邂逅(三)
不意にひびいた声が、シーサリオンとエモルディにまとわりついていた魔術の気配を払いとばした。さきほどまでの夢遊病のような状態が幻であったように、彼らは意識のはっきりしたまなざしを、声の主へと向けた。
浅葱色のローブを身につけた人物が、ふたりの前にいる女を見すえていた。その表情は目深にかぶったフードのせいでよくわからなかったが、小柄な体格と発せられた声は、女性を連想させるものだった。
「悪いけど、解呪させてもらったわ」
凛とした、よく通る声だった。そこにまだどこか幼さを感じるのは、声を発したのがまだ若い娘だったからだろうか。
わずかにあわてたように、もうひとりのローブの女があとずさった。その口唇が、シーサリオンたちには理解できない言葉を紡ぎだしていた。しかし、女の意図したことは起きなかったようだった。驚いたようすの女に、ローブの娘がゆっくりと近づいてきた。
「そうそう、ついでに魔術封じもかけていたわね」
してやったり、といわんばかりの口調でローブの娘が告げる。だが、その声にあるのは慈悲など意味をなさない、酷薄なまでの冷たさだった。
「さて、おとなしくしてもらいましょうか。はぐれ魔術師」
「……くそっ」
女が動いた。一瞬のうちに身を沈め、素早く懐へと手をいれる。その動きに半ば反射的に行動したのはシーサリオンだった。「カリュクス」を取りだすと、ローブの娘の足元へと投げたのだ。それと同時に女の手がひらめいて、小刀がローブの娘の喉元へと飛んだ。
だが、女の投げた小刀は目的を達する前に、目に見えない壁によってその行為をはばまれていた。
シーサリオンの「カリュクス」だった。投げられたその絵札は〈天を衝く大樹〉(ウォッダー)という。遮断、防御を意味する絵柄だ。「カリュクス」の星術が不可視の楯を作りだして、女の投擲した小刀をはばんだのだった。驚愕した女は、それでも素早く身をひるがえすと、がれきの向こうへと姿を消していった。
「……ええい、逃げられた」
同様に驚いて、行動を止めてしまったローブの娘が、くやしげに声をもらした。一瞬あとを追うそぶりを見せたが、小さく首を振って、けっきょくそうはしなかった。
シーサリオンたち三人の間に漂う初冬の寒さを、陽光が茜に切り裂いた。太陽はすっかり西に傾き、まもなく日暮れを迎えようとしていた。昼間の残り香のような陽の光は、それでもなお、わずかな温もりを届けて、三人が感じる寒気をやわらげていた。
ローブの娘はシーサリオンとエモルディに向きなおると、短いが礼をのべた。
「ありがとう。助けられたのはこっちのほうかもしれないわね。……それにしても」
ローブの娘は足元の「カリュクス」を拾いあげると、興味深げに眺めて、その顔を被っていたフードをとった。
陽の光に栗色が揺れた。わずかにくせのある栗色の髪は、やわらかい曲線を描いて肩口まで伸びている。細い眉は描かれたように形がよく、その下では空色の大きな瞳が生気に満ちてかがやき、知性と理性と好奇心とを湛えていた。鼻と口にやや個性が欠けてはいるが、それを補うほどの端正な顔だちであった。まだ年若いのか、その顔にはどこか幼さが残っていた。
「ずいぶん変わった術を使うのね。見るかぎり、どうやら魔術師じゃなさそうだけど?」
シーサリオンに「カリュクス」を返すその目には疑惑を、表情には不敵さをのせて、ローブの娘は術者であるシーサリオンを見すえていた。
「ぼくは魔術師じゃない。似たようなものは使えるけど、これが必要だしね」
シーサリオンが、受けとった「カリュクス」をひらめかせた。
「変わった術を使うやつはなんどか見たことあるな。自分になにかを乗りうつらせて、別人みたいになるやつもいたぜ。あれにはさすがにびびったな」
傭兵という生業のためか、さまざまな人々に出会っているであろうエモルディは、たいして驚いたそぶりを見せてはいなかった。
ローブの娘は、その表情にまとった目に見えない甲冑を、わずかに音をたてて揺らしたようだった。さきほどより穏やかな目を、シーサリオンに向けていた。
「でも、魔術を知らないわけじゃないでしょう?」
「まあね。いちおう魔術の心得はあるけど、残念ながら資質のほうはないみたいなんだ」
そう応えたシーサリオンが、おどけたように微笑ってみせる。どうやらエモルディのまねをしてみたようだが、それはどこかぎごちない。彼のうしろでエモルディが笑いをこらえていた。
そのようすがあまりにもおかしかったのか、ローブの娘は声をだして笑った。つられてふたりも笑いだした。もっとも、きっかけになったシーサリオンだけは照れ笑いであったのだが。
笑声の波がおさまると、シーサリオンがローブの娘に右手を差しだした。
「ぼくはシーサリオン。こっちの彼は……」
「エモルディだ。よろしくな、かわいいお嬢さん」
「……マレリエルよ」
わずかに不満そうな色を含んだ声で名乗ると、マレリエルはシーサリオンの手を握った。もしかすると、かわいいという表現が不服なのかもしれない。そんなことを気にもとめないようすで、エモルディが地面に落ちていた小刀を拾いあげた。なにかが塗られて乾いたような跡が、刃に薄く残っていた。
「で、さっきの女はけっきょく何者なんだ? 刃先に毒を仕込んだ小刀なんていう、ずいぶんとぶっそうなものを隠し持っていたわけだが」
「魔術を使っていたみたいだった。そういえば、はぐれ魔術師とかいってたよね」
ふたりの言葉に、マレリエルはどうしようかと迷っているようであった。だが、やがてわずかに真剣さを含んだ表情を見せた。
「はぐれ魔術師というのは、どこの国や組織にも属さず、私利私欲のためだけに魔術を使う、魔術師くずれの連中のことをいうの」
マレリエルの言葉に、なにか納得したようすのエモルディは、持っていた小刀を投げ捨てた。乾いた金属音が、がれきの間に消えていった。
「……ってことは。おれたちが遭遇したのは、盗人どもが互いにもめてた場面ってことかよ。くだらねえな」
「どうもそうみたいだ。もめていた原因はわからないけどね」
エモルディのあきれた声に、困ったようなシーサリオンの声がつづいた。早合点してそこへ飛びだしていったのは、シーサリオン自身である。なんともばつが悪いのだろう。話題を変えようとしたのか、シーサリオンは違う質問を口にした。
「それで、どうしてマレリエルがその、はぐれ魔術師を捕まえようとするんだい? さっきみたいに、危険な目にあったりもするんだろう」
「だな。……魔術師にも憲兵みたいな連中がいて、そいつらを追いかけているってことか? ずいぶんとかわいらしい憲兵だがな」
からかい半分の声をあげるエモルディを、マレリエルがひとにらみした。「おお。こわいこわい」冗談めかしてエモルディは首をすくめた。
「わたしたちは、はぐれ魔術師を見つけたら、無力化して連行することになってるのよ。たとえ危険でも、魔術師がこれ以上まわりから疎まれないようにね。それが、『学問の塔』に属する魔術師の義務だから」
視線でエモルディを牽制したまま、マレリエルは質問に応えた。その言葉に意外な反応を見せたのはシーサリオンだった。
「『学問の塔』だって?」
とつぜんの声に、マレリエルは大きな目をしばたたかせていた。そんなことはおかまいなしに、シーサリオンがすこし興奮したようにマレリエルにつめよった。
「マレリエル、きみは『学問の塔』から来たのかい?」
「え、ええ。そうだけど」
「だったら、きみにお願いがある。きいてくれないか」
真剣な面持ちで、シーサリオンはマレリエルの手をとった。澄んだ翠色のまなざしを受けて、マレリエルの顔が朱に染まった。エモルディはというと、つぎになにが起こるのか期待するように、にやけた顔でそれを眺めていたのだった。
「……ぼくを『学問の塔』へと案内してほしいんだ」
シーサリオンの科白に、マレリエルは拍子抜けしたような顔をしていた。その傍らでは、エモルディがすっかり脱力したようすで、大きく息をついて苦笑していた。
「なんでえ。ずいぶんと積極的だから、大胆なことでもいうのかと思ったら。ただの道案内のお願いかよ」
「なにいってんのよっ。いまの会話の流れで、そんなことあるわけないでしょ!」
ひときわ大きな声で、マレリエルはエモルディにかみついた。その声が、いささかうわずっていたのはなぜだろうか。からかわれたことに、いまいち気づいていないシーサリオンは、その表情を変えてはいなかった。
「お願いだ。ぼくは、どうしても『学問の塔』へと行かなくてはいけないんだ」
場違いともいえる真剣な声は、穏やかになろうとしていたその場の空気を、すこしだけ重くしたようだった。マレリエルはなにかを感じたのか、小さく息をついて、シーサリオンを見つめた。……とはいっても、小柄なマレリエルでは見あげるといったほうがいいのかもしれないが。
「連れていけなんて、簡単にいってくれるけど。あなたに魔術の資質はないんでしょう? 魔術師になりたいわけでもないのに、どうしてそんなに『学問の塔』に行きたがるのかしら」
その言葉には、疑念と好奇心が半分ずつ含まれていた。澄んだ光を湛えて、空色の瞳が翠色の瞳を射る。まっすぐなまなざしに、一瞬のためらいを見せたシーサリオンだったが、決心をした表情でマレリエルのまなざしを受けとめた。
「この惨劇を終わらせるために。……そのために、ぼくは『学問の塔』へ行きたいんだ」
あたりに広がる街の残骸を見わたして、シーサリオンは告げた。その言葉を、誰も笑ったり、否定したりはしなかった。シーサリオンの真剣なようすに、そんなことはできなかったのかもしれない。
「大きく出たな。シーサリオン、おまえはいったい何者なんだ? おとぎ話の英雄にでもなったつもりかよ」
問いかけたエモルディの声には、若干の怒気が含まれていた。故郷を失った彼としては、かるはずみな気持でそんなことを口にしてほしくはないのだろう。エモルディの言葉に、シーサリオンは首を振った。
「ぼくが何者かなんて、どうでもいい。ましてや英雄だなんて。とんでもない」
「そうはいうがな。おれは故郷のアレイユを、もう喪くしちまってるんだ。他人ごとのような気持で、えらそうなことはいってほしくないね」
いまにもつかみかからんとする勢いで、吐き捨てるようにエモルディは悪態をついた。
「他人ごとじゃないさ。ぼくだって故郷の仇を討ちたいんだ」
「なんだと?」
「ぼくの故郷は、ジェラルディンなんだから」
王都ジェラルディン。ここクレジオスより、そしてエモルディの故郷アレイユよりも先に、グラファスの手に堕ちた場所だった。
エモルディは絶句した。彼がこの三月ほど抱えていたくやしさを、シーサリオンはジェラルディンが襲撃されてからの五年間、ずっと抱え込んでいたのだ。そんなそぶりをかけらも見せずに。
「……すまん」
おのれの短慮と短気を反省するように、エモルディは短く謝罪をのべた。シーサリオンはなにもいわず、ただ優しく微笑っただけだった。
ふたりのやりとりを黙って見ていたマレリエルが、確認するように口を開いた。
「わたしは『学問の塔』から、グラファスの目的とその力を調べるように命を受けてここに来たの。でも、情けない話だけど、なにもわからなかった。それに、ここに来る前に『学問の塔』でもあるていどは調べた。でも、どこにもそんな資料はなかったのよ。だのに、わたしにあなたの言葉を信用しろというの?」
辛辣な言葉ではあるが、正鵠を射ていた。シーサリオンは懐から、封蝋で閉じられた手紙を取りだした。それはルヴェインの遺した手紙だった。
「この五年、ぼくが世話になった魔術師が遺してくれた手紙だ。これを、『学問の塔』にいる友人に見せろと、そういって亡くなった」
「貸してもらえる?」
差しだされた手と言葉に、シーサリオンはためらいなど見せなかった。ルヴェインの手紙を、マレリエルの手にあずけた。彼女は封蝋を確認し、手紙をひとしきり調べると、中身も見ずにシーサリオンにそれを返した。その表情は、いくぶん穏やかなものになっていた。
「魔術で封がされているわね。たしかに魔術師がしたためたものにちがいないわ。とりあえず、いっていることにうそはないようね」
「どういうことだ?」
エモルディのもっともな疑問に、聖堂学校の教師のようなそぶりで、マレリエルは説明をはじめた。
「魔術師が使う封蝋は、魔術でも封印がされているの。宛てた対象の人物以外には封が解けないようにね」
「でもよ、そんなの魔術でむりやり封を解けるんじゃねえのか?」
「そう思うでしょうね。では、わたしがさっき使った、解呪の魔術なんかでむりやり封を解くとしましょうか。そうすると、手紙は燃えてなくなってしまったり、書かれた文字が消えてしまう。そういう、盗み見ができないような対策をしてあるのよ」
マレリエルはシーサリオンを見た。彼の手にある手紙に、その視線は注がれていた。
「その手紙には、『学問の塔』の魔術師にしか使えない封がしてあるの。しかも、わたしなんかより数段も力が上の術者の手でね。それだけでもあるていど信用に値するわ。それに……」
シーサリオンを見ながら、マレリエルは観念したような表情を浮かべた。
「調査になんの収穫もなかったから、いちど『学問の塔』に戻るつもりだったの。だから、こちらの都合に合わせてくれるなら、連れていってあげるわよ」
「ほんとうかい?」
「……うそをいったって、わたしに得なんてないでしょ。アレイユでも、クレジオスでもなんの成果も得られなかったんだから。もう、あなたの言葉に望みをつなげるしかないのよ」
投げやりぎみなマレリエルの言葉に、エモルディが意外な反応を見せた。
「おい、マレリエル。ひょっとして、おまえもアレイユにいったのか」
「そうよ。エモルディ、あなたの姿も見たわ。行商人から西門に陣取った隊商のことを聞いたでしょう?」
マレリエルの科白に、エモルディの顔にわずかな怒りの色が浮かんだ。
「あの強欲商人どもか。高い礼金を要求しておいて、たいしたこと知ってやしなかったな」
「ほんとうにね。……だから、うそをつけないように魔術で制約をかけてあげたわ。まあ、せいぜいひと月くらいのことだけど」
悪戯をした子供を戒めるような口調で、マレリエルはそらおそろしいことを口にした。だが、エモルディは痛快そうな笑顔を見せた。「ざまあみろ」とその顔が語っているようだった。
「ところで、いつ出発しようか」
ふたりの会話になかなか参加できなかったシーサリオンが、おずおずと口を挟んできた。マレリエルは、水平線の向こうにすっかり隠居を決めこもうとしている夕陽を見つめた。
「もう夜になるわ。発つのは明日にしましょうよ」
うなずいたシーサリオンは、エモルディに感謝の笑みを向けた。それは、どことなく寂しそうであった。
「ありがとう、エモルディ。たった一日だったけど、出会えてよかった」
シーサリオンの旅路には、エモルディは無関係なのだ。自身の都合に巻きこむわけにはいくはずもなかった。たとえ、共に行きたいと思ったとしても。だが、当のエモルディは不敵な笑みを見せたのだった。
「忘れたのか? シーサリオン、おまえはおれを金貨三枚で雇ったんだぜ」
シーサリオンの目が驚きに瞠られた。
「さっき借りは返したって、そういったじゃないか」
「あんなもん、金貨一枚にもなりゃしねえよ」
まじめくさってエモルディはいったが、すぐにその顔が、にやりと悪戯っぽく笑った。
「……っていうのが建前だ。本音をいえば、アレイユの仇を討てるかもしれないのなら、おれも一枚かませろってことだな」
とまどいを見せたのはシーサリオンだった。その顔に、罪悪感と安堵が入り交じった、複雑な表情を浮かべた。発した声がうわずっていた。
「仇を討てるかなんて、まだわからないよ。それに危険かもしれないんだ」
「いいさ。傭兵なんて稼業は、いつも危険な賭けをしてるようなもんだ。おれ自身のためになら、あえて分の悪い賭けにものってやるよ」
「エモルディ。……ありがとう」
最後の会話は、固い握手で締められた。強い意志を持った同志がいることは、この先のシーサリオンにとって心強いことだろう。いささか男くさくなったその空気を、マレリエルの澄んだ声が断ち切った。
「明日にはクレジオスを発つから、明朝にわたしのいる宿まで来てくれるかしら? 今後のことを話しておくわ」
「わかった。宿屋はどこだい?」
シーサリオンの問いかけに、マレリエルがすぐ応えた。
「わたしのとった宿は『人魚亭』という、小さな人魚の看板を掲げた宿よ。外が白んできたくらいに来てもらえるとありがたいわね」
シーサリオンとエモルディは、目を見合わせて、互いに笑いだすのをこらえきれなかった。わけがわからず目を点にするマレリエルに、ふたりは異口同音に告げた。
「その宿に、自分たちも泊まっている」と。
自分たちに奇妙な縁を感じたのか、三人は、しばらくその場で笑声をあげつづけていたのだった。