婚約破棄されたので、好きな植物を研究します
王宮幼年学校は、貴族の子どもが六歳から九歳まで通う場所だった。
読み書きと算術のほか、王家へ仕える者として必要な礼法を学ぶ。
将来の婚約を結ぶ前に、家同士が子どもの相性を見るための学校でもある。
公爵令嬢セシリアは六歳で、七歳の第二王子ユリウスの婚約予定者だった。
正式な婚約ではない。本人達の意思次第で解消できる「幼年契約」だと、父から聞いていた。
それでもセシリアは、王子妃になるなら大好きな薬草の名前や効能などより、食卓の席順を覚えなくてはならないのだと思っていたし、実際その通りであった。
ある昼休み、ユリウスは校庭の噴水前で胸を張った。
隣には、巻いた髪に大きなリボンをつけた男爵令嬢がいる。
「セシリア。ぼくは君よりもっと可愛い子をお嫁さんにする。だから、お前とはおしまいだ」
周りの子どもたちが息をのんだ。
セシリアの侍女は青ざめたが、本人は目を丸くしたあと、ぱっと笑った。
「では、王子妃のお勉強も終わりですわね?」
「え?」
「毎朝、王家の系図を覚える時間が空きますもの。わたくし、温室のおじいさまに薬草を教えていただきたかったのです」
ユリウスが何か言う前に、セシリアは先生の元へ駆けていった。
すぐさま内容を把握した学園はセシリアとユリウスの家へ連絡する。
幼年契約の解消には両家の確認がいる。
また、両家から何かあった際はすぐに連絡をするように言伝を得ていたためだ。
父は手紙を読んで、しばらく黙っていた。セシリアが泣いて帰ってくると思っていたらしい。
「本当に、悲しくないのか」
「少しはびっくりいたしました。でも、嫌だと言う方のお嫁さんになったら、お互いに困りますわ」
母は笑いをこらえ、父はやがて頷いた。
「分かった。では空いた時間で、何を学びたい」
「植物です。公爵領の、誰も育てられない草を知りたいです」
セシリアの住むアーデン公爵領は、王都の水源となる山地を管理していた。公爵家の仕事は、森を守り、雨水が流れる谷を整え、下流の畑へ水を渡すことだ。
そして、王家の薬師院は薬の効き目を認定し、全国へ配る制度を担う。
セシリアのやりたいことはどちらかといえばこちらであろう。
しかし公爵家としては自然の管理をしてほしい。
もっと育ってから選べるようにと、父は娘の勉強内容を勝手な薬売りにはさせなかった。
だが、もはやこれまでだろう。
父は、セシリアが植物を学ぶことに許可をだした。
もちろん、通常の勉学も手を抜かぬように、と念押しはされているが。
なのでさっそく動くことにした。
まず、領地の老庭師グレンが付き添った。
セシリアは土の色、日当たり、雨の後にだけ伸びる草を小さな帳面へ描いた。
八歳の夏、崩れかけた石灰岩の斜面で、白い葉脈を持つ細い草を見つけた。
雨が少ない年でも枯れず、山羊が熱を出したとき、その草を煎じた水を欲しがった。
最初の帳面には、間違いも多かった。セシリアは似た葉の草を月白草だと思い込み、翌朝にはグレンに「茎の節が違います」と言われた。
悔しくて泣きそうになったが、グレンは草を抜かずに印をつけた。
「間違えた場所も残しておくのです、お嬢様」
庭師は土を指でほぐした。
「来年、ここで何が育つか見れば、間違いがただの失敗ではなくなります」
それからセシリアは、見つけた物だけでなく、見つからなかった場所も書くようになった。
日向では葉が焼けること、粘土の多い土では根が浅くなること、同じ谷でも雪解け水の通り道だけ色が濃いこと。
植物を好きだと言うだけでは、領民が同じものを育てられない。
誰かの庭でも確かめられるように記録して、初めて研究になるのだと学んだ。
母はその帳面を薄い革で包み、毎年の誕生日に新しい一冊を贈った。
王子妃の学びをやめた娘を心配する親族もいたが、公爵は「水を守る家が土地の草を知らずに何を守る」と答えた。
セシリアは、お嫁さんにならなかったために何かを失ったのではない。
自分の家の役目を、自分の好きな方法で学び始めたのだった。
「月白草、と呼びましょう」
セシリアは言った。
目の前では、数日前まで苦しんでいた山羊が、目の前で元気に、ある草を食んでいた。
「月のように白い線がありますもの」
グレンはすぐに薬だとは言わなかった。
山羊が元気になったのは、涼しい谷で休んだからかもしれない。
そこで二人は、同じ熱に効くとされる既存の薬草と月白草を、薬師院の指示を受けながら何年も比べた。
月白草は、煮出す前に葉を陰干しすると苦みが減り、熱で弱った人の水分を保ちやすいことが分かった。
薬師院から来た若い薬師は、はじめ子どもの観察帳に眉をひそめた。
だがセシリアは、どの山羊にいつ何を与えたか、雨の日には試していない理由まで答えた。
人へ使う前には必ず薬師院の許可を取り、熱を出した村人には既存の薬と水分補給を優先する。
月白草が効くかどうかを急ぐあまり、誰かを危険にさらしてはならないからだ。
十歳の冬、近隣の村で流行した軽い熱病に、薬師院の指導で月白草の煎じ薬が使われた。
飲んだ人と飲まなかった人の体温、水を飲めた量、回復までの日数を比べると、煎じ薬を飲んだ人は喉の渇きが和らぐ傾向があった。
ただし、薬草だけで治ったとは書かなかった。
温かい寝床と清潔な水、看病する人があってこその回復だと、セシリアは帳面の最初に太い字で書いた。
その慎重さを見て、薬師院は月白草を正式な研究対象に加えた。
公爵領は栽培地を守り、薬師院は成分と用量を確かめ、王家は流行時に配るための制度を整える。
誰か一人の手柄にしなかったから、月白草は少しずつ、確かな薬へ近づいていった。
十三歳になったセシリアは、薬師院へ観察帳を送った。
土質、育つ場所、採取時期、煎じ方まで書いた帳面は、子どもの落書きではなく、誰でも確かめられる記録になっていた。
翌年、王国に夏眠熱が流行した。
高熱と脱水で人が倒れ、王都では薬師院の標準薬が足りなくなった。
原料の一つである青魔石は輸入に頼っており、海が荒れて船が来なかったのだ。
王家は各地へ薬草の情報を求め、アーデン公爵領の帳面を見つけた。
使者として来たのは、十五歳になったユリウスだった。
彼は王子の礼服を着ていたが、昔のように胸を張ってはいなかった。
「セシリア嬢。王家は月白草の栽培法と、薬師院への協力を願いたい」
セシリアは温室の机に、何冊もの帳面を広げた。
昔なら王子に褒められたくて、急いで差し出したかもしれない。
けれど今は、山で働く領民の手と、黙って一緒に記録したグレンの顔が先に浮かんだ。
「協力いたします。ただし、条件がございます」
「何でも聞こう」
「月白草は王家だけの薬にしません。乾いた斜面を持つ領地へ、栽培法を公開してください。薬師院は公爵領の子どもも学べるよう奨学席を作り、採取した人には正しい対価を払うこと」
ユリウスは驚いたあと、深く頭を下げた。
「分かった。君の研究を、君だけのものとして取り上げるようなことはしない」
数日後、王家の承認を得た薬師院がアーデン領へ来た。
月白草は一夜で奇跡を起こす薬ではなかったが、煎じ薬と清潔な水を一緒に渡すことで、多くの患者の熱を下げた。
斜面の土に合う草だったから、各地の庭でも同じように育つとは限らない。
セシリアはその違いも帳面に書き、失敗した土地の記録も隠さなかった。
流行が落ち着いたころ、王宮幼年学校から招待状が届いた。
新しくできた植物研究室の開室式で、セシリアに最初の講義を頼みたいという。
式の日、ユリウスは子どもたちの前で紹介した。
「セシリア・アーデン公爵令嬢は、王子妃になるためではなく、ご自分の好きな学びを続けて王国を救った方です」
六歳のとき、彼に「可愛くない」と言われた少女は、もう腹を立てなかった。
温室へ走れる時間をくれたのだと思えば、それで十分だった。
「では皆さん」
セシリアは白い葉を一枚掲げた。
「植物は、名前を知るだけでは役に立ちません。どこで、なぜ育つのかを、一緒に見に行きましょう」
子どもたちは元気よく手を挙げた。セシリアはその中に、昔の自分より少し自由な顔を見つけた。




