雑草と信念
人は観点を捨てない。たとえ苦しくても
兎に角、少数で戦うことのできる問題や人は面倒である。そのような人は個々の信念を持ち人の曲げられることを嫌っている。そしてそれに立ち向かおうとするものは信念をすぐに曲げられる人でもある。すべてがそうと決まっているわけではないが前者は他人が困難にぶつかるとき、それに気づいて陰陽どちらか助けるものである。後者はそんな時が人を切り捨てる絶好の好機とみる。また誰かに認められなくなった時存在価値を見出せなくなる。光は通るのだがそれが見えないのだ。よく考えれば、もし君が崖っぷちに立って突き落とされたとしよう。その時が家に生えている君がつかんだ草が、弱くすぐに曲がってしまうものであればどうだね。きっとこう思うだろう。頼む、チギれないでくれ、と。
雑草は何回も生えてくるだろう。踏まれても耐えて一層強くなる。そんな雑草を華奢な花たちは嫌う。目立つことができないから。何時しか頑張ることは阿呆らしさを表す者が多くなったが、人間は弱いのだよ。目の前にいる人はいつかいなくなる。自分を邪魔するものはどかしたくなる。そんな精神を持っていたならば最後は否定していた人間性に狩られることになるだろう。弱いものは弱くていい。それが集まれば強くなる。それは決して核が強いものであってはならぬ。心のどこか片隅にある勇気を見つけにくくするだけだから。