考えられなくなってしまった。
〈檻〉の中に警察は立ち入らない。このまま手をこまねいていれば、大切な大切な姫花は一生戻ってこないかもしれない。これ以上ないほどに狼狽した僕は、連絡を受けたその日のうちに会社へ電話し、無理やり休みを貰って〈檻〉の中に入る準備をしはじめた。
〈檻〉を囲む壁は堅牢極まりなく、登攀も不可能だが、いくつか秘密の侵入経路が存在する。
必死に調べ回ってその一つをつきとめた僕は、やめておけという人々の親切な忠告にも耳を貸さず、いまは使われなくなった下水道を経由して、屍食猫の徘徊する〈檻〉に足を踏み入れたのだった。
それが、襲われるたった十分前の話。




