邪悪の胎動(三)
魔導宰相グラファスの魔手にかかった都市のうち、アレイユは街全体が壊滅していた。クレジオスはその半分が壊滅していた。では、ディルフェンはどうなったのだろうか。
その疑問の解答は「商区の半分以外は壊滅」という、いささか説明のしにくいものであった。だが、いまのディルフェンのようすを見たならば、ほかにいいようがないと感じたにちがいないだろう。
街の外からディルフェンに入るには、北東と南東に設けられた門を通る必要がある。東側にしか門がないのは、広大なルノリア湖が、街の西側を塞いでいるためであった。その、ルノリア湖に面した麗区は、あらゆる建物が崩壊し、がれきが広がる光景しか残されていない。
いっぽう商区はというと、北東の門から、街を東西にむすぶ中央通りに至るまでは、建物はすべて崩壊して、がれきに埋め尽くされていた。そして、中央通りから南東の門までは、建物が崩壊することがなかったのだ。そこに残された街の姿は、さながら、がれきの海に浮かぶ孤島のようだった。
崩壊しなかった建物には、シーサリオンたちが部屋をとった、「水晶の歌声」亭も含まれていた。その客数は六割ほども減少していたが、店主をはじめ、宿を営む人々は無事であったのだ。
グラファスの手によるであろう、人間が光に変わるという現象は、どうやら建物が崩壊しているところまでしか起きていないようであった。
だが、あのとき多くの人が、ルノリアの湖畔に集まっていたのだ。その人々が消えていったためか、かろうじて崩壊をまぬがれた建物も、帰るべき家主を亡くしたものがほとんどであった。現在のディルフェンは、保養都市という呼び名など悪い冗談に思えるような、死の街にも似た静けさを漂わせていたのである。
夜のディルフェンからは、ついさきほどまで煌々と街を照らしていた、ほとんどの灯は消え失せていた。その隙間を埋めるように、絶望を溶かしこんだような夜の闇が、街一面に塗り広げられていた。そんな夜の闇から逃れるように、客の大半が戻ることなく、静まりかえった「水晶の歌声」亭の一室へと、シーサリオンたちは帰ってきた。だが、シーサリオンはいまだ気を失ったままで、ベッドの上に横たわっていたのである。
水で濡らされた手拭いが、シーサリオンの額にのせられた。噴き出た汗を吸いとりながら、冷たい手拭いはゆっくりと、体温に等しい温度へと変わっていった。
マレリエルは、不安と悲痛の混じったまなざしを、ベッドで横になったシーサリオンへと向けた。しかし、ときおり苦しげにうめくシーサリオンの姿に耐えられなかったのか、マレリエルは視線を、脇にある小さな丸卓へと動かした。
そこには、数枚の「カリュクス」があった。その銀色のかがやきは、穏やかにマレリエルを見つめていた。手を伸ばしたマレリエルが、一枚の「カリュクス」を手にとった。
空色の瞳が、銀の絵札をとらえていた。描かれていたのは〈大地に突き立つ斧〉(アクシードゥス)だった。抵抗、分断などを意味する絵柄である。マレリエルに絵柄の意味はわからなかったが、べつのことには気づいたようだった。
「これは……」
マレリエルは、複雑な感情の混じる目でシーサリオンを見つめた。その瞳が不安に揺れていた。やがてかすかに微笑ったマレリエルが「カリュクス」を丸卓に戻すのと同時に、部屋の扉が開かれた。
「まともな食事は、今日は無理だとさ。まあ、しかたないだろうけどな」
黒パンと干し肉、飲物の入ったかごを差しあげると、エモルディが肩をすくめた。それだけの食料を手にいれるのにも、ずいぶんと苦労したのだろう。エモルディの表情には疲労の色が浮かんでいた。
自らのぶんの食料を手にすると、エモルディはマレリエルにかごを差しだした。
「マレリエル、それを食ったらおまえはもう寝ろよ。シーサリオンはおれが看ておくぜ」
干し肉にかじりつきながら、エモルディはかごを受けとったマレリエルに声をかけた。だが、膝の上でかごを抱えたまま、マレリエルはかぶりを振った。なにかいおうとしたエモルディだったが、むだだと悟ったのか、苦笑まじりに息をついた。
「それじゃあ、おれが先に寝るかね。疲れたんなら起こしてくれ。替わってやる。……ま、無理はすんなよ」
子供をあやすようにマレリエルの頭をかるくたたくと、エモルディは衝立の向こうにあるベッドへともぐりこんだ。困ったような顔をしたマレリエルが、かごの中からパンを取りだして食べはじめたころ、衝立の向こうから穏やかな寝息が聞こえてきた。
マレリエルを気遣ってはいたが、エモルディも疲れていたのだろう。それほど、さまざまなことがいちどに押しよせてきた夜だったのだ。
シーサリオンの額にのせた手拭いを取り替えながら、マレリエルは思案に暮れているようだった。
「……シーサリオン。わたしは、あなたを信じているんだからね?」
白い手が、シーサリオンの髪を優しくなでた。さきほどまで苦衷に満ちていたマレリエルの瞳には、いまは穏やかな光が湛えられていた。
絶望で染まった夜の闇を、朝陽がくしけずるように、光の中へ溶かしていった。だが、闇は晴れても、そこに紛れこんでいた絶望の欠片は、消えることなく陽光の中を漂っていたのである。希望がそれを駆逐するには、人々が前を向いて進む意志と、しばらくの時間が必要なのかもしれなかった。
ベッドにうつぶせになっていたマレリエルの横顔を、窓から射しこむ陽の光が優しくなでていた。いささか迷惑そうに、眉根をよせて目を開いたマレリエルは、自分がいつの間にか眠ってしまったことに気がついたようだった。
あわてて顔をあげたマレリエルの目前に、ベッドから半身を起こしたシーサリオンがいた。窓の外を眺めていたシーサリオンが、目が覚めたマレリエルに気がついた。
「ああ、ごめん。起こしちゃったかな」
すこし疲れた声ではあったが、はっきりとした口調だった。朝陽と同じ、優しげなまなざしが、マレリエルに向けられていた。
「起きても大丈夫なの? そうだ、エモルディ……」
部屋のなかに、黒髪の傭兵の姿は見あたらなかった。
「エモルディなら、さっき食事をもらってくるって出ていったよ」
シーサリオンの言葉に、どこか得心したようなマレリエルだったが、それ以上はどうにも間が持てないのか、とまどうようなそぶりを見せていた。そんなマレリエルを、シーサリオンはただ穏やかに見つめていた。
「……な、なに?」
視線に気づいたマレリエルが発した問いに、シーサリオンはすこしだけ微笑ってみせた。
「ずっと看てくれてたんだね。ありがとう」
「……途中で眠っちゃったけどね」
照れくさそうにマレリエルが顔を伏せたとき、部屋の扉がはでな音をたてて開かれた。
「待たせたな! 品数はいまいちだが、ようやくまともな飯を……って」
ずいぶんと間の悪い登場をしたエモルディが、鍋とかごを大きな盆にのせたまま、戸口で目を丸くしていた。しばらくして、ずいぶんと極端な曲解をしたらしいエモルディが、遠慮がちに声をかけた。
「あー……。ひょっとして、お邪魔だったか?」
その科白にあわてたのはマレリエルだけだった。いまいち意味のわかっていないようすのシーサリオンが、首をかしげたからだ。
「ば、ばかなこといわないの! それより、なにしてたのよ?」
その問いには、さきほどシーサリオンが答えを出していたし、エモルディの姿もそれを肯定していた。マレリエル自身もそのことに気づいたのか、二の句が継げなくなってしまっていた。
絶句したマレリエルに苦笑すると、エモルディは丸卓の上に盆を置いた。食欲を刺激する匂いが漂い、部屋にいるものそれぞれの胃が、空腹を訴える声をあげた。
「シチューがあったんで、わけてもらってきた。あとは黒パンと干し肉だけどな。まあ、温かいものがあるだけでも、ありがたいってもんだろ」
エモルディは木皿にシチューを取りわけると、シーサリオンに差しだした。木皿を受けとったシーサリオンに、エモルディはおどけてみせた。
「食欲があるってのは、元気な証拠らしいぜ?」
しばらくの間、ベッドの周りには暖かな湯気があがり、食事を進める音だけが聞こえていた。だが、それは自然な静寂ではなく、意図的な沈黙だった。なぜなら一同を支配していたのは、ある話題に触れるべきか否かの、逡巡であったにちがいないからだ。
「……あの」
食事の手を止め、逡巡の沈黙を破ろうとしたのは、マレリエルだった。声に反応したほかのふたりが、マレリエルを見つめた。ふたつの視線のうち、シーサリオンのそれに決意の光が見えたのは気のせいだろうか。
「しかし、まさかシーサリオンが王子だったとはおそれいったよな」
マレリエルが言葉をつづけるより先に、エモルディが口を開いた。残ったふたりが無言のまま、驚いたような瞳で黒髪の傭兵を見つめた。
「……でもよ、たしかフランジアの王子ってのはひとりしかいなかったよな?」
いささか場違いともいえるその明るい声は、吹き溜まりによどんだような、この場の重い空気を、わずかではあるが軽くしたようだった。
「王族を騙るにしても、いまのフランジアじゃ利用価値はねえしなあ……」
本気か冗談か、いまいち判断しかねる表情と口調で、エモルディは言葉をつづけた。ただ、それは「重い話を重苦しい顔でするな」と、言外で語るようにではあった。ほかのふたりも、それは承知しているのであろうが、どうしたらいいかわからない、というのが実情だろう。
しかし、いちはやく状況に対する柔軟な姿勢をとったのは、シーサリオンだった。
「そうだね。やっぱり政情の安定した豊かな国のほうが、はったりがきくのかな」
マレリエルとエモルディ、それぞれの驚きが含まれた視線を笑顔で受け流すと、決意をこめたような表情で、シーサリオンは口を開いた。
「ぼくはフランジアの第二王子。という立場だけど、騙るには信憑性がなさすぎるからね」
エモルディもまた、シーサリオンと同様の柔軟さを備えていたようだった。
「ああ、あの死産だったっていう王子だな。なんだよ、ほんとうは生きてるんじゃねえか」
「そう、じつは生きていたんだ。もっとも、庶出の王子なんていう体裁の悪い事実を隠すために、死産といつわっていたんだけどね」
「そいつはひでえ話だな」
「まったくだね」
「……ちょ、ちょっと待ってよ!」
愉快げに談笑する男性ふたりのようすに、柔軟な思考と、状況に応じた姿勢とをとれなかった唯一の女性が、不満げな声をあげた。ふたりの男性はいぶかしげな視線を向け、女性はそれを怒りを含んだまなざしではね返した。
「なんですって? 庶出のフランジア第二王子? 死産だといつわっていた? 笑ってすませる話じゃないでしょう!」
「それじゃあ、せいぜい難しい顔でもしていようかね」
「うるさいっ!」
皮肉で応じたエモルディを一喝すると、マレリエルはシーサリオンに詰めよった。
「……どういうこと? わたしが納得のできる返答を期待するわよ」
その迫力にすこしだけ気圧されたようなシーサリオンは、わずかに皮肉めいた笑みを浮かべて、むくれるマレリエルに応えた。
「庶出の第二王子というのは、ほんとうだよ。死産といつわっていたこともね。ぼくの身分は、ほんのひと握りの人たちにしか知らされていなかったんだ。だから、王位継承権なんてものも形式だけで、なかったようなものさ」
フランジアの王城では別館での生活で、王族としてまともには扱われていなかったこと。そして、グラファスが謀叛を起こして城を襲撃したとき、世話係の老騎士の手によって、先代宰相ルヴェインの元へ逃がされたこと。そのルヴェインが、亡くなる際に「学問の塔」にグラファスに対抗する術があるかもしれないといっていたこと。
エモルディとマレリエルに出会うまでのことを、シーサリオンが語り終えたときには、並べられた食事はきれいにかたづけられていた。窓から射しこむ陽光の角度は昼のものに変わり、こんどは朝食ではなく昼食が必要になる頃合だった。
「だますつもりじゃなかったんだ。でも、国を失った王族が、いまさらそれを名乗ってもしかたない。だから、いわなかった。それだけだよ」
「……まあ、いばりちらす後ろ盾がなくなっちまったもんなあ」
「そういうことじゃなくて……」
まるで、うまくない食事の感想を述べるようなエモルディの科白に、あきれたようにマレリエルが応えた。表情をあらためたマレリエルがシーサリオンを見やる。その双眸にひらめいた光は、激情ではなく理性を宿していた。
「つまりあなたは、いないことにされていた庶出のフランジア第二王子で、王家の生き残りだと。そしていまは、できるかどうかもわからない、グラファス打倒をやろうとしてる。……そういうことね?」
「えらく毒のある言種だなあ、おい」
「こんな事実を知らされたんじゃあ、吐けない毒だって吐くしかなくなるわ」
そんなめずらしい毒を浴びせかけられた対象であるシーサリオンは、穏やかな表情のままで苦笑してみせた。
「たしかに、グラファスのあの力を見せられて、それでもグラファスを止めようだなんて、夢語りにしか聞こえないだろうね」
そう言葉を発したシーサリオン自身の瞳には、強い意志の光が宿ったままであった。おどけていたエモルディが、かすかに表情を変えた。
「……でもよ、あのときシーサリオンはグラファスの術を防いで、おれやマレリエルを助けてくれただろ? だから、グラファス打倒ってのも、あながち夢語りじゃないかもな」
エモルディが丸卓に置かれた「カリュクス」に目を向けた。シーサリオンが手を延ばして、丸卓の「カリュクス」を一枚とりあげた。無言のまま、マレリエルの瞳がその動きを追っていた。
「……これは『カリュクス』、フランジア正統の証で、未来を見通す水晶の瞳ともいわれているんだ。それに、あのとき見せたような、魔術に似た力を使うこともできる」
「……同時にグラファスに対抗する手段でもあるということ?」
「おそらくね。くわしいことは『学問の塔』に行けばわかると思う。行くことができれば、だけど」
シーサリオンの表情がわずかに曇った。どこか不安を漂わせるその顔を、マレリエルが目を細めてにらみつけた。
「ひょっとして、いままでの話を聞いて、わたしが『学問の塔』への案内をやめると思ってる?」
「それは……」
返答に窮したシーサリオンの顔を見やると、マレリエルが大きく息をついて首を振った。ずいぶんと芝居がかったしぐさに見えたのは、それが照れ隠しであったからだろうか。
「……思ってるのね?」
「ごめん」
「あやまらないで。なんだか、悪いことをしているみたいだから」
「いや、じゅうぶんいじめてるじゃねえかよ」
からかうような声をあげたエモルディを、マレリエルは眉をひそめて見やった。
「どうしてあんたは、いつもひとこと多いのかしら?」
「そりゃあしょうがねえな。二十八年もこの性格で生きてきたんだ、いまさら変更はきかねえだろうよ」
あきれて絶句したマレリエルを、得意げな顔で見返してエモルディは哄笑した。しかし、つぎにマレリエルが発した言葉が、その笑顔を凍りつかせた。
「二十八って、もうおじさんじゃない」
「気にするのはそこかい!」
脱力した笑いが混じったエモルディの科白に、べつの笑声がかさなった。シーサリオンだった。お互い不毛な会話をしていたことに気づいたエモルディとマレリエルは、実りのある話題に転ずることにしたようだ。
「まあ、心配しなくても、ちゃんと『学問の塔』へは連れていってあげるわ。前にもいったけど、ほかに当てなんてないもの。……それに、ちょっと気になることもあるから」
思わせぶりなマレリエルの言葉に首をかしげたシーサリオンに、べつの声がかけられた。
「もちろんおれも行くぜ。いちどのった賭けをおりるのは、おれの性分じゃないんでな」
「ありがとう、ふたりとも」
頭をさげたシーサリオンの声は、わずかにかすれていた。
「よせよ、礼をいうなら、ぜんぶ終わってからだろ」
「そうね。……とりあえず今日はゆっくり休みましょうか」
陽光に紛れて漂っているはずの絶望の欠片は、この部屋の中には存在していないようであった。それは、ひとひらの希望でさえも絶望を溶かし去ることができる、ということのあらわれなのかもしれない。