即位記念祭前日(一)
夏が舞台から去り、その残り香を追って秋が訪れようとしはじめたころ、フランジア王国の王都ジェラルディンはにわかに賑やかになる。
王都であるジェラルディンというのは、およそ二百五十年ほど前に即位した女王の名がもとになっている。とくに偉大なことを成し遂げた人物ではないのだが、フランジアにとってはじめての女王であり、四百年あまりに及ぶ王国の歴史でも女王として即位したのはわずか三人しかいない。
フランジア初の女王即位に伴い、それまでただ「王都」としか呼ばれなかった街の名を、記念すべき初代女王に縁あるものへ改めた。そしてそのころから、王都ジェラルディンでは現国王の即位記念日を毎年、国民が祝うようになったのである。
今年の即位記念祭を明日に控え、王都は祭り前のあわただしさで満ちあふれていた。商店の建物には宣伝をかねて極彩色の装飾が施され、民家は家主の財力を主張するようにさまざまな飾りつけがなされている。朝の市はいつもの倍の時間開催され、それらは人々の浮かれるさまが形になっているようであった。
ジェラルディンは、王都だけあってもちろんフランジアで最大の街であるが、意外なことに背の高い建物というのはほとんど存在しない。挙げるとすれば、ランテーゼ大陸で広く信仰されている三主神の神殿と街の中心にたたずむフランジア城、そしてその中央にそびえたつ「聖賢の塔」くらいのものだろう。そのほかの建物は、貴族の屋敷や大きめの宿屋でさえ二階までである。
フランジア城を中心に四方に大通りが延びて王都の交通の要となっており、そしてその大通りからは、どこにいても王城の中央にそびえる「聖賢の塔」を望むことができるのだった。一説によれば、「聖賢の塔」を望むために建物の高さを制限したともいわれているが、実際にはそんな法律は敷かれておらず、ほぼ昔からの慣習としてジェラルディンの建物は高さを控えて建設されているのである。
太陽は地平線よりも天頂に近づこうとしていたが、いまだ朝市の喧噪が残るジェラルディンの大通りに、ひとりの青年がいた。くせのない灰金髪を揺らし、光を受けた翠玉石のような翠色の瞳に好奇心を湛えて、即位記念祭への賑わいを見せる街並みに歩を進める。
青年の名はシーサリオン。先月に誕生日をむかえて年齢はちょうど十八歳になったばかりだ。身長は高いほうで、均整のとれた肢体と端整な顔だちは、ときおりすれ違う若い娘やわずかに若くない娘たちを振り返らせるにはじゅうぶんだった。
そんな視線の鎖を引きずりながら、シーサリオンは石畳をのんびりと歩いて、大通り中央の噴水にたどり着いた。
噴水わきには数件の屋台が開いていた。噴水の中には、ミルクや酒の入った瓶がいくつか沈められて中身をほどよく冷やしており、屋台の半分ほどを占める鉄板は炭火で熱せられていた。鉄板からは、食欲を刺激してやまぬ匂いが湯気とともに風に乗って吹きつけてくる。それと同時に、彼の胃が抗議の声をあげた。シーサリオンの頭のなかで交戦がはじまり、ほどなくして食欲が好奇心を駆逐したようだった。彼はなおも抗議をつづける胃袋を鎮圧させるために、一軒の屋台へ足を向けたのだ。
そこはたしか、フランツという料理人の開いている屋台だ。シーサリオンは何度かおとずれたことがあり、店主とも顔なじみだった。
「おはよう、フランツさん」
「おはよう……というにはちょっとばかり遅すぎるとは思うが、まあいいか。今日は何にするね」
「黒パンと卵に、腸詰をふたつもらおうかな。あ、卵は半熟でね。あとは蜂蜜を入れたミルクを」
「ミルクはあたためるかね」
「今日は暑くなりそうだからいいや」
「よしわかった。すこし待ってな」
小気味いいやりとりのあと、フランツは慣れた手つきで調理にはいった。ソーセージをふたつ鉄板の上に転がすと、溶いた卵を鉄板の空いた場所へ流しこむ。しばらくして卵が半熟に仕上がるころ、いい具合に焦げ目のついたソーセージが爆ぜて早く引きあげろと声をあげた。フランツは半熟の卵を木皿に載せると、最後まで不平を漏らしていたソーセージを盛りつけてシーサリオンへ手渡した。木皿とフォークを手に取るシーサリオンを横目に、噴水の瓶からミルクをカップに注いで蜂蜜をたらし素早くかき混ぜると、黒パンをふたきれとカップをシーサリオンに差しだして彼の仕事はひとまず終了した。
「明日はこのあたりも賑わいそうだね」
噴水の周囲に立ち並ぶ屋台たちを眺めやって、シーサリオンは楽しそうな声をあげた。
「ここは毎年いちばん賑わうのさ。だからこうして、前日からいい場所を確保しにくるんだよ」
役目を果たした鉄板をねぎらうように掃除しながら、フランツは笑顔を見せた。そんな彼の足下には使い古された寝袋が置かれている。どうやら今日はここへ泊まりこむつもりのようだ。ふと見やると、周囲にあるほかの屋台にも、ちらほらと寝袋のようなものが見てとれた。
その様子になにか納得したようなシーサリオンが「いただきます」と食事に手をつけると同時に、べつの人影が彼の隣に立った。シーサリオンは驚いて食べかけのソーセージを喉のちがう場所へ通したらしく、あわててミルクに手を伸ばし、フランツは意外そうな目を新来の客に向けた。
「これは将軍、めずらしいですな」
「なに、即位記念祭への警備で詰め所にこもりきりだったのでな、良い匂いにつられたまでさ」
かすかに笑顔を見せた男は、薄手のシャツとズボンに剣を帯びただけの軽装だが、身体の厚みはシーサリオンよりひとまわりは大きく、身長はこぶしひとつほど高い。
この人物がナヴガーラ将軍で、フランジアでは「戦神」のふたつ名でたたえられる最高の騎士だった。年齢は四十三歳になるはずだったが、活力に満ちた姿はそれよりずいぶんと若く見える。陽に灼けた精悍な顔に刻まれたわずかなしわだけが、彼のかさねてきた年齢を感じさせていた。
「ベーコンをふたつ焼いて黒パンに挟んでくれ。それとゆでジャガイモもたのむ」
「へい、ジャガイモにはバターをつけますかい?」
「いや、塩を振ってくれ。すまないが、持っていくので包んでもらえるか」
愛想よく注文を受けたフランツが調理を進める間に、シーサリオンは大いそぎで食事を胃袋に直行させていた。カップのミルクをあおるように飲みほして、銅貨を五枚カウンターに置いたシーサリオンが「ごちそうさま」と屋台を離れるのと、包みをうけとったナヴガーラ将軍が振りかえるのが同時だった。ふたりは一瞬目をあわせ、ばつが悪そうにシーサリオンがぎごちない笑みを浮かべると、ナヴガーラ将軍は小さく息をついた。
フランツの屋台をあとにして、年齢差二十五歳のふたりが並んで歩く。フランジア城の門が見えるあたりまできたところで、ナヴガーラ将軍が足を止めた。
「シーサリオン王子」
「……どうしたんだい、将軍。はやく詰め所に戻らないといけないんじゃないの?」
「王子もいっしょに戻られるというのなら、いますぐにでも」
フランジア王国の第二王子というのが、シーサリオンの現在の身分である。第二王子とはいっても、庶出であるために王位継承権とはかなり離れた存在であり、それは他の王族がすべて死に絶えてやっとシーサリオンに王位がまわってくるていどのささやかなものだった。
返答に窮したシーサリオンの顔に、うしろめたい色が浮かんだのを見てとったナヴガーラ将軍は、すこしあきれたように首を振った。
「やはり勝手に城を抜けだされたのですね? やれやれ、今月だけで三度めとは、ラウム殿のしわがさらに増えそうですな」
「そのうち、しわでラウムの顔が埋まっちゃいそうだよね」
「そうなりそうな原因をつくっておられる本人のおっしゃることではありませんぞ」
将来に王位を簒奪される危険もほぼなく、生まれることと引きかえに母を喪ったシーサリオンを不憫に思ったか、国王モーゼントはシーサリオンを城に引きとった。ただし、「聖賢の塔」にある王殿には入ることを許されず、フランジア城のはずれにある別館で暮らすことを条件にだったが。
また、シーサリオンの素性は一部のものたちだけにしか知らされず、城に出入りする貴族たちでさえ、シーサリオンは王家の遠縁の子息という認識でしかなかった。それは、いいかたを変えれば、血を一滴も流さずにして醜聞の事実と、それが発覚する危険を摘みとったともいえるだろう。
モーゼント王の真意は誰にもわからないが、シーサリオン自身は王族と平民の中間のような現在の状態にそれほど悲観もしていないようであった。ちょくちょく城を抜けだして王都に遊びにゆくのも、そんな気楽さからなのだろう。もっとも、シーサリオンの世話係をおおせつかった老騎士ラウムのほうは、気苦労が増すばかりのようだったが。
「明日の即位記念祭では、王子も祝賀会に出席されるのでしょう。ここにいてもよろしいのですか」
「だからだよ。明日じゃ無理だから、今こうして街にきているんだ」
わずかに首をかしげたナヴガーラ将軍の目を、シーサリオンはまっすぐ見すえた。
「即位記念祭の街を見られるのは今日しかないんだよ。そりゃあ、まだ前日だけど、街の雰囲気だけでも楽しめると思うんだ」
つまりは、もうすこし王都で遊ばせろということである。だから今は見逃せと、そうシーサリオンは主張しているのだ。態度は真摯だが、言葉の内容はまったくもって不謹慎だった。そのことを理解したのか、ナヴガーラ将軍の眉根がわずかによせられた。
しかし、すぐにその表情があらためられると、穏やかな光を湛えた目でナヴガーラ将軍はシーサリオンに告げた。
「……わかりました」
「ほんとうに!?」
はじかれたように身を乗りだしたシーサリオンを、ナヴガーラ将軍は手で制した。
「ただし、日暮れには城へお戻りください。日暮れどきにラウム殿へ確認いたしますので、もしお戻りでなければ、血相を変えたラウム殿が王都じゅうを駆けまわることになりますぞ」
「うん、わかった。ありがとう将軍!」
いうが早いか、シーサリオンは罠をすり抜けたウサギのような勢いで遠ざかっていった。小さくなっていくシーサリオンの姿を半ば呆然と見つめていたナヴガーラ将軍が、ぼそりとつぶやいた。
「ふしぎな魅力を持ったかただな。……真の王族とは、かくあるべきなのか」
木々を揺らす風に流され、それは誰にも聞こえることはなかった。
陽もすっかり暮れ、昼間の喧噪と人々とが眠りについたころ。夜景の一部となって静かなたたずまいを見せるフランジア城の内部を、即位記念祭の警備とは別のあわただしさが支配していた。武装した兵士たちが鉄靴をひびかせ城内を駆けまわるそれは、あえていうならば軍騒とでもあらわすのだろうか、とにかく尋常ならざる空気がフランジア城を満たしていたのである。何者かの襲撃であることは間違いはないのだろうが、兵士たちの行動は奇妙なものだった。
兵士たちは外部との接点である城門ではなく、城のさらに奥へと向かっていたのだ。襲撃者はすでに城内深くに侵入してしまったのだろうか。だが、侵入者を拒絶する城門の厚い鉄扉はいつもと変わらぬようすで鎮座しており、不当な侵入者を許してしまった痕跡は見受けられなかった。とすれば考えられることはただひとつ、襲撃者はフランジア城内部の人間なのだ。それならば兵士たちの行動にも合点がゆくだろう。
駆ける兵士たちの後を追っていくと、そこには凄惨な光景が広がっていた。焼け焦げたもの、雷に撃たれたように皮膚がひきつれたもの、氷のように白い霜におおわれたもの、大きな爪か牙で半身をえぐりとられたもの。およそ考えつくあらゆる方法で生命を奪われた兵士たちの亡骸が、廊下に絨毯をつくっていた。そして廊下の先に、その絨毯を踏みしめ歩を進める人影があった。
白いローブを身にまとうその人物は、名をグラファスという。陽を受けた小麦畑のごとき黄金色の髪を肩口まで伸ばし、白磁のような顔に端正な鼻と口を乗せ、切れ長の青い瞳に仄暗い輝きをともしたその姿は、女性のようにも見えた。しかし、体格とその口から発せられた声色は確かな男性のものだった。
「……これはこれは、『戦神』ナヴガーラ将軍ではありませぬか」
ていねいな口調だが、あきらかな嘲笑と侮蔑が声に含まれていた。ナヴガーラ将軍はそれを気にもかけずに受け流すと、グラファスの前に立ちはだかったままゆっくりと剣を抜いた。
「よもや謀叛人がそなただったとはな、グラファス宰相」
有能な魔術師であり、若くして宰相に推挙され、期待に違わぬ働きを見せていたグラファスを彼なりに買っていたのだろう、静かに剣をかまえるナヴガーラ将軍の声には、若干の落胆と静かな怒りが混じっていた。
彼の後ろは荘厳な装飾を施された扉が道をふさぎ、その先は「聖賢の塔」と王族の住まう王殿がある。謀叛という大罪を犯した罪人を一歩も先に進ませまいとする気迫が、ナヴガーラ将軍の全身から溢れでていた。
「我が『戦神』の名にかけて、ここより先そなたを進ませるわけにはゆかぬ」
齢四十を過ぎてなおナヴガーラ将軍に衰えはなく、彼より十歳は若いであろうグラファスに気後れするなどありえなかった。
将軍の、ふたつ名に恥じぬ気迫を目にしたグラファスの周囲が歪にねじれた。油断なく身構えたままのナヴガーラ将軍が緊張を増す。グラファスの周囲に揺らめく影があらわれたのを見てとったのだ。幽鬼とでも形容すればいいのだろうか、あきらかにこの世のものでない存在に、さしもの「戦神」も戦慄をおぼえたようだ。
グラファスがわずかに唇をゆがめた。それが合図であったか、幽鬼が風のように音もなく床をすべり、一瞬にしてナヴガーラ将軍の眼前へと迫る。戦闘態勢をとる「戦神」めがけ、幽鬼は移動速度に比例する勢いで両腕の爪を振りおろした。小さな火花と短い刃音をひびかせて、勝敗は一瞬にして決した。
幽鬼はその姿を揺らめかせ、朝陽を浴びた夜霧のように大気へ溶けていった。その向こうには油断なく剣をかまえたままのナヴガーラ将軍の姿がある。
「魔を退けるフランジアの宝剣か……」
グラファスの低いつぶやきが漏れるより早く、ナヴガーラ将軍はつぎの行動を起こしていた。弩から放たれた矢のような速さと勢いでグラファスの懐へ肉薄すると、渾身の力をこめて剣を振りぬいたのだ。
魔術を打ち消す力を持つフランジアの宝剣は、ナヴガーラ将軍の功績をたたえて国王モーゼントより下賜されたものである。その力は、魔術だけではなく幽鬼のような存在ですら退けるのだ。いかに強力な魔術で守られたグラファスといえど、この宝剣を無傷で受けることはあたわないはずだった。
しかし、打撃音が大気と鼓膜を殴打したあと、驚愕の表情はナヴガーラ将軍のほうにもたらされた。
将軍が全霊をこめた斬撃はグラファスの身にとどいておらず、見えざる甲冑によってはばまれていたのだ。ナヴガーラ将軍が膂力のすべてをもって刃を押しこもうとすれば、それに等しい力で押しかえしてくる。まるで剣がこれ以上進みたくないとでもいうように、グラファスの身体に触れるのを拒絶していた。
「フランジアの宝剣といえど、私を斬るには荷が重かったようですな」
冷たい嘲笑とともに、グラファスの周囲に魔力が集まりだした。その半瞬前に魔術の気配をさとって、ナヴガーラ将軍は跳びすさっていた。グラファスの手から光の槍が放たれるのを見てとると、将軍は反射的に剣を眼前にかまえた。魔術はフランジアの宝剣の前では無力に等しい。放たれた魔術をはじき、その身に刃がとどくまでナヴガーラ将軍はグラファスに斬撃をあびせつづけようと全身に力をこめた。
悲鳴にも似た金属音が鳴りひびいて、ナヴガーラ将軍の剣が砕けちった。ふたたび驚愕の表情を張りつかせた将軍を、かがやく魔術の槍がつらぬいていた。そして魔術の槍は放たれた勢いのまま、けっして小さくはないナヴガーラ将軍の身体を吹き飛ばしたのだ。閉じられたままの扉の横の壁へ、まるで標本のように縫いつけられた将軍の姿を見て、グラファスは意外そうに目を細めた。
「まだ生きておいでとは。さすがは『戦神』とうたわれるだけのことはある」
ナヴガーラ将軍は生きていた。壁に縫いとめられ、床に赤黒い池をつくりながらも、その瞳はグラファスの皮肉に対してあきらかな怒りの炎をともしたのだ。だが、口を開けども声にはならず、その四肢に力はなく、将軍の命はほどなく尽きようとしていた。
それを気にもとめることなく、グラファスは「聖賢の塔」につづく扉に手をかけた。ナヴガーラ将軍の瞳から光が消えてゆくとともに、荘厳な扉はうなるような抗議の声をあげてグラファスに道をあけた。白いローブを揺らしてグラファスがその奥へと消えると、あたりには死の沈黙だけが残されたのだった。