学問の塔(三)
天頂にさしかかった陽光に照らされて、やわらかくも荘厳なかがやきを見せる「塔」の前へと一行はたどり着いた。その姿を見あげるシーサリオンたちの背後では、噴水が涼やかな水音をひびかせている。そして、白亜の巨塔は物言わず、長い旅路を経た冒険者たちをただ見おろしていたのだった。
その「塔」の入口はわずか数段の階段をのぼった先だった。階段の上には小さな屋根付き玄関が設けられており、その両脇にはふたりの門衛が控えて、無感動なまなざしをシーサリオンたちに向けていた。入口の厳粛な様相にシーサリオンとエモルディがわずかに緊張を見せると、ふたりを制するようにマレリエルが歩み出た。すると、まるで申し合わせたように左右の門衛が同時に拝礼したのである。
「魔導師マレリエル。此度の『塔』への訪問はいかなる用件でありましょうか」
まなざしとよく似た無感情な声が、質問の形をとって門衛のひとりから発せられた。それは街の入口にいた門衛とはちがう、人の温かみを感じさせないものであった。
「現在調査中の案件について、聖賢者ザーファイへ報告すべきことがあります。わたしと、同行者にも拝謁の許可を」
マレリエルが簡素に用件を伝えると、門衛の片割れが「しばしお待ちを」と告げて入口の奥へと消えていった。
それほど待たされることなく、奥に向かった門衛が姿をあらわした。入口の扉を開け放ったまま、門衛は一行へと道をあけた。
「お入りください。謁見は『円環の間』にておこなわれます」
マレリエルは無言でうなずくと、シーサリオンとエモルディをうながして「塔」の中へと消えていった。その背後で入口の扉を閉めた門衛は、ふたたび彫像のように無感動なまなざしを外へと向けたのだった。
一行が足を踏みいれた「塔」の内部は、外観と同じ象牙色の廊下がわずかに延びて、その先は葡萄色の扉が行く手をさえぎっているだけの、ごく狭いものだった。
「この向こうが『円環の間』よ。ありていにいえば、謁見の間ってこと」
そう告げたマレリエルが、いささか緊張を含んだ面持ちで扉に手をかけた。そのまま力をこめると、扉は手入れが行き届いているのか、わずかな音をたてただけで軋むこともなく、なめらかに開いていった。
扉の向こうは円形の広間になっていた。とはいってもさほど大きいわけでもなく、宿屋の四人部屋ていどの広さしかなかった。だが、天井だけは部屋に不釣り合いなほどの高さが設けられており、そのせいか、それほど圧迫感をおぼえることはなかった。
部屋の奥には紫檀でつくられた重厚な机と椅子がひとつ置かれていた。その下には色鮮やかな織物が敷かれて、織物の端に乗るようにひとりの小柄な老人が立っていた。その老人は金刺繍のほどこされた白いローブに身を包み、ずいぶんと薄くなった頭部の下で、値踏みするようなまなざしを一行に向けていたのだった。
「……あれが聖賢者ザーファイか?」
マレリエルを肘でつつき、エモルディが低声で問いかけた。遠目では気づかれないていどで表情に不快さをあらわすと、マレリエルはあきれたような声で応えた。
「いいえ。『五席』のひとり、賢者トレヴィスよ」
聖賢者という位階に就くものは「学問の塔」の最高責任者でもある。だが、そのいっぽう聖賢者は「学問の塔」の四百年あまりに及ぶ歴史のなかでも、いままでに五人しか到達していない位階なのだ。
では、聖賢者のいない場合の責任者は誰がつとめるのだろうか。その答えが、いま一行の眼前に立っている「五席」と呼ばれる人物である。「五席」は人格・実力ともに優れた高位の賢者たち五人を選出し、構成されている「学問の塔」の管理者であった。
……というのはもはや建前であり、なまじ権力のある地位だけに、長い歴史のうちにお世辞にも高潔とはいいがたい人物がさまざまな画策を経て、その地位に就いている場合もあったのである。
マレリエルの表情が物語るように、一行の眼前に立つ賢者トレヴィスも、そんな黒いうわさのささやかれる「五席」のひとりであった。
「ご苦労であった、魔導師マレリエル。聖賢者ザーファイはご多忙であるため、報告は私が代わって聞こう」
硝子にやすりをかけたようなざらついた声は、むろん、賢者トレヴィスが発したものだ。その声は目に見えない不快さを含んで「円環の間」にざわめきをたてた。
「非常に重要な案件ですので、聖賢者ザーファイに直接お伝えせねばなりません。どうぞお取次ぎ願います」
マレリエルはその顔に無表情の甲冑をまとうと、ひややかな言葉の剣をくりだした。だが、その刃は賢者トレヴィスのぶ厚い顔の皮にはばまれて、さしたる効果を与えられなかったようだった。その目に嘲笑の光を湛えて、賢者トレヴィスはマレリエルをにらみつけたのだ。
「いかに『学問の塔』の精鋭である魔導師とはいえ、たかが小娘がたいそうな口をきくものだ。聖賢者がそなたごときにお会いになるわけがなかろう」
その声には愚弄と侮蔑が隠しようもないほどに含まれていた。瞬間、マレリエルの目に怒りの炎が灯り、形のよい眉が鋭角に吊りあがった。だが、彼女はその怒りを外側へ向けて開放することを、かろうじて半歩手前で踏みとどまったようだ。……というよりは、みずからの立場からしても、ここで自分より上位の位階である賢者、まして「五席」と呼ばれる地位にある人間と、いらぬもめごとを起こすわけにはいかなかった。というのが正直なところであろう。
そんなマレリエルの心境を推察したのか、賢者トレヴィスが狡猾な笑みを浮かべかけたとき、シーサリオンが一歩進み出た。
「……なにものかね?」
愉悦の瞬間を邪魔され、不審そうな目を向けた賢者トレヴィスの顔を、シーサリオンはまっすぐ見返していた。
「私はフランジア王国の第二王子シーサリオン。我が師であり、フランジア先代宰相であるルヴェインより、聖賢者ザーファイに宛てられた手紙を託されて『学問の塔』へ参上いたしました。この手紙と我が血脈にかけて、聖賢者ザーファイへの謁見を要求します」
よく通る声がさほど広くない「円環の間」を震わせた。まるで、空気までがその場にひれ伏したようだった。そこに立つシーサリオンは、まぎれもなく王たるものの偉容をたずさえていたのだ。
それでもさすがというべきか、その宣言を聞いても賢者トレヴィスはわずかに眉をひそめただけであった。だが、シーサリオンが差しだした手紙に押された印章を確認すると、彼の鉄面皮はもろくも崩れさった。
「大賢者の印章……! し、しばし待たれよ」
驚愕に目をむいて、顔を青ざめさせながら賢者トレヴィスは「円環の間」の奥へと消えていった。なにが起こったのかわからず立ちつくすシーサリオンとエモルディの傍らで、マレリエルが合点がいったように手を打った。
「大賢者ね。なるほどそういうことか」
「ぼくにはどういうことだかさっぱりだよ」
賢者トレヴィスに驚愕をもたらしたきっかけであるシーサリオンが、さきほどの偉容など微塵も残っていないようすで、なにか悪いことをしたような表情をマレリエルに向けた。
賢者トレヴィスの慌てぶりに、すこしだけ気の晴れたようすのマレリエルが、意味ありげな目でシーサリオンを見つめた。
「この『学問の塔』に、大賢者なんて位階は存在しないわ。……でも、その実力と業績によって、周りからそう呼ばれた魔術師がひとりいたの」
「それが……ルヴェイン?」
「たぶんね。もっとも、わたしが来るより前に『学問の塔』を離れたそうだから、あくまでうわさしか知らないんだけど」
「……ルヴェインがフランジアの宰相となったのは二十五年ほど前だ。マレリエルがあまり知らぬのも無理はないだろう」
不意にひびいた声が、落雷のような驚愕を一行にもたらした。声のしたほうへ目を向けると、さきほどまで賢者トレヴィスの立っていた場所に、墨色のローブを身にまとった白髪の老人が穏和そうな笑みを浮かべてたたずんでいた。
「聖賢者ザーファイ……! 失礼いたしました」
あわてたようにマレリエルが胸に手を当てて頭を垂れた。シーサリオンは片膝をついて黙礼し、エモルディもまた同様にひざまずいて、あらわれた人物に三者三様の敬礼を送ったのだった。
「そうかしこまらず、楽にするといい。旧友のよこした客人に礼を強いるほど、私は恥知らずではないのでね」
聖賢者ザーファイは小さく声を出して笑うと、あらためて一行を眺めやった。その視線がシーサリオンの前で止まる。その目はシーサリオンの素性を知っている、といいたげに揺れた。
「そなたがシーサリオン王子だね。……なるほど、母君の面影がある」
「母を、知っているのですか……?」
シーサリオンの問いかけに聖賢者ザーファイは否定も肯定もせず、ただ黙って微笑っただけだった。それを見たシーサリオンはつづく問いかけの言葉を口にすることができず、聖賢者ザーファイにルヴェインの手紙を差しだしただけだった。
聖賢者ザーファイが手紙を受けとると、封蝋が音もなく塵になって消えた。手紙を開いて文面を追う聖賢者ザーファイは、かすかに懐かしむような目をしていた。
「……そうか。ルヴェインは逝ってしまったか」
手紙を読み終えた聖賢者ザーファイは寂しげに微笑うと、まるで慈しむように旧友からの手紙を懐へとしまった。シーサリオンの表情がわずかに曇った。
「眠るように、安らかな死顔でした」
聖賢者ザーファイは、穏やかなまなざしをシーサリオンに向けた。
「ルヴェインは与えられた時間のなかで、成すべきことをやりきった。では、私もそれに応えねばならないだろう」
聖賢者ザーファイは「円環の間」の奥にある扉を開いた。薄闇の向こうに廊下が延びているのが見てとれたが、それがどこまでつづいているのかはわからない。
「ついてきなさい」
扉の向こうに消えた聖賢者ザーファイの後ろ姿を、シーサリオンたちは緊張したようすで追ったのだった。
「円環の間」の先を支配していたのは、色彩というものが欠如したような象牙色のみの廊下であった。歩みを進めるシーサリオンたちの視界にわずかな変化を与えているのは、点々と存在するさまざまな色の扉だけだったのだ。廊下をいくつか折れてその先にある藍色の扉を抜け、さらに進んで金装飾された緋色の扉を開くと、地下へと向かう階段が一行を待っていた。
聖賢者ザーファイが短く魔術の言葉を唱えると、魔術の灯火が宙に浮かびあがった。その灯火がゆっくりと階段を降りてゆくと、周囲の壁がぼんやりとした蛍光を放ちだした。
その階段を聖賢者ザーファイがしっかりとした足どりで降りはじめると、一行もそれにつづいたのだった。階段の幅は以外と狭く、ふたり並んで歩くことは困難だった。自然と一列に並ぶことになり、聖賢者ザーファイ、シーサリオン、マレリエル、エモルディという順番で階段を降りることとなった。
「……ずいぶん静かにしてるじゃない?」
蛍光に照らされた階段を降り進みながら、マレリエルは変わったものでも見るかのような視線をエモルディに向けた。それに目だけで応えたエモルディは、やや憮然とした表情をしてみせたのだった。
「おれだっていつも騒いでいるわけじゃないさ。まあ、今回ばかりはいろいろありすぎてそんな気も起きないんだけどな」
ふうん、とマレリエルはさほど感銘を受けたようすでもなく返事をすると、「なんだそりゃ」と抗議の視線を向けるエモルディを無視して、前を歩くシーサリオンの背中を見つめた。なにか思いつめたようなその背中は、不安げに揺れていた。
「……なにか気になるの?」
思わず問いかけたマレリエルに、シーサリオンは困ったような笑みを浮かべた。
「いろいろあるんだけどね。でも、ぼく自身の気持ちが整理できていないみたいだ」
「焦らなくてもいいんじゃねえのか。時間が解決する問題ってのもあるんだしな」
「そうだね。焦っても解決が早まるわけじゃない」
エモルディの言葉にいくぶん気が楽になったのか、シーサリオンはさきほどより余裕のある笑みを浮かべた。それを見て、マレリエルがもっともらしくうなずいた。
「あまり考えすぎないのもひとつの方法よ。まあ、エモルディみたいになにも考えないのは論外だけど」
「おい……」
「それよりほら、目を離せない光景とそろそろご対面よ」
文句をいおうとしたエモルディの機先を制して、マレリエルはおどけた表情で前を示した。狭く暗い地下への階段は終わりを告げようとしており、その先には金と銀で彩られた荘厳な浮彫彫刻が待ち受けていた。瞳に好奇心を満たせてゆくシーサリオンにマレリエルが笑いかけた。
「ここは『学問の塔』奥の院がひとつ、《禁忌書庫》よ」
「っていうがよ、ただ浮彫彫刻があるだけじゃねえのか」
エモルディが肩をすくめた。よく通路の端に鏡や浮彫彫刻などを配置するのは、行き止まりであることを認識させるためである。一行の目の前にある浮彫彫刻を見ても、たしかにここはどう見ても回廊の終点としか思えなかった。振り返った聖賢者ザーファイが穏やかな笑みを見せた。
「《禁忌書庫》の入口は特殊な魔術によって隠されているのだよ」
目の前の浮彫彫刻はただ壁の一部としてそこに存在していた。だが、聖賢者ザーファイが魔術の言葉を唱えると、鍵穴や把手、そして継ぎ目など存在していないのに、壁に亀裂が入り、それは扉へと姿を変えて一行に道をあけたのだった。
「シーサリオン王子が抱いた疑問には、あとで必ず応えると約束しよう。だが、いまはそれより優先すべきことがあるのではないかな?」
聖賢者ザーファイが泰然とした口調で問いかけた。たしかにそうである。シーサリオンが「学問の塔」にやってきたのは、自身について知るためではない。グラファスに対抗する術を見つけるためにやってきたのだ。
そのことはじゅうぶん理解しているのだろう、シーサリオンは迷いの消えたまなざしを聖賢者ザーファイに向けた。うなずいた聖賢者ザーファイは魔術の灯火で、入口の開かれた《禁忌書庫》全体を照らしだした。
そこは書架の樹海だった。新旧入り交じった紙の匂いと埃っぽさがたちこめて、視界を書架と書籍が埋めつくしていた。その匂いのなかには羊皮紙独特の獣臭も混じっているようで、ずいぶんと旧い時代の書物や巻物も保存されているらしかった。
「この《禁忌書庫》は、魔術書や歴史書、そのほかにも貴重な書物を所蔵しているわ。ふつうなら、ここに入ることができるのは魔導師以上の位階を持つものだけなのよ」
「……なるほど、どうりで見てるだけで頭が痛くなってきたわけだぜ」
マレリエルの科白に、ふだんから書架にあまりなじみのないであろうエモルディが早くも敗北を宣言した。皮肉めいた表情で、マレリエルがエモルディを見やった。
「大丈夫よ、あんたに書庫での活躍は期待してないから。それに、フランジア関連の書籍はそんなに多くないはずよ」
「へいへい。それなら荷物運びでせいぜい役に立つとするかね」
黒髪の傭兵は苦笑するとちいさく肩をすくめた。そんなやりとりを横目に、聖賢者ザーファイが奥にある書架の一角を指し示した。そこには、さまざまな装丁を施された背表紙が不規則に並べられていた。いいかえれば、彩りに富んでいるとでもいうのだろうか。
「この書架の蔵書が、フランジアから預けられたものだ」
シーサリオンは無造作に目の前にあった厚手の装丁が施された書物を手にした。それはどうやらフランジアの歴史書らしく、いまより百年ほど前までが記載されているようだった。だが、得られる情報はそれだけで、肝心のグラファスへの対抗策など記されているわけがなかった。
ほかに並べられた書物も旧い魔術書であったり、年表であったり、はてはフランジア城の建造資料であったり。魔術師や歴史的にとってはじゅうぶん貴重なものであったが、シーサリオンたちの要求を満たすものではなかった。
「……やっぱりわたしがフランジアに向かう前に調べたままね」
徒労を隠せない表情でマレリエルがつぶやいた。エモルディが抱えるようにして運んできた書物の何冊かを、彼女が一瞥しただけで横へ追いやったのは、以前すでに調べているからだった。
さすがにひとりで書架のすべてを調べることはできないが、関係のなさそうなものならはじめから見なければいい。おそらくマレリエルはそうやって資料を選別して、下調べをおこなっていたのだろう。限られた時間で必要な情報を得るのであれば、それは実に効率的な方法であった。
だが、いまはなにがきっかけになるかもわからないのだ。あえて資料を選別することなく、しらみつぶしに書架を探すしか道を開く方法はなかった。
「なにかあるはずだよ。でなければ、ルヴェインがわざわざ『学問の塔』に向かえなんていうとは思えない」
そういったシーサリオンの声にも、若干の焦りが含まれていた。そんな焦燥感をまぎらわせるためなのか、彼は知らず懐から「カリュクス」を取りだしていた。
「……きっとこの『カリュクス』にまつわる書物があるはずなんだ」
シーサリオンの手にした「カリュクス」は淡いかがやきに包まれていた。驚いたシーサリオンの目前で、書架全体が「カリュクス」のかがやきに呼応するように淡い光を放っていた。
驚愕する一行の眼前で光が強さを増した。それは次第に広がって、聖賢者ザーファイの創った魔術の灯火をも呑み込み、《禁忌書庫》を真昼のようなかがやきで満たした。
やがてそのかがやきは二冊の書物へ収束すると、その装丁をまったくちがうものへ変化させていった。
「なんということだ……!」
聖賢者ザーファイの驚愕の声とともに、光は書物に溶けるように消えていった。光が消えたそこには、旧い時代の旧い文字に彩られた書物があったのである。