即位記念祭前日(二)
シーサリオンがフランジア城へと帰ってきたのは、夜の帳が昼の勢力をすっかり駆逐したころだった。もちろん、ナヴガーラ将軍と交わした刻限はとうに過ぎている。
シーサリオンはすこしばかりばつの悪そうな表情を見せつつ、仲の良い使用人がこっそり錠を開けてくれた勝手口から、夜気をはらんだ別館の厨房へと入っていった。火種の残る厨房はわずかな茜色に照らされて仄明るく、手探りで進むような暗闇ではなかった。
シーサリオンにとっては通いなれた帰路なのか、その動きには迷いがない。あらかじめ決められた道筋をたどるように、厨房を横切り出口へ到達した。扉を薄くあけて外の状況をうかがったとき、シーサリオンはわずかに眉をひそめた。
厨房前の廊下が静まりかえっている。夜も更けたころなので当然ではあるが、妙な違和感があった。その原因はなんであろうか。
……兵士がいない。
別館とはいえ、ここは王城であることに変わりはない。人数は少なくとも、常に城内を見まわる兵士は存在するはずだった。シーサリオンもそれに気づいたのだろう。
兵士たちは即位記念祭の警備に駆りだされたとも考えられるが、フランジア軍は王城の警備を手薄にするほど人手が足りていないわけでもない。兵士たちが持ち場を離れるということは、即位記念祭の誘惑に負けて職場を放棄したか、持ち場を離れざるをえない緊急事態が発生したかのどちらかだ。
シーサリオンは後者の考えに至ったのか、周囲を警戒するそぶりを見せながら、足早に自室へと向かった。
人の気配がない長い廊下が静寂に支配されるのを、シーサリオンの靴音だけがしばらく抵抗をつづけていた。だが、加勢は意外なところからあらわれた。廊下の先、シーサリオンの自室がある方角から、人の声らしきものが聞こえてきたのだ。
「王子、シーサリオン王子!」
近づくにつれてそれは明瞭な声となり、発していた言葉はシーサリオンの背筋に見えない氷塊をすべらせたようだった。落雷にでも撃たれたかのように両眼を瞠り、彼は廊下の先を見すえていた。
武装した老騎士がひとり、シーサリオンの自室前に立っている。
体格はシーサリオンと同じくらいだが、鍛えられた肉体はいまでも現役の騎士として任務をつとめていてもおかしくない。鼻が大きくりっぱで、白髪にやや目尻のさがった風貌は、騎士としては柔和な印象を与えていた。
声の主は、シーサリオンの世話係である老騎士ラウムだったのだ。
いつまでたっても帰ってこないシーサリオンの素行に、大海のようなラウムの忍耐もついに蒸発してしまったのだろうか。シーサリオンは悪戯をとがめられた幼児のような表情を浮かべると、観念したように自室前に立つラウムの元へ歩みよった。
「ラウム、あの……」
「王子! ご無事でしたか!」
ことさら殊勝なシーサリオンの態度は、安堵を爆発させた老騎士の科白に呑まれてしまったようだ。ラウムのほうはといえば、なんどもシーサリオンの身体に触れてそれが実体であることを確認すると、落ちついたように大きく息をついた。
「どうか心穏やかにお聞きください。宰相グラファスが謀叛を起こしました」
「…………」
「あやつの真意はわかりませぬ。だが、グラファスが王家に連なるものを目の敵にしているのは明白」
ラウムはその瞳に慈愛を湛えると、決意を表情に変えてシーサリオンを見据えた。
「どうかお逃げくだされ。それこそがフランジア王家の、そしてこのラウムの願い」
「ラウム、ちょっと待って」
懇願のまなざしを向けるラウムに、シーサリオンは疑問を投げかけた。
「謀叛だって? でも、王都から見たフランジア城は穏やかそのものだったよ」
「……私も魔術にはくわしくはありませんが、どうやらグラファスめは、このフランジア城すべてを結界に閉じたようですな」
ラウムは得心がいったようにうなずいた。
結界というのは見た目を変えるのではなく、人の心に作用する。遠巻きに眺めるだけで、王家の本質に興味がないものや、フランジア城に強い思い入れのないものには、その姿はいつもと変わらぬように見えるのだろう。
それはまた、シーサリオンにもフランジアに特別な思い入れがあるわけではないことを証明する要因になりえるものだ。だが、ラウムにとってはそんな事実よりも、自分が世話をしてきた第二王子が無事でいることが重要であるようだった。
「時間がありませぬ。ご支度を」
急かすようなラウムの声とともに、シーサリオンは押し込まれるように自室へと入っていった。
「帯剣し、旅装束にお着替えください。外套もお忘れなきよう。もちろん、剣は鍛錬用のなまくらではなく、真剣をお持ちくだされ」
「ちょ、ちょっと待って!」
河川の氾濫のような指示をだすラウムに、シーサリオンはたまらず声をあげた。当のラウムは、なにをとまどうことがあるかといった表情でシーサリオンを見つめた。
「ぼくだけが逃げてもしょうがないよ。父様や、ユークリッド兄様はどうしたのさ」
その言葉は、小さな衝撃となって老騎士をつらぬいたようだ。かろうじてラウムのできたことは、苦渋と決断をないまぜにした声で応えることだけだった。
「……私が見たのは、開け放たれた『聖賢の塔』への扉でした」
シーサリオンが王妃エルリアの身を案じなかったのは、当然ともいえるかもしれない。庶出であるシーサリオンをことさら冷遇してきたのは、王妃であるエルリアだったのだから。真実かは定かでないが、聞き伝えによるとシーサリオンが別館に住まうのすら許さなかったという。
それはともかく、王殿のある「聖賢の塔」へグラファスが侵入したということは、最悪の事態が訪れたというべきだろう。
シーサリオンも同様の考えに至ったのか、その端正な顔をわずかに青ざめさせた。それでも取り乱したそぶりを見せない第二王子に、若干の安心を抱いたようすでラウムは言葉をつづけた。
「いまや王子だけが、フランジアの正当なる血統。……どうかお逃げくだされ」
うなだれるように頭を垂れるラウムに、シーサリオンは応える言葉をなくしたようだった。
内心の衝撃を包み隠すように、シーサリオンは旅支度をととのえた。帯剣し、仕立ては上質だが見た目は地味な旅装束に身を包むと、それをさらに覆い隠すように外套を羽織る。その傍らでラウムがたいまつとランプを手にしていた。
「王子、こちらへ」
放心して人形のようなたたずまいのシーサリオンを、引きずるようにして老騎士は部屋の外へと連れ出した。別館の入口とは反対側の、回廊の奥へと。
幻想から現実へと急速に引き戻されたシーサリオンは、幾度めかわからない疑問の声を眼前の老騎士へ発した。
「ラウム、この先は『鏡の回廊』だよ。行き止まりじゃないか」
「鏡の回廊」とは、フランジア城の別館に設けられた、文字どおり鏡が幾重にも飾られた廊下のことである。さほど広くはない別館を大きく見せるため、随所に大鏡が設置されたその場所を、城内のものは皮肉めいてそう呼んでいるのだ。
シーサリオンのその疑問に応えることなく、ラウムは歩を進めて、回廊の中程にある大鏡の前で足を止めた。そして腰から短刀を引き抜くと、壁と鏡の境目に刀身を突き刺し、手首をこじる。かんぬきが外れるような音がすると、大鏡はその身をずらして昏い道を指し示した。その先は奈落へ向かうように、階段が闇へと続いていた。
シーサリオンは驚愕と困惑の入り交じった表情を、ラウムへと向けた。小さくうなずいた老騎士は、手にしたランプとたいまつををシーサリオンへ手渡した。
「この先はジェラルディンの外へと通じております。ただし、地下通路は長らく使われておりません。道中の蜘蛛の巣などはたいまつで焼き払いながらお進みくだされ。通路を抜けたさらにその先はワルド山脈へ。ルヴェインの元へ向かうとよろしいでしょう」
その名にシーサリオンは懐かしさをおぼえたようだった。先代の宰相であるルヴェインは、その座をグラファスに譲り、高齢を理由に引退するまで、ラウムとともにシーサリオンの教育係をつとめていたのだ。
「これをお持ちください。昨日、陛下よりお預かりしましたものです」
ラウムが差し出したのは、片手に収まるほどの銀の箱だった。ふしぎそうに箱を受けとるシーサリオンに、ラウムは言葉をつづけた。
「それは『カリュクス』です。フランジア正統の証であり、未来を見通す水晶の瞳とも呼ばれるもの。ルヴェインならば、その『カリュクス』についても詳しいでしょう」
「ラウムはどうするの」
静かな声でたずねるシーサリオンに、老騎士は穏やかな笑みを見せた。
「老いたりとはいえ、私はフランジアの騎士なのですよ。王国と王族を守ることこそが、騎士のつとめなのです」
寂しさを湛えたまなざしのシーサリオンへ、ラウムは自らの首飾りを差しだした。紅い宝石が彩るそれは、簡素な造りだがどこか心を安らげる光があった。
「これは……?」
「持ち主を災厄から守るといわれております。娘の形見ですが、お持ちくだされ」
「そんな大事なもの、受けとれないよ……!」
かぶりを振るシーサリオンへ、ラウムはなにもいわず首飾りをかけた。驚いた表情を見せるシーサリオンに、老騎士の笑みがかさなった。
「お守りだとでも思ってくだされ。それがこのラウムのできる、せめてもの餞別」
シーサリオンがなにかをいいたげに顔をあげたとき、別館が大きく揺れた。それと同時に、不穏な気配が回廊のはるか先にあらわれたのが感じられた。
「どうやらグラファスめがこの別館にたどり着いたようす。シーサリオン王子、はやくお逃げくだされ。地下通路はいくつか分岐に面しておりますが、そのときは天井を見てください。白く塗られたほうが正しい道筋を示しております」
「ありがとう。ラウムにはいくら感謝しても足りないよ。……ラウムがほんとうのお祖父様だと嬉しかったのに」
涙声でかすれたシーサリオンの言葉にうなずきながら、ラウムは第二王子の背を押す。なんども振り返りながら、シーサリオンは階段を下りて地下通路の闇へ消えていった。
「……フィーラよ」
大鏡の隠し扉を元に戻しながら、ラウムは娘の名を口にした。
「おまえの息子を、どうか守ってやってくれ……」
長らく使われていなかった地下通路は、かび臭く湿気に満ちていた。通路はさほど広くなく、シーサリオンがなんとか身をかがめずに通れる高さと、ランプとたいまつを両手に携えても狭い思いをしないだけの空間があるていどだ。通路を進むとよどんだ空気が撹拌されて、なまあたたかい掌でシーサリオンの頬をなでていった。
思っていたほど蜘蛛の巣に悩まされることもなく、シーサリオンはずいぶんと長い距離を歩いていた。分岐で天井を見あげ、白く塗られた通路を進むことが幾度つづいただろうか。折れた通路の先に見なれない光景があった。
通路の先を大きな岩がふさいでいる。だが、その岩は表面をなめらかに仕上げられ、人の手によるものなのはあきらかだった。
シーサリオンはたいまつを地面に置くと、ランプを掲げてその岩を丹念に調べはじめた。しばらくして金属の把手のようなものを見つけると、意を決したように力をこめて引く。
さびついた把手は悲鳴のような不快な軋みをあげて動き、つづいて大岩がすこしの振動と低い音をたてながら、シーサリオンにその道をあけわたした。
岩扉が退いた通路の先からは、いままでとは違う空気が流れこんできていた。夜気を含んだそれは、シーサリオンにひとつの結論を想像させるものだった。
「外だ……!」
その言葉はすぐに現実となり、ほどなくしてシーサリオンは地下通路から抜け出していた。出口はちいさな祠になっていたが、木造の祠はだれも手入れをするもののないまま、半ば自然に帰しかけたようすだった。
祠のある場所は小高い丘になっており、見まわすと深更の闇に溶けこんだ王都ジェラルディンを一望できた。
そのたたずまいは穏やかで、とても王城で惨劇がおこなわれているとは思えないものであった。
しばらくジェラルディンを見つめていたシーサリオンの頬を、知らず涙が濡らした。なにを思い至ったのか、懐中からラウムに託された「カリュクス」を取り出す。銀の箱をあけると、中には同じく銀製の絵札が納められていた。
無造作にシーサリオンは絵札を手にした。裏側には、翼を広げた女神の姿が彫刻されている。その姿は見なれないものだった。名も知れぬ女神の姿を一瞥すると、シーサリオンは絵札を返した。
そこには天秤に絡みつく鎖の絵が彫刻されていた。意味はわからないようだったが、シーサリオンはなにかを感じたのか、決意に満ちた表情でワルド山脈へと向かっていった。
シーサリオンが無造作に引いた「カリュクス」は〈運命の鎖〉(テュリーフォーイラ)という。立ち向かう運命、切り拓く未来といった意味を持つ絵札だ。
……まさにいま、シーサリオンは立ち向かうべき大きな運命の流れのなかへその身をゆだねたのだった。