悪役令嬢は、それがどこから来たのかわからない
それは、どこから来たのかわからない。
地上のものだと言い切る者もいた。
深い海の底から這い上がったのだと唱える者もいた。
もっと冷たい仮説を口にする者もいた。
星の外、光の届かぬ場所、生命の定義そのものが、この世界とは違う領域。
だが結局のところ、人類はまだ答えを持たない。
わかっているのは、ただひとつ。
それが、人類よりもずっと長くこの世界に在った、ということだけだ。
歴史は、勝者によって記されるという。
だが本当に恐ろしいものは、ときに歴史の書式そのものから外れている。
王ではない。
国家でもない。
軍でもない。
思想ですらない。
それは、ただ在る。
命に対し、圧倒的な力を持つ。
巨大なものが世界を制した時代があった。
賢いものが繁栄を築いた時代もあった。
だが、それらはすべて去っていった。
形ある栄光は、やがて壊れる。
名を持つ支配は、やがて終わる。
どれほど強大に見えても、時代に選ばれたものは、時代が変われば退場する。
それだけが、違った。
何かを征服したわけでもない。
何かを統治したわけでもない。
ただ、強かった。
もし進化が未完成な営みなら、そこには迷いが残るはずだ。
過剰や不足、試行錯誤の痕跡が残るはずだ。
だが、それにはそれがない。
あまりにも強く、あまりにも無駄がない。
まるで、生命という現象が長い時間をかけて削ぎ落とされ、最後に残った本質だけが、そこに凝縮しているみたいだった。
人類は長く、それと戦ってきた。
剣で。
火で。
知恵で。
技術で。
思想そのものを武器に変えて。
それでも、戦いは終わらなかった。
世界中で、いまも続いている。
人がやっと手に入れた安息の輪郭、そのすぐ外側で。
人類は何度も、終わらせたつもりになった。
対策は洗練された。
防御は精密になった。
封鎖は強固になった。
排除は効率化された。
だが、終戦は来ない。
一夜の勝利はある。
一地点の平定もある。
数値の上では優勢に見える時期すらある。
それでも朝が来れば、どこかでまた誰かが知る。
あれは消えていない、と。
人は、敵という言葉をわかりやすいものに使いたがる。
顔を持つもの。
意志を示すもの。
怒りや欲望によって動くもの。
それは、そのどれにも見えない。
憎んでいるようには見えない。
奪いたいようにも見えない。
世界を支配したいわけでもなさそうだ。
なのに脅威である、という事実だけが残る。
それがいちばん、不気味だった。
悪意があるなら、まだ理解できる。
怒りがあるなら、まだ構えられる。
だが、それには人間の感情に似た輪郭がない。
ただ、理屈がある。
人類の都合など、初めから計算に入っていない種類の理屈が。
だからこそ、戦いは厄介になる。
こちらは意味を求める。
理由を求める。
背景を、動機を、起源を知ろうとする。
だが向こうは、そんな問いそのものを必要としていない。
もしこの世界の脅威に階級があるなら、それは派手な災厄の上にはいないだろう。
空を裂く怪物。
都市を焼く兵器。
大陸を揺らす天変地異。
そういうものは、目に見える分だけまだ親切だった。
本当に厄介なのは、文明の中で、沈黙したまま、何億年も人類の勝利宣言を無視し続けるものだ。
それは、どこから来たのかわからない。
だから人は、ときどき想像する。
これは本当は、外宇宙から漂着した、最初期の失敗作ではなく、最後まで選別を生き延びた完成体なのではないかと。
熱にも、寒さにも、欠乏にも、孤絶にも、世界の大半の脅し文句が通じない存在。
文明そのものが滅びても、平然と、その後に残るもの。
人類が主役だと思っていたこの世界で、最初から最後まで脇に立ち続ける資格を持つのが、実はそちらのほうだったとしたら。
深夜には、ときどきそういう想像が現実味を帯びる。
眠りから半歩だけ外れた意識は、昼には見ないものを見る。
世界を、自分の所有物だと思い込む力が弱まるからだ。
その夜、アルヴェイン公爵家令嬢、エレオノーラ・ヴィオレット・アルヴェインは目を覚ました。
王都北西、白霧街区。
古き名家の邸宅が並ぶその一角、その最奥にあるアルヴェイン公爵家本邸三階東翼私室。
社交界では冷たい花と呼ばれ、王立学院では傲岸不遜の悪役令嬢として知られる女。
優雅さを装いではなく武器として身につけ、誰にも媚びず、誰にも屈しないことでその名を保ってきた。
喉が渇いていた。
ただ、それだけだった。
エレオノーラは静かに寝台を下り、夜の廊下へ出る。
屋敷は静まり返っていた。
分厚い石壁、落ちかけた燭台の火、月に白む回廊。
この王国でもっとも安全であるはずの場所。
そのとき、彼女は不意に足を止めた。
――いる。
そう思った。
何が、とはまだわからない。
だが、いる。
こちらの暮らしとは別の尺度で時間を持つ何かが、近くにいる。
視線を向ける。
暗がりの一点が、ただの暗がりではなくなっていた。
そこだけ、世界の年齢が違うように見えた。
彼女は動けなかった。
向こうもまた、騒がない。
誇らない。
慌てない。
その沈黙には、こちらを上回る時間を生きたものだけが持つ落ち着きがあった。
ああ、と彼女は思った。
人類はずっと、戦ってきたのだ。
昔も。
今も。
そしてたぶん、これからも。
その確信が背筋を冷やした瞬間、敵は、動き始めた。
それだけで、壮大だった思索はぜんぶ吹き飛んだ。
人類史だの宇宙起源説だの完成された生命だの、そんなものは一瞬で蒸発して、口から出たのは、あまりにも大きく、あまりにも情けなく、そして妙に正確な、たったひとつの現実だった。
「――いや、無理ですわ!! ゴキブリですわ!!!!」




