邂逅(二)
そこには、港だったものしか残されてはいなかった。かろうじて建っている税関を抜けると、その前後で景色はほとんど変化しなかったのだ。
目前に延びる地面が途中でなくなって、その先に海があらわれていることが、唯一ともいえる大きな違いだろう。その海には船の残骸らしき木片がいくつも漂い、陸との接点である桟橋は崩落して、とても近寄ることなどできなかった。
港にいくつも建ち並んでいたであろう倉庫や船渠、衛兵のいる管理小屋などもすべて倒壊し、がれきに姿を変えて、ここが港だということを匂わせる建物など存在していない。
「どうしてこんな……」
言葉を失って立ちつくすシーサリオンの横で、エモルディが憎々しげな声をあげた。
「やっぱりアレイユと同じか。ぜんぶの建物が崩れていやがる。おまけに死体も残っちゃいねえようだな」
「どういうことさ?」
シーサリオンの疑問に、エモルディは肩をすくめた。
「それがさっぱりだ。ただ、アレイユもクレジオスも、壊滅した場所には人はいないってことさ。それが生きていようと死んでいようとな」
「人が消えるってことかい? そんなばかな」
「おれもそう思ったよ。もしかして死体がばらばらになっちまったんじゃないかって、自分の家を掘り返したりもした。……でもな、肉片どころか血の跡すら出なかったんだ」
考えたくもない、といったようすで首を振り、エモルディは天をあおいだ。大地に広がる悲惨さとは真逆に、空は蒼く澄んでいた。
うつむいたまま、短く祈りの言葉を捧げていたシーサリオンが、なにかに気づいたように顔をあげた。そのようすに気づいたエモルディが問いかけようとするのを、手で制する。
「なにか聞こえる」
その科白に応えるように、かすかにもめるような人の声が風に運ばれてきた。
「どうも穏やかな感じじゃねえな。関わらないほうがよさそうだぜ」
「行ってみよう」
エモルディの皮肉めいた提案を一蹴すると、シーサリオンは声のするほうへと足を向けた。肩すかしをくったエモルディが、あわててあとを追った。
しばらく進むと、がれきの向こうから、なにやら口論するような声がはっきりと聞こえてきた。シーサリオンとエモルディが物陰からようすをうかがうと、四人の男と枯葉色のローブをまとった人物とが、なにやら争っている。声からすると、ローブの人物は女性のようだったが、その顔は目深にかぶったフードで隠れていてよくわからなかった。
男たちのほうはといえば、あきらかに堅気のものではない風体だ。混乱に乗じて火事場泥棒にでもやってきたごろつきの類だろうか。
「おれとしては、か弱い女性の肩を持ちたいところだが。はてさて、そのお顔はいかがなものかね。美しいご婦人なら、こちらにも張りあいが出るってもんだ」
おどけたようなエモルディの声とともに、やにわに男たちが腰の剣を抜いた。その刀身は陽の光を映して、血を求めるようなきらめきを放った。わずかな緊張が内包された空気が、その場を満たしはじめていた。
「ぶっそうなことだな。女ひとりに得物を持ちだすかよ。頭の悪い連中のやりそうなこった。こわいねえ」
エモルディはすっかり傍観を決めこんでいるようだったが、シーサリオンは気が気でないようすだった。がれきの山を背にしたローブの女を、男たちが取り囲むようにしたとき、シーサリオンは飛びだしていた。そのうしろでエモルディが制止の声をあげたが、もはやシーサリオンには届いていなかったようだった。
「やめるんだ」
剣の柄に手をかけたまま、静かに、しかしよく通る声でシーサリオンは男たちに呼びかけた。男たちは、楽しみを中断されたような不機嫌な目をシーサリオンに向けた。その姿を見るや、男たちの顔に下品な笑いが浮かぶ。
「なんだ、ひょっとしてこの女を助けにきたのか?」
「王子さま気取りってか。ふん、たしかにずいぶんと身なりがいいじゃねえか」
「ちょうどいい、こいつの身ぐるみもはいじまおうぜ」
口々に発せられるくだらない会話を無視するように、シーサリオンは男たちと状況とを観察していた。
ローブの女を挟むようにしてふたり。その手前、シーサリオンの正面にふたり。ローブの女の後ろは倒壊した建物でふさがれている。おまけに足元に散乱したがれきが、素早く逃げだすことを困難にしていた。ローブの女を安全に救出するなら、男たちを無力化させるのが早くて確実な方法だろう。
シーサリオンは考えがまとまったのか、男たちの不意を突くような素早さで行動を起こした。剣を抜き放ちざま、目前の男たちを歯牙にもかけず、ローブの女へと一気に接近する。あわてたように斬りかかる男の剣をいなすと、巧みに身体を入れかえて、ローブの女から男たちを遠ざけた。だが、まだ男たちは全員健在だ。シーサリオンが大変なのはこれからだった。
男のひとりがシーサリオンへ剣を振るう。ほかの男たちと同時に攻撃されないよう位置を変えながら、シーサリオンは打ちおろされた剣に刃をあわせるようにして払った。
体勢を崩された男がたたらを踏む。その足をシーサリオンが素早く刈った。がれきの上にもんどりうって転がった男に目もくれず背を向けると、べつの男へと剣をかまえた。
「こいつ!」
「油断するな。見てくれは優男だが、なかなかやるぞ」
男たちに緊張が走った。その動きに慎重さが加わり、お互いがようすをうかがうような状態になった。張りつめた空気が若干の重さを含んだように、不快さを増していた。
「……たしかに、ありゃあ強いな」
がれきの陰からシーサリオンの戦いぶりを見ていたエモルディが、感心したようにつぶやいた。その顔からはおどけた雰囲気はすっかり消え、剣舞のような戦いを見せるシーサリオンに、鋭さを増したまなざしを向けていた。
「でも、さほど実戦慣れはしてねえようだな。おまけに、詰めが甘いときてやがる」
エモルディは腰の剣へ手をかけた。その視線の先では、さきほどシーサリオンに転がされた男が、剣を拾って立ちあがろうとしていた。しかし、男たちと対峙したままのシーサリオンはそれに気づいていないようだった。
エモルディは剣を抜いた。
シーサリオンが背後からの気配に気づいたときは、まさにその兇刃が振るわれようとしたときだった。とっさに防御をしようとするが、おそらく間にあわないだろう。だが、男の兇刃はシーサリオンを傷つけることはなかった。
矢のように飛びだしたエモルディが、素早く男の剣を受けとめていたのだ。男とシーサリオンの驚愕のまなざしを浴びたまま、エモルディは閃光のような斬撃を男に見舞う。
くずおれる男を尻目に、エモルディは残りの男たちに向きなおった。その剣の切先が容赦のない光を男たちに向けていた。
「ここで退くなら、そこまでだ。そこに転がってるやつを連れて失せな。そうでなけりゃ、死にたいやつからかかってくるんだな」
感情のこもっていない声が、エモルディの本気をあらわしていた。自分たちでは、このふたりとやりあうには分が悪いと判断したのだろう、忌々しげな視線を向けたまま、男たちは逃げるように立ち去っていった。
「ありがとう、エモルディ」
「なあに、借りを返したまでよ。まさか、こんなに早く機会が来るとは思ってなかったけどな」
おどけた笑みを見せたエモルディにつられて、シーサリオンも笑顔を見せたが、すぐに表情をあらためてローブの女に向きなおった。
「大丈夫かい?」
シーサリオンの問いかけにも、ローブの女は応えなかった。恐怖に震えているのか、なにかを話そうと口を動かしてはいるが、それは言葉になっていないようであった。
「ちょっと落ちつくまで待ったほうがよさそうだな」
「そう、だね……」
「……どうした?」
エモルディがシーサリオンの異常に気がついた。目の焦点が合っていない。まるで立ったまま眠っているような状態に、尋常ではないなにかを感じたのだ。しかし、あわてて声をかけようとするエモルディもまた、その足許がおぼつかない。あやしげな空気が、ふたりを包んでいた。
そんなふたりのようすを見るローブの女は、フードのなかで小さな笑みを浮かべていた。
そのときだった。
「そこまでにしてもらいましょうか」
とつぜんの声に、ローブの女は驚いたようすを見せた。その声は、たしかな意志を持って届けられて、周囲に漂う不穏な空気を払いとばしていた。
フランジアで唯一の貿易港は、もはやその役目を果たすことはできなくなっていた。強大で無慈悲な魔力が港を蹂躙して、港としての機能を保つべき施設を、すべてがれきに変えてしまったのだ。もとからここにいたものは生者も死者も存在せず、あとからやってきた生者たちが、がれきの山に影を落としていた。
「……ひどいものね。ここまでするなんて」
浅葱色のローブに身を包んだ娘は、寂しげな声をもらした。フードを目深にかぶり、その表情まではわからないが、クレジオスの惨状を悼んでいるのはたしかなようだ。
「魔術の形跡はなし。たしかに魔力でなぎ倒されているのに、どういうことかしら」
建物の残骸らしきがれきを手にとり、なにかを確認してはべつのがれきを手にする。あたり一面を覆いつくすがれきの表面には、焼け焦げた跡や大きな破損などはなく、倒壊した際にできたであろういくつかの傷があるだけだった。
グラファスの魔力が建物をなぎ倒していったはずなのに、である。まるで積木を優しく崩したように、クレジオスの建物は倒壊していた。
「これだけでもわからないのに、消えた死体。……いいえ。アレイユにしても、ここにしても、死体だけじゃないか」
嘆息して空をあおいだローブの娘は、ふとなにかに気づいたように振り返った。潮風に乗って、争うような声と物音がわずかに聞こえてくる。
なにごとか確かめようと、ローブの娘は声のするほうへと向かった。しばらくすると、がらの悪そうな四人の男と、ふたりの青年がそれに対峙している場面に遭遇した。青年たちの背後には、枯葉色のローブをまとった人物がいた。体格からして、それは女性のようだった。
彼女がそれだけの情報を視覚から取りいれている間に、人数差をものともせず、わずかな時間で青年たちが男たちを追い払ったようだ。青年たちは背後にいたローブの女になにか話しかけていた。だが、ふたりのようすがなにかおかしい。足許がふらつき、いまにもその場で眠りだしそうだった。
「まさか……!」
たしかな魔術の気配を感じて、ローブの娘は表情を硬くした。その口から魔力を持った言葉が紡ぎだされた。その魔力は術式という法則によって組みあげられ、魔術となって発現するのだ。
ローブの娘が発現させた魔術は、ふたりの青年を包んでいた不穏な空気を一蹴した。
「そこまでにしてもらいましょうか」
その目に冷たい雷光をひらめかせて、彼女はそう告げた。