学問の塔(一)
フランジア南の国境は、ディルフェンより街道沿いに、二日ほど南へ向かった場所にあった。国境といってはいるが、周囲には壁や柵のような、境界を隔てるようなものは存在していない。ただ、街道沿いに衛兵の詰め所とおぼしき粗末な小屋が建てられているだけだった。軍事的、経済的の双方にとって、さして重要ではない国境など、どこの国でもそんなものであろう。
小屋のわきには子供の背丈ほどの石碑があり、摩滅しかかった文字で「フランジア国境」と刻まれていた。そんなささやかな国境の関所を越えた先にあるものは、申し訳ていどに続く街道と、それを途中で拒絶する深緑の壁だった。
その壁は人間によって、ゼルリア大森林という名を与えられていた。だが、ゼルリア大森林は古今より、あらゆる手段で侵略しようとする名付け親たちの手を、ことごとくはねのけてきたのだった。その広さもさることながら、内部に光が差さないほど密生した木々と、伐採するには堅すぎる、樹木自身の密度によって、ゼルリア大森林は侵略者たちを一蹴しつづけてきたのである。
これらの要素により、現在に至るまでこの深緑の絶壁は、人間の踏み入ることのできない不可侵の場所になっているのであった。
そのことは、ゼルリア大森林に隣接する国々にとっては、互いにその領土を侵されないという点で安心をもたらしてはいた。だが、それはいいかえれば、自国の領土をそこより広げることができないということでもあったのだ。
また、通り抜けられないということは、その先へ向かうための交通の手段もかぎられるということである。フランジアの場合、ここより南へ向かうには東へと迂回するか、西の海を渡るしか手段を持っていなかった。
そのうちの海路をゆくことは、フランジアで唯一の出発地であるクレジオスが、港として機能していない時点で不可能であった。
いっぽうの陸路では、この場所からゼルリア大森林を大きく迂回するだけで、ひと月半ほどの日数を要してしまうのである。
「……で、どうやってあの難物を越えようってんだ?」
だから、エモルディがいささか不満げに疑念の声をもらしたとしても、それはしかたないことであったのだ。……おそらくではあるが。
「目的地はもうすこし先よ。あと半日もかからないわ」
みずからに向けられた、期待と不安が半分ずつ同居した視線を、余裕の表情で受け流して、マレリエルは手入れのされていない街道の先を見やった。
「さすがに人通りがないから、道が荒れているね」
シーサリオンが足元の街道に目を向けた。かつては、ゼルリア大森林までをもそのまま貫いてゆくつもりであったのだろうか。深緑の絶壁へと延びるその街道の幅は広く、石畳でしっかりと舗装されていた。
だが、それも人々の希望と努力の届いた範囲までであり、そのあとには道と呼べるようなものは遺されてはいなかったのである。
「人が通っていくから、そこは道になるのよ」
どこか哲学めいた科白とともに、マレリエルは先導するように歩きだした。シーサリオンとエモルディは互いに顔を見合わせ、苦笑し、肩をすくめると、先を行く魔術師の背中を追ったのだった。
もはや街道の残骸というべき道を、一行が歩み続けてしばらくの時間が過ぎていた。太陽が彼らと地表を照らしつづけることに飽きはじめて、その居場所をゆっくりと西へ移動させたころ、マレリエルが不意に足を止めた。
「ここよ」
短く告げた彼女の視線の先には、朽ちた石柱碑が一基、うち捨てられていた。かつては高くそびえていたであろうその姿は、風雨にさらされ、刻まれた碑文も読めぬほどにその身を削られて、ついには自然の力の前に屈し、中央付近から折れていた。手入れのされていない周囲の状況もあいまって、その石柱碑は半ば自然に帰しかけた印象があったのだ。
「ここ。って、ぼろぼろの石柱碑があるだけじゃねえか」
あきれたような声をあげたエモルディへ不敵な笑みを返すと、マレリエルは石柱碑へと歩みよった。シーサリオンの興味深げな視線がそれを追っていた。
「その石柱碑になにかあるのかい? ……でも、折れてしまっているよ」
「かまわないわ。石柱碑は、ただの目印だもの」
石柱碑の傍らにたたずんだマレリエルは、ささやくような声で、なにか言葉をつむぎはじめた。それは、魔術師にしか理解できない言葉だった。
言葉の糸繰車がそのすべてをつむぎだしたとき、周囲に変化があらわれた。それは静かであったが、しかし劇的な変化であった。
「地面が……!」
驚きの声をあげたシーサリオンの眼前で、石柱碑を中心にして、大地が淡い光を放っていた。無秩序だったその光はやがて形をなして、魔術文字に彩られた幾重もの円を大地に描きだした。
「なんだ、こりゃあ……」
困惑するエモルディの声に、光の円の中心にたたずんだまま、マレリエルは微笑った。
「これは、『渡り鳥の門』よ。離れた場所をつなぐ、魔術の回廊」
シーサリオンの瞳が好奇心に満ちて、表情が知識への渇望にかがやいていた。
「転移の魔術なのかい?」
「似たようなものね。まあ、いまここで小難しく説明するより、実際に体験したほうが早いわ」
すこしめんどうげな口調でいうと、マレリエルは光の円の外にいるふたりを手招きをした。彼女にしてみれば、ほんとうに説明がわずらわしかったのかもしれない。わかりやすく伝えようとしても、それにしては魔術師にしか理解できないことが多すぎたのである。
シーサリオンがこわごわと足を踏みだした。円のなかへと歩み入っても、光の濃度は微塵も変化することなく、ただシーサリオンを受けいれただけだった。
「なんともないのか?」
不安のひびきが混じったエモルディの声に、シーサリオンはうなずいてみせた。その隣でマレリエルが腰に手を当てたまま、あきれたような表情をしていた。
「あたりまえでしょ。まだ起動させただけで、術自体は発動していないんだから。早くしないと、あんただけ置いていくわよ」
冗談には聞こえないマレリエルの声に背中を突きとばされるように、エモルディもまた光の円へと足を踏みいれたのだった。
「ぼくたちはなにをしたらいいのかな」
これから起こることに対する好奇心を、その瞳と声とにあふれるほど湛えて、シーサリオンがマレリエルにたずねた。すこしばかり得意げな表情を浮かべたマレリエルの返答は、あっさりしたものだった。
「なにもしなくていいわ」
「……え?」
あまりに拍子抜けした顔をしていたのだろう、シーサリオンを見やったマレリエルは、おかしそうに笑った。
「まあ、しいていうなら、この円から外に出ないようにするくらいかしら」
ようするに、邪魔をするなということである。ことが魔術に関することである以上、知識を聞きかじっただけのシーサリオンと、はなから埒外であるエモルディにできることは、皆無といってよかったのだ。
ふたたび開かれたマレリエルの口から、またも耳慣れないひびきを持った言葉がつむがれた。魔力を統べ、魔術を構成するその言語は、大地に描かれた光の法陣を強くかがやかせた。
周囲の景色が揺らいだ。
不意のできごとにシーサリオンとエモルディが思わず身構えた。だが、一瞬にも満たない時間のうちに、彼らの目は驚愕に瞠られることとなった。
一行の眼前には、それまでとまったくちがう風景が広がっていたのである。
ゼルリア大森林と呼ばれる深緑の絶壁は、もはや一行の眼前には存在していなかった。ひややかな深緑の絶壁にかわり、やわらかな若草色の海原が、シーサリオンたちの眼下に広がっていたのだ。
自分たちの周囲を確認するために、一行は正面を向いていた視線を、こんどはやや下方へと向けなくてはならなかった。
どうやらいま、シーサリオンたちが立っているのは、小高い丘のようであった。彼らの傍らには小さな祠が建っており、それを中心にして、大地に淡くかがやく光の法陣が描かれていた。
「もう出てもいいわよ」
落ちついたままのマレリエルの声で、シーサリオンとエモルディは、自分たちの眼前にある光景が現実のものであると悟ったようだ。
「ここが『学問の塔』なのかよ?」
目の前にある小さな祠を指さして、エモルディが間の抜けた声をあげた。そんなことはないのが当人もわかってはいるのであろうが、どうも頭のなかをうまく整理できないでいるようだった。
「……もしそうだとしたら、わたしのいないうちに『学問の塔』は転居をしたようね。どちらかというと、夜逃げといったほうがよさそうだけど」
かるく息をついたマレリエルが光の法陣を出ると、そのかがやきは薄れてゆき、やがて音もなく地面に溶けていった。
「ここはどこなんだい? どうやらゼルリア大森林は抜けたようだけど、周りに目立ったものはないみたいだね」
シーサリオンが周囲を見まわしながら声をあげた。ゼルリア大森林とおぼしき深緑は、若草色の海原の向こうにたゆたっていた。太陽はその左側で退屈そうにその責務を遂行している。位置関係から推測しても、その深緑がゼルリア大森林であることを疑う余地はないだろう。
「いまから調べるから、ちょっと待って」
地図らしきものを取りだして、マレリエルはシーサリオンの疑問に応えた。それをのぞき見たエモルディが頓狂な声をあげた。
「なんだよ、虫喰いだらけじゃねえか」
マレリエルの広げた地図には、たしかに地形が描かれていた。だが、それはずいぶんと余白が多いもので、地図と呼ぶには全体の形状を把握できにくいものであったのだ。
不満げな表情のエモルディに不敵な笑みを返すと、マレリエルは魔術の言葉を短く発した。すると、地図の余白でしかなかった部分に、新たな地形が染み出すように描きくわえられていったのである。
「……トリエスタの周辺だから、移動限界地点のひとつか。思ったより遠くまで行けたみたいね」
「どうなってんだ? いま、地図が勝手に描きこまれたぞ」
目を丸くしたまま、呆けたような表情で発せられたエモルディの言葉に、シーサリオンも同様にうなずいていた。
「これは、訪れた場所を魔術で描きこんでゆく地図よ。いま、このあたりを地図に描きこんだの」
すこし自慢げな声で、マレリエルが疑問に応えた。
「それじゃあ、地図が虫喰いになってるのは……」
「わたしが行っていない場所は、地図に描きこめないでしょ?」
シーサリオンがなにか納得したようすでうなずくと、エモルディがべつの疑問を発した。
「でもよ。ここがなんでその、トリエッタとかいうところだってわかるんだ?」
「トリエスタよ」
マレリエルは訂正し、描きこまれたばかりの地図を一瞥した。
「大陸全土をほぼ正確に描いた地図が『学問の塔』にはあるのよ。だから『渡り鳥の門』があるおおまかな場所と、地名くらいはおぼえてきているってわけ」
「じゃあその地図を持ってきたらいいじゃねえか」
「大きさがベッド四つぶんくらいあるけど?」
「……そりゃあ無理だわな」
「それにあの地図は、わたしみたいに大陸各地を巡る魔術師たちの努力でつくられたものなの。いまも魔術師たちの手で、すこしずつ新しくされているわ。気安く持ちだせるものじゃないのよ」
新しい土地が描きこまれた地図をしまいこみながら、マレリエルが眼下を眺めやった。若草色の海原を、明るい土色の蛇が身体をうねらせて横断していた。よく見るとそれは石畳の色で、どうやらすぐ眼下に街道が通っているようであった。
「あれがトリエスタの南街道のはずだから、どこかに宿場があるはずよ。陽が暮れないうちに宿へたどり着きたいわね」
「なんだって? ここから『学問の塔』まで行くんじゃねえのかよ」
「そうできればいいんだけどね。フランジア南からだと、ここの『渡り鳥の門』周辺までしか行けないのよ。それに、どのみち今日はもう無理ね。『渡り鳥の門』を使っても、三人を移動させるのはわたしの負担が大きいの」
応えたマレリエルの顔には、たしかに疲労の色があった。しかし、エモルディがどこか納得できないようにふたたび口を開いた。
「じゃあいつになったら『学問の塔』にたどり着くんだよ」
「……そうね。この調子だとあと二、三か所は『渡り鳥の門』を通らないといけないから、着くのは半月くらい先かしら」
どう説明したらよいのか迷っているようすでマレリエルが応えると、シーサリオンが得心がいったような表情を見せた。
「つまり、『渡り鳥の門』はあくまで離れた場所をつなぐためだけのもので、移動できる距離と人数は術者の力量しだいだと。そして、到着点は出発点の『渡り鳥の門』ごとに決まっているってことだね?」
自身の魔術知識を総動員してたどり着いた結論を、シーサリオンが口にした。うなずいたマレリエルが、すこし感心したようすでシーサリオンを見つめた。
「だいたいあってるわ。けっこうくわしいのね。さすがというべきかしら」
「ってことは、マレリエルがすげえ魔術師だったなら、いまごろとっくに『学問の塔』へ着いてたってことか?」
エモルディが意地の悪い笑みを浮かべた。シーサリオンの言葉でとりあえず納得はしたようだが、なにかひとこといわないと気がすまないらしい。
「グラファスなら、限界なんか関係なく移動できるんでしょうね。さすがに、わたしにあんなふざけた力はないわよ」
比較する対象を皮肉そのものにして、マレリエルがエモルディの言葉を鋭く斬り返した。その一太刀でエモルディは思いのほか深手を負ったようで、二の句が継げなくなっていた。
それを見て満足したようすのマレリエルが、表情をあらためた。
「実際のところ、歩いて休める場所を探すくらいの余力は残さないといけないの。たしかに無理をすればもうすこし遠くの『渡り鳥の門』まで行けるけどね。でも、そのあと倒れたわたしを抱えて、宿場を探すわけにもいかないでしょう?」
さとすように告げたマレリエルの顔に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「まあでも、どうせ抱えられるんだったら、シーサリオンのほうがいいかな」
「……え?」
その意味をシーサリオンが尋ねようとしたときには、マレリエルの背中は丘の下へ向かって小さくなっていた。呆然としたままのシーサリオンの肩を、微妙な表情でエモルディがたたいた。
「女って、怖えよなあ……」
「……うん」
そう応えたシーサリオンの顔は、苦笑か失笑か、どちらを浮かべていたのだろうか。