フィクションの夏
陽炎がゆらゆらと風景を揺らしていた。
田畑が何処までも続く中に、一本だけあるこの道を。
ジージーと蝉が煩く哭いている。
「暑いね」
隣で私の手をきゅっと握っているお兄ちゃんが呟いた。
「これじゃあ、日焼けしちゃうね」
「くろいのやだ」
「僕も君が黒くなるのは嫌だよ」
握っていた棒付の氷菓子が溶けて手をベタつかせ、地面に垂れ落ちている。
「おててあらいたい」
「あ、溶けちゃったか。じゃあ、早く帰ろっか」
「うん」
お兄ちゃんは私の手を引いて前を歩き出した。
背中は広いとは言えないけど、丁度いい大きさの背中だった。
「....お兄ちゃん」
「なぁに?」
「お兄ちゃん」
「フフッ....どうしたの?」
「お兄ちゃん....」
「うん」
そう言ってお兄ちゃんは私を振り返る。
でも、やっぱりお兄ちゃんの顔は無かった。
「ごめんね、お兄ちゃん」
「......」
「もう、お兄ちゃんの顔も思い出せなくなっちゃったの」
小さい私の傍に居てくれた兄の顔を、兄と同じくらい大きくなった私は思い出せなかった。
「あとね、言葉遣いとか仕草とかは覚えているけれどね、声が思い出せなくなってしまったの」
「.........」
「可笑しいよね、ずっと一緒にいたのに......」
「.......」
お兄ちゃんは何も言わなかった。
お兄ちゃんは何も言えなかった。
お兄ちゃんはいなかった。
小さな私の傍に居てくれた『お兄ちゃん』という空想上の存在を、大きくなった私はいつの間にか殺してしまっていた。
名前もない。
お墓もない。
でも、確かに私の家族であった。
そんな何も持てなかった彼に、私はそっと小さな花束を添えてやる。
私は高校生になった。
そして、この村から離れて遠くの学校に行く事になった。
そして、ふと彼の事を思い出し、ここに何と無く来てしまった。
彼は最期まで私の兄であってくれた気がする。
唯一無二の兄であったに違いない。
「お兄ちゃん、私、もう行くね」
もう陽炎は無かった。
棒付きの氷菓子も無かった。
そして、小さい私も大きい兄も、もうあの夏の中に消えてしまった。
風がまだ寒い、春の日だった。