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Après-midi blanc et fille

作者: 藤出雲

沙英が目覚めたのは、朝の7:31だった。

白地に白のドット柄のシーツを敷いた、お気に入りのベッドの上。同じ白で統一したスクウェア型のクッションは、頭の下に3つ並んでいる。深い色味の、鼈甲細工のフレームの眼鏡は雑多な感じでクッションの上に置いたままだった。

オフホワイトのスウェット。グリーンとホワイトの細やかな、ブロックチェックの緩やかなシルエットのパンツ。ホワイトをベースにしたソックスはマスタードとネイビーのボーダーが入っている。パンツの裾にそれを被せたまま、眠ったのだ。足元が冷えなくて良い。

インドアな生活が、最近続いていた。春の終わりのある日。

ずっと眠る前に読んでいた推理小説を、やっと読み終えたのだ。多分達成感に包まれて、眠りについたのは5:47だった。何故犯人は、あんな方法で犯行を繰り返したのか。あの婦人は、何故犯人を庇う様な真似をしていたのか。全ての被害者に共通するあの傷痕は、一体。

気になって気になって、仕事が終わって真っ直ぐ帰宅しては少しずつ読んでいた物語。

明日は休みだ。今夜こそ読破するんだ。

読書のお供には、スイーツだ。

シトロンギモーヴと二層になったクリームの食感が楽しいシトロンタルトと、ほんのりラム酒が効いたマロンクリームが高々と聳えるモンブラン。

仕事帰りに寄ったケーキ屋さんで、最後に残っていた物である。

飲み物は断然コーヒーだ。ある程度しっかりしたエスプレッソ用の深煎りを選んだ。スイーツがしっかりとコクのある甘味だから、ビターな味とスモーキーな香りが合うんだ!と、沙英は思った。

朝になった事に気付いたのは、窓際から聞こえた小鳥のさえずり。何て素敵な土曜日だろう。睡眠不足な頭の中の靄がかった感覚も、ふわふわと心地良い。靄の中で沙英が欲した感覚は匂いだった。そうだ、パンの香りを嗅ぎたいんだ。

そう思って、眼鏡に手を伸ばす。ベッドからゆっくりと起き上がって、キッチンにある冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出した。欠伸が止まらない。肩甲骨辺り迄伸びた、くるくるとパーマをあてたブラウン・ヘアーをくしゃくしゃと掻き乍ら、沙英は想像する。

この達成感のまま、更に甘い物を食べられたらどんなに幸せだろう。

そうなると、あのお店しか無いのではないか?

沙英はグラスに注いだオレンジジュースを一気に喉に流し込んで、クローゼットの中を覗きに行った。天気は眩くて、暖かそうだ。



軽やかな足取りで、沙英は自室を飛び出した。お堅い印象を受けるグレンチェックのグレーのラペルジャケットを羽織りたかったから、インナーにはホワイトの無地のポロシャツを着て可愛さを演出した。サイズはすっかり大きくて、何だかぱっとしないおじさんみたいだ、と沙英は一人で微笑んだ。ブラックに近いくらい濃い色をしたモス・グリーンのショート・パンツに、ポロシャツをタックイン。ジャケットも、ラフに袖を折ろう。グレーのソックスの長さも、中途半端。ブラウンのタッセルローファー。本当に、おじさんみたいだ。編み込みの籠バッグだけが、女の子っぽい。

気分は、バゲットやシンプルなバターやジャムじゃなくって。フレンチ・トーストでもないな。

ジャケットの切りっ放しの裾が風をはらんで、沙英の歩幅が大きくなっていった。

携帯と繋げたイヤホンから流れるのは、Après-midi blanc。1980年代のニューウェイヴやポストパンクをボサノヴァ風にアレンジする(電子音も使っていて、どこかエレクトロニカな雰囲気も感じる)フランスのユニットで、きっかけは忘れたけれど、今年になって沙英が一番聴いている音楽だ。

こんなポップな音を聴いて出掛けるのならば、食べる物はあれだ!

「タルトタタン!」

やっぱり、あのお店しかない。

Le Salon Versailles。フランスパンと菓子の専門店である。メイクに時間がかかったから、もうお店も開いている筈だ。

胸が躍る。

もう、眠くないね。



香ばしく焼き上げられた生地に、キャラメリゼされた林檎の酸味と甘味が、沙英の舌と脳髄に突き刺さった。皿の横にある主張し過ぎない程度の甘さのホイップ・クリームは、好きな時に好きなだけ盛る。セットで頼んだ紅茶は、コントワール・ディシャール。ライチとローズの、フレーバーティーだ。疲れた頭に染み込む香りが嬉しくて、沙英はまた笑顔になった。

店内を見渡すと、白とベージュで統一されたシンプルながらも優雅なデザイン(特に目についたのは、シャンデリアだ)。ショーケースに並ぶミルフィーユやマカロンが、ダンスでもしているかの様に楽しげに見える。

土曜日の陽射しを喜んでるんだな、なんて。

それは私も一緒か、と沙英は視線をガラスケースから出入り口のクラシックな木製のドアに移した。視線を彩っているのは、メタリック・オレンジのマスカラ。溶け込む様な血色に見えるチークは、ほんの少量。頬骨の高い所に乗せて、斜め上に広げて。アイホールに沿って、なるべく自然に馴染ませたつもり。唇には、グレープフルーツをイメージしたらしい、ジューシーなオレンジ系ピンクカラーのリップをベースに塗ってから、ニュアンスリップグロスを重ね付けしたんだ。おじさんみたいなコーディネートだけれど、一応女の子だよ。

でも、メイクのカラーはオレンジで統一する。そこが大人っぽいと、沙英は思っていて。少し細目っていうコンプレックスは、ブラックのアイライナーでまつ毛を丁寧に埋めて解決!

タルトタタンを完食して、会計を済ませた沙英は、お店を出て行った。

ああは言ったけれど、何処かでバゲットは買いたいかも、なんて考え乍ら。



朝ご飯だったのか、お昼ご飯だったのか解らない時間の過ごし方だったな、と沙英は少し可笑しくなって。だから、小説を読む事が無い今夜の過ごし方を考えてみたりした。どうしようかな。どうしようかな。

どうしようかな、が重なってくると、何だか不安になってくる。それは嫌だな、と沙英は眉を寄せた。嫌な言葉だ。何かが空っぽになっていく様な感覚に陥る。それは、普段過ごしている日々の中で突然に訪れたりもする事柄で…。

不思議なもので、さっき迄あんなに幸せだった味覚や嗅覚や視覚といった感覚が、急に暗くて重い何かに支配されていく気がしてくる。鬱々としてくる。

あれ?こんなに天気は良いのに…。

ころりと変わっていく自分の心の動きに、益々不安が募っていく。


なにかをうしないそうだ。


こわい。




そうしたら、沙英から見た左前…2m程先に野良猫が居た。白くて可愛いな、と沙英は思った。この子にこのバゲットの欠片は似合いそうだったけれど、「ごめんね」と言い乍ら沙英は猫の横を通っていった。



あの猫みたいなものなのかな。



白くて、純粋に薄汚れてる。



だから、先の事は、誰にも解らない。



そうだよ。誰にも解らないよね。



だから沙英は抱きしめた。



素直な気持ちを。



素直な土曜日を。



甘くて美味しい、素直な土曜日を、陽射しごと。



沙英は決めた。



この後は、きっと日常的なロマンティシズムに溢れている筈なんだ、って信じる事に。


END

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