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カリュクス  作者: 木神雄祐
第四章 邪悪の胎動
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邪悪の胎動(二)

 ディルフェンはとりたてて交易の盛んな都市ではないのだが、保養都市という性質上、さまざまな人間がおとずれては金銭を落としていく。それは、街の半分が「商区」と呼ばれることでもわかるだろう。

 通りに並ぶ商店や、各地を巡ってディルフェンにやってくる交易商人なども、そんな客層の豊富さに商機を見ていたにちがいない。なにしろ、ふつうの街ならば売れないような、めずらしい品物までとりあつかっているのだ。また、旅人や隊商の立ちよる機会も多いためか、彼らの必要とするような品も、店先には数多くそろえられていた。

 それはとりもなおさず、シーサリオンたちの必要としている品物でもあったのである。

 角灯の油瓶、火をつける道具の入った火口箱(ほくちばこ)、光源以外にも用途のあるたいまつ。それらの消耗品をそろえたころ、太陽が山々を燃えるような色に染めて、昼という舞台を閉幕させようとしていた。しかし、ディルフェンの街はまだ夜の静けさにはほど遠い様相を見せていたのであった。

「……へえ、楽器なんかも置いてあるのね」

 いくつかある露店の店先に並んだ商品を見て、興味を持ったようすでマレリエルが声をあげた。エモルディが意外そうな顔を、マレリエルに向けた。

「なんだ、マレリエル。楽器なんて弾けるのかよ」

「すこしだけね。好きでやってただけだから、そんなにうまくはないけど」

 照れくさそうにいうと、マレリエルは小さなリュートを手にした。

「試しに弾いてもいいかしら?」

 初老の店主はマレリエルをちらりと見やると、しかたないという感じでうなずいた。店主の了承を得て、マレリエルは弦をひとつずつ鳴らし、調弦をはじめた。その手つきは流れるようで、なるほど楽器のあつかいにはずいぶんと慣れているようだ。

「お手腕(てなみ)拝見といくかね」

 調弦を終えたリュートを抱えたマレリエルに、エモルディが期待のこもった目を向けた。シーサリオンも興味深げにマレリエルのようすを見守っていた。

 だが、はじめに鳴らされたリュートの音は、音色とはいえない、騒音にも似た不協和音だった。調弦したとはとても思えないその音に、シーサリオンとエモルディだけでなく、店主を含めた周囲の人間も目を丸くしていた。

 その、奇異に満ちた視線を送る人々を、観衆と勘違いしたのか、マレリエルの顔に朱がさした。萎縮するのかと思いきや、その目に活力がみなぎり、ついで大きく息を吸いこんだ。

「おい、マレリエル……」

 エモルディがかけた声をかき消すような、調子っぱずれの唄が、夕暮れのディルフェンをつらぬいていった。


 マレリエルの、ある意味で芸術的な唄によって、露店街を追いたてられた一行は、麗区へと向かう通りを歩いていた。その唄を太陽も聞くに堪えなかったのか、すでに地表の裏へと隠れてしまっている。かわりに月が迷惑そうな顔で、夜の帳を道連れにしてあらわれていた。

 夜のディルフェンには、灯が満ちていた。夜の景観を見物することも、保養都市としては当然のことである。凪いだ夜のルノリア湖は水鏡に変わり、湖面に天を映す。月が満ちる時期ならば、月光にきらめく水面が、この世のものとは思えない景観を描きだすのだ。

「……冗談じゃねえぜ、まったくよう」

 そんな幻想的甘美とほど遠いようすで、エモルディがぼやいていた。心なしか、すこしやつれたようにも見える。そのうしろでは、すっかり落ち込んでしまったマレリエルを、シーサリオンが必死になだめていた。

「あれのどこが『そんなにうまくない』だ? 論外じゃねえか」

 悪い夢でも見たように、悪寒に肩を震わせるエモルディに、マレリエルが恨みがましい目を向けた。

「たまたま調子が悪かっただけじゃないの。それに、あのリュートもあまりいい状態じゃなかったし」

 あろうことか楽器に責任転嫁しはじめたマレリエルに、エモルディが冷たい声をかけた。

「調子がいいは運がいい。道具が悪いは腕が悪い。っていうのは傭兵稼業の訓戒なんだが、いまのおまえにもあてはまるわな」

「調子の悪いときこそほんとうの実力だ、なんてことを聞いたことがあるけど」

「な、シーサリオンまで!」

 思わず口を挟んだシーサリオンに、マレリエルが絶望したようなまなざしを向けた。

「あ。いや、責めてるわけじゃなくて……」

「……もういいわ。わたしに楽器の才能はないってこと、認めるわよ。なんとなく気づいてはいたけどね。わたしの唄を聴いた人たちは、みんな引きつった顔をしてるんだもの」

 ふっきれたような笑みを見せたマレリエルに、シーサリオンもエモルディも唖然とするしかなかった。しかし、もともと気持の切り替えが早いほうなのか、当のマレリエルはもはや気にしてはいないようだった。もっとも、その結論がより早く訪れていたら、哀れな犠牲者を増やさずにすんだのであろうが。

「まあ、ひでえ唄のあとには、きれいな景色でも見て、疲れた心を癒そうぜ。どうせ癒されるなら、きれいな娘がいいってのが本音だが」

 きつい皮肉でおどけたエモルディを、ふしぎそうな顔でシーサリオンが見た。

「マレリエルだってきれいじゃないか。エモルディは癒されないのかい?」

「な、なにいって……!」

 なにげないシーサリオンのひとことに、マレリエルが顔を夕陽のように染めながらあわてた。しかし、エモルディはげっそりしたような顔をしたのだった。

「いくらきれいでも、こんなじゃじゃ馬はかんべんだ。こっちが振りまわされ……っ痛え!」

 エモルディの向こう脛を、マレリエルの爪先がしたたかに打ちつけていた。

「お気に召さないようでなによりですわ。行きましょ、シーサリオン」

 マレリエルはシーサリオンの腕にみずからの腕をからめると、脛を抱えてうずくまるエモルディをおいて歩きだした。困惑するシーサリオンの顔に、エモルディの叫びがかさなった。

「お、おい待てって! ああくそ、やっぱりあいつはじゃじゃ馬だ。うかつにちょっかいだそうものなら蹴とばしてきやがる」

 脛を蹴られた足を引きずりながら、エモルディはふたりのあとを追ったのであった。


 ルノリアの湖畔には、人の手による灯は存在していなかった。その景観を壊さぬよう、夜のルノリア湖の周辺に、灯を持ちこむことは禁じられているのだ。こんな法律が敷かれているのも、ディルフェンが保養都市であるがゆえであろう。

 それでも、今宵の満月に照らされた湖畔は、幻想的な明るさにつつまれて、おとずれたものの心を穏やかにさせたのである。

 どうやらシーサリオンたちがいるのは、湖畔でも外れのほうらしかった。近くにある木々の梢で、湖全体を満足に眺望することができないのだ。眺めのよい側には、夜だというのに人集(ひとだかり)ができていた。だが、一行のいる側には、静かな雰囲気を楽しもうとする人々しかいないようだった。

 湖畔には貴族らしい格好をしたものは誰ひとりとしておらず、商区からここまでやってきた人々がほとんどのようだ。おそらく貴族連中は、自分たちの別荘でルノリアの湖畔と人々を、見おろしているのであろう。

「見事なものね。こうなると、昼の景色も見てみたくなるわ」

「昼はまたちがう景観になりそうだね」

 感嘆の声をあげたマレリエルに、シーサリオンがうなずいた。そのふたりの腕は、いまだ組まれたままであった。端から見ると、むつまじい仲に見えなくもない。

「なんかいい雰囲気になってやがるな……」

 ようやくふたりに追いついたエモルディが、近寄りがたいような声を発した。しかし、すぐにその表情があらためられた。シーサリオンのようすがおかしいのに気づいたのだ。

 湖を眺めていたシーサリオンが、ふとなにかを見つけたように目をこらしていた。そして、その顔がわずかに緊張の色を見せたのである。

「なにかあるのか?」

 エモルディが低い声で問いかけた。だが、シーサリオンは湖の向こうを注視したままで、エモルディの声は届いていないようだった。エモルディとマレリエルが、誘われるようにシーサリオンの視線の先へと目をやった。

 月光に蒼く照らされた湖畔に、白い人影が見えた。それは、まるで湖畔にさまよう亡霊のようにたたずんでいた。だが、湖上を横切る夜風にくしけずられる黄金色の髪が、それが亡霊でないことを証明していた。シーサリオンが震えるように身を固くしていた。

「誰かしら?」

「ずいぶんと人見知りな亡霊だな。あんなところにいたんじゃあ、驚くやつなんていないだろうに」

「そんなわけないでしょ」

 ふたりの訝しむ声を無視するように、マレリエルの腕をほどいて、シーサリオンは人影へと駆けだした。なにごとか判断できなかったふたりであったが、一瞬あとに、あわてたようすであとを追った。

 遠目ではわかりにくかったが、人影とは思ったほど離れていたわけではなかったようで、すぐにはっきりとした輪郭をあらわしていた。

 それは、白いローブを身にまとった人物であった。月光を映し、夜風に揺れる黄金色の髪は肩口まで伸びている。それだけならば女性かと見紛うところであるが、その推測がまちがいであることは、体格を見ればあきらかだった。

「グラファス!」

 シーサリオンが叫んだ。いや、どなったというほうが正しいかもしれない。それほどの怒気を含んだ声を、シーサリオンは発したのだ。そして、その言葉を聞いたエモルディとマレリエルの表情に動揺が走った。

 グラファス。いまもフランジアを力と恐怖で蹂躙する、かつての魔導宰相。目前に立つ、ローブをまとう痩身の人物がそうなのだと、シーサリオンはいったのだ。

 白いローブの人物が振り返った。白磁のようなその顔が、シーサリオンを見るや笑顔に変わった。だがそれは、見るものに嫌悪と不安を抱かせる、(くら)い笑みであった。

「おお、これはシーサリオン王子ではありませんか。楔の開放に来てみれば、かような邂逅があろうとは。なるほど、運命というものはまったくもって皮肉なものですな」

 芝居がかった、朗々とした声だった。だが、そこに含まれた感情は読みとることができなかった。きわめて平淡な抑揚で発せられた科白に、シーサリオンの背後にいるふたりが困惑を見せた。

 目前の人物がグラファスであるならば、それが「王子」と呼ぶ相手はひとつしかない。だが、フランジアの王子は公にはひとりしか存在していないのである。国王モーゼントによく似た、骨太で彫りの深い顔。シーサリオンとはまるで似つかぬ顔だちの、ユークリッドという名の王子だけが、フランジアの王位継承第一位として知られていたのだ。

 疑念を抱いたようすで、エモルディが小首をかしげた。

「おい。たしか、フランジアの王子は……」

「なにをしようとしているんだ」

 エモルディの疑問をさえぎるように、シーサリオンが硬質さを含んだ声で、グラファスへ詰問した。

「かような些事、王子に気をかけていただく必要はございませぬ。どうか、日々を穏やかにお過ごしください」

 こんどは声に感情の抑揚が加わった。それは嘲笑と侮蔑。他者を見くだすことに慣れたものの声であった。グラファスは、あきらかにシーサリオンを愚弄していたのだ。

 グラファスが唇の両端を吊りあげた。そして、さらに口を開きかけたとき、空がきしんだ。雷鳴が鳴りひびいたのだ。不快なひびきを耳にした人々が空を見あげた。だが、夜空には星がまたたき、悪天の兆候など微塵もなかった。

 つぎの瞬間、夜の闇をかがやく剣が両断した。轟音が地面を揺らし、大気をたたいて人々の耳と身体を打った。澄んだ空から突如として雷が降りそそぎ、グラファスを直撃したのだ。恐慌をきたした人々のざわめきと悲鳴が、湖畔を波紋のように広がっていった。

 グラファスの立っていた場所は、雷撃によって周囲を焼き焦がされ、白煙がたちこめていた。空気の灼ける匂いが、夜風に乗ってあたりを漂った。浅葱色のローブが、その夜風に揺らめいていた。

「……出し惜しみなし。全力でいかせてもらったわ」

 マレリエルが静かな声をあげた。さきほどの雷撃は、彼女の魔術だったのだ。シーサリオンとエモルディが、驚きの目をマレリエルに向けていた。疲れた表情であったが、マレリエルはふたりに笑みを見せた。

「グラファスと遭遇した場合は、生死を問わず、全力をもって無力化すること。それが、『学問の塔』からの通達なのよ」

 額に汗をにじませ、肩で息をするマレリエルに、エモルディがささやいた。

「とんでもねえな。で、やったのか?」

「まさか。相手は街ひとつを壊滅させるほどの力を持つ魔術師よ。でも、不意を衝けたから、さすがに無傷ではいられないはず……」

 エモルディの声に応えたマレリエルが目を瞠った。白煙の向こうに、グラファスが立っているのを見つけたのである。さきほどまでとまったく変わらぬ姿のまま、なんの遜色もなく、魔導宰相は悠然と立っていた。その顔に、昏い笑みを貼りつけて。

「やれやれ、『学問の塔』は私をよほど生かしておきたくないらしい」

「そんな……!」

 驚愕というより恐怖を感じたのか、マレリエルが声を失って立ちつくしていた。彼女の消耗を見るかぎり、さきほどの雷撃は渾身の魔術であったのだろう。そして、その威力はひとりの人間に向けられるには、あまりに強大すぎるものであったにちがいない。だが、その魔術でさえも、グラファスを傷つけるにあたわないようであった。

「しかし、これほどの魔術をあつかえるとは。なるほど、そのローブの色は飾りではなかったようですな」

 魔導宰相が嗤う。その背後に、紅くかがやく光球が出現した。その数は四つ。魔術の素養を持たなくとも、その光球ひとつでさえ、マレリエルが放った雷撃が、子供だましに思えるほどの力があるのを感じたであろう。

「……なによ、あれ」

 マレリエルが戦慄した。光球に秘められた威力ではなく、性質のほうに。

「あんなもの、魔術じゃないわ……!」

 グラファスが静かに腕をあげた。その意味に気がついたのは、シーサリオンだけだったのかもしれない。紅い光球が無慈悲なかがやきを増して、マレリエルに狙いを定めたのだ。

 シーサリオンが反射的に、動けないままのマレリエルの前へ飛びだした。紅い光球は、もはや目前に迫っていた。

 轟音が大地と大気を蹂躙し、紅いかがやきが夜の闇を浸食していった。そして、人々の悲鳴が安寧を駆逐した。グラファスが口角を引きあげた。だが、それはすぐに下方へと向きを変えることとなった。おのれの術を受けたものが、なお健在であったためである。

 シーサリオンたちを囲むように、地面へ三枚。その手元に一枚。あわせて四枚の「カリュクス」がつくりだした光の防壁が、薄いかがやきをまとって、グラファスの術を拒絶していたのだ。

「『カリュクス』……。なるほど、すべては在るべきところにそろっていましたか」

 どこか満足げにうなずくと、グラファスはふたたび口角を引きあげた。その顔に浮かんでいるのは、戯画化された邪悪の笑みであった。だが、どこか冷徹な印象であったそれは、いまは熱っぽさを帯び、まるで歓喜に震えているようだった。

「せっかくですが、今宵の戯れは、これまでにいたしましょう。もっとも、ここに来た目的だけは、果たさせていただきますが」

「逃げるというのか」

 かすれた声で問いかけたシーサリオンに、グラファスが憫笑(びんしよう)を向けた。

「強がりはやめるのですな。私の術を防いだだけで、もう倒れそうではありませんか。心配せずとも、私はフランジア城に居をかまえております。いつでも王子の訪問を、お待ちしておりますよ」

 慇懃無礼(いんぎんぶれい)なグラファスの言葉どおり、シーサリオンの顔には汗が浮かび、その身体はくずおれかけていた。心配げな顔をしたマレリエルが、シーサリオンを支えるように手を添えていた。

 不意に、陽炎のごとくグラファスの姿が揺らいだ。なにかいおうとするシーサリオンに、魔導宰相の声だけが語りかけた。

「ひとつご進言を。その守護法陣、しばらく解かぬほうが、ご自身のためですぞ」

 哄笑を残して、グラファスの姿と声は消えた。その瞬間、それまでグラファスのいた場所から、目もくらむような閃光がほとばしった。夜の闇さえも飲みこむ光の氾濫は、薄闇に慣れた人々の視界を一瞬で奪った。

 世界が光で漂白された。しかし、それはごく短い時間のことで、やがて光がおさまると、大地が恐怖におののくように鳴動した。小さな悲鳴が方々であがっていた。

 しばらく鳴動をつづけていた大地が一瞬、制止すると、どおんと異様な音を発して激しく波うった。満足に視界を取りもどせていない人々のほとんどは立っていられず、地面と抱擁を交わす格好になっていた。

 つぎつぎ起こる不可解な状況に、いやな気配を感じていたのか、シーサリオンは「カリュクス」の守護法陣を維持したままでいた。その顔と身体に疲労の色が増していき、いまにもくずおれようとするのを、困惑しながらもマレリエルが支えていた。

 やがて鳴動がおさまり、大地と抱擁をつづける心配がなくなると、人々がこわごわ立ちあがりはじめた。街のようすを確認しようと、シーサリオンを支えながら振り返ったマレリエルが、小さな悲鳴をあげた。

「どうした……?」

 問いかけながら振り返ったエモルディが、言葉を失った。その視線の先で、よろめきながら立ちあがった人々が、薄い光に包まれていたのだ。そのまま光は濃度を増すと、包まれた人間を光の粒へと変えて、夜へと溶かしていった。

 驚いて、思わず自分の身体を確認したエモルディだったが、彼の身体は光に包まれてはおらず、また光の粒になることもなかった。一行を、シーサリオンの「カリュクス」がつくりだした守護法陣が、不可解な脅威から守っていたのだろうか。シーサリオンとマレリエルもまた、光に包まれることも、光の粒になっていくこともなかったのだ。

「強烈な光に激しい地鳴りと、淡灯(うすあかり)……。アレイユで聞いた状況とほぼ同じだわ」

 震える声でマレリエルがつぶやいた。いまのディルフェンの状況は、まさしくアレイユで、行商人が目撃したことであったのだろう。

 人々が光の粒になって消えていくその背後で、街の建物から灯が失われていった。そして、低いうなりをあげて、灯を失った建物が崩壊をはじめていた。

「建物が崩れることまで、アレイユといっしょかよ」

 その光景を目撃して、エモルディはくやしげに奥歯を鳴らした。不意に、その眼前から「カリュクス」の守護法陣が消失した。

 シーサリオンの身体が力を失い、その手から「カリュクス」がこぼれたのだ。あわてて、マレリエルが抱きかかえるようにシーサリオンを支えたが、小柄な彼女ではシーサリオンが地面にくずおれるのを止められなかった。エモルディが、とっさにシーサリオンの身体を支えた。思わず推量する声が口をついていた。

「おい、シーサリオン。大丈夫か?」

 その声に反応したマレリエルが、シーサリオンの手を取り、素早く脈を診た。青ざめた顔に、わずかな安堵の色が浮かんでいた。どうやら、シーサリオンは気を失っているだけのようだ。しかし、その顔には尋常ではない量の汗が浮かび、血色も良くはなかった。

「気を失っているだけみたい。でも、どこかで休ませないと……」

 エモルディが無言で、気を失ったシーサリオンを背負った。マレリエルが困惑のまなざしを、エモルディの背中へと向けた。

「……どうするのよ?」

「宿に戻るんだよ。まあ、建物が残っているかはわからねえけどな。それでも、こんな寒空にずっといるよりは、いくらかましだろうさ」

 皮肉めいた笑みを口元に貼りつけて、エモルディはマレリエルをうながした。小さくうなずいたマレリエルは、地面に落ちた「カリュクス」を拾い集めると、エモルディとともに「水晶の歌声」亭へと足を向けた。

 惨劇を生き延びた三人が去ったあと、ルノリア湖の周辺には、命を持つものなど存在していなかった。月がその冷たいまなざしで、無慈悲な死の静寂が支配する湖畔を、ただ見おろしていただけだったのである。

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