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正法眼蔵随聞記 第一巻

 正法眼蔵随聞記 第一巻


 侍者 懐奘 編





 第一章


 道元は、ある日、僧達に示して、次のように、話した。


 「続 高僧伝」の中に、次のように、記されている。


 ある禅師の会の下に、ある僧がいた。

 その僧は、黄金像の仏像と、仏の遺骨を崇め、用いて

衆寮などにいても、常に、焼香して礼拝し、恭しく敬って捧げものを捧げていた。

 ある時、その禅師は、次のように、話した。

「あなたが崇めている仏像と仏の遺骨は、後には、あなたのためには、善くないであろう」

 その僧は、聞き入れなかった。

 その禅師は、次のように、話した。

「仏敵である天魔波旬が為すような所作なのである。

早く、その所作を捨てるべきである」

 その僧が怒って出て行くと、その禅師は、その僧の背後に、次のように、話しかけた。

「あなた、箱を開いて、仏像と仏の遺骨を見なさい」

 その僧が怒りながら、箱を開いて見ると、毒蛇が、とぐろを巻いて潜伏していた。


 この話によって、考えると、

仏像と仏の遺骨は、仏が残してくれた像と遺骨なので、恭しく敬うべきであるが、「仏像と仏の遺骨を仰いで敬うだけで、悟りを得よう」と思ってしまうと、かえって逆に、邪悪な見解なのである。

 天魔波旬や毒蛇のようなものに支配される原因に成ってしまうのである。

 仏が説いてくれた功徳は確定の事なので、(仏像や仏の遺骨への善行が、)人や天人の幸福の分け前と成る事は、生身の仏への善行による幸福と等しいのである。

 総じて、仏、仏法、僧という対象を恭しく敬って、捧げものを捧げれば、罪は滅び、功徳を得、地獄などに堕ちてしまう悪業をも消し、人や天人の結果をも感じる事は、真実なのである。

 しかし、「仏像や仏の遺骨を敬うだけで、法の悟りを得よう」と思ってしまうのは、邪悪な見解なのである。

 仏の子、仏の弟子である僧に成るのは、仏教に従って直に仏の位へ至るためなので、ただ、仏の教えに従って工夫して真理をわきまえるべきなのである。

 仏の教えに従う真実の修行とは、今の禅寺が主要としている坐禅に打ち込むのに専念する事なのである。

 坐禅に打ち込むのに専念する事を思うべきである。





 第二章


 道元は、また、次のように、話した。


 「戒と、節制と清浄を守るべきである」と言って、強いて、主要であるとして、戒と節制と清浄を修行に見立てて、「戒と節制と清浄だけで、真理を会得しよう」と思ってしまうのも、善くないのである。

 ただ、戒と節制と清浄は、僧の日常の所作、仏の子、仏の弟子である僧の家風なので、仏の教えに従って行うのである。

 「『戒と節制と清浄は、善い事である』と言われているから」と言って、「主要である」とする事なかれ。

 しかし、「戒を破って、自由奔放で邪悪であれ」と言っている訳ではない。

 もし、「戒を破って、自由奔放で邪悪であれ」と執着してしまえば、邪悪な見解なのである。外道なのである。

 戒と節制と清浄は、ただ、仏の家である仏教の所作、寺の家風なので、仏の教えに従っていくだけなのである。

 戒と節制と清浄を主要であるとする事は、私、道元が宋の時代の中国の寺院にいた時に、僧達にも見られなかった。

 実に、真理を会得するためには、ただ、坐禅して工夫するだけであるのが、仏と祖師達の伝承なのである。

 このため、私、道元と同門であり、「葉上 僧正」とも呼ばれる故人である栄西の弟子である、五眼房が、唐の時代の中国の禅の寺院で、節制と清浄を堅く守って、戒の経を終日、読んでいるだけであったのを、私、道元は、教えて説得して、捨てさせて、やめさせたのである。





 第三章


 懐奘は、次のように、質問した。


 禅寺で、仏道を学び修行する時の所作では、百丈懐海による清規を守るべきですか?

 そうであれば、「清規」には、「僧は、最初は、戒を受け入れる事と、戒を守る事を優先する」という記述が見られます。

 また、今の、伝えられて来ている伝承には、「根本戒を授ける」という記述が見られます。

 当門の、口伝の秘訣と、言い表せないものを顔と顔を合わせて授ける事でも、西のインドから来た第二十八祖の達磨が伝えてくれた戒を、未だ学ぶべき物が有る人である僧に授けます。

 その戒とは、今の菩薩戒なのです。

 それに、今の戒の経には、「日夜、この戒の経を読みなさい」と記されています。

 道元は、五眼房に、なぜ、戒の経を読むのを捨てさせて、やめさせたのですか?


 懐奘の師である、道元は、次のように、話した。


 その通りなのである。

 未だ学ぶべき物が有る人である僧は、最優先で、百丈懐海による規則である「清規」を守るべきである。

 さて、「清規」の所作とは、戒を受け入れる事、戒を守る事、坐禅などなのである。

 「昼夜、戒の経を読み、戒を守る事に専念する」と言うのは、古代の先人の日常の所作に従って、坐禅に打ち込むのに専念する事なのである。

 坐禅している時、どの戒も保持する! どの功徳も来る!

 古代の先人が修行しておいてくれた日常の所作は、全て、深い心による物なのである。

 私的な心の欲望と願望を無くして、僧達に従って、古代の先人の日常の所作に心身を任せて、修行していくべきなのである。





 第四章


 道元は、ある時、僧達に示して、次のように、話した。


 仏照禅師の会の下に、ある僧がいて、病気の時、肉食したいと思ってしまった。

 仏照禅師は、肉食を許して、食べさせた。

 仏照禅師は、ある夜、自ら、寺の延寿堂に行って、見てみると、明かりの火を暗くして、その病気の僧が、また、肉を食べていた。

 その時、一人の鬼が、その病気の僧の頭の上に載って居て、その肉を食べていた。

 その僧は、「肉は自分の口に入っている」と思っていたが、その僧は食べておらず、その僧の頭上の鬼が食べていたのである。

 仏照禅師は、それ以降、その病気の僧が肉食を好むのは、鬼に支配されてしまっている、と知ったので、肉食を許した。


 この話について、考えると、

許すべきか? 許すべきではないか? 事情の考慮が存在するべきである。

 五祖山の法演の会でも、僧が肉食する事が有った。

 許すのも、制止するのも、古代の先人の心には、全て、意図が有るのである。





 第五章


 道元は、ある日、僧達に示して、次のように、話した。


 人は、「その家に生まれ(変わり)、その道に入ったならば、まず、その家業を修行するべきである」と知るべきなのである。

 自分の道ではなく、自分の務めではない事を知ったり、修行するのは、善くないのである。

 今も出家者として、仏の家である仏教に入って僧と成ったならば、仏教の善業を習うべきなのである。

 「仏教の善業を習い、仏教の所作を守る」と言うのは、自説や自身への執着を捨てて、善知識を持つ人々の教えに従うのである。

 善知識を持つ人々の教えに従う、主旨とは、貪欲を無くす事なのである。

 「貪欲を無くそう」と思うならば、まず、自説や自身への執着を離れるべきなのである。

 自説や自身への執着を離れるには、この世のものは常に変化するのを観察するのが、第一の用心なのである。

 世俗の人々は、多くが、「私は、(もと)より、他人にも『良い』と言われたり、思われたりしよう」と思ってしまうのである。

 けれども、「良い」と言われたり、思われたりしないのである。

 次第に、自説や自身への執着を捨てて、善知識を持つ人々の言葉に従っていけば、精進する事に成るのである。

 真理を心得ているように言って、「それは、そうだが、私は、これを捨てる事ができ得ない」と言って、執着し、好み、修行するのは、ますます、沈没する事に成ってしまうのである。

 禅僧が善く成るための第一の用心は、坐禅に打ち込むのに専念する事なのである。

 利発か愚鈍か、賢者か愚者かを論じず、坐禅すれば、自然に、善く成るのである。





 第六章


 道元は、僧達に示して、次のように、話した。


 広く学ぶ事、広く見聞きする事は、叶えるべきではない事なのである。

 完全に、思い切って、やめるべきである。

 ただ、一つの事だけについて、用心、前例をも習い、先人の達人の日常の所作をも尋ねて、一つの修行に専念して励んで、人の師や先人の達人のふりをしない事なのである。





 第七章


 懐奘は、ある時、次のように、質問した。

「奥底まで因果をくらまさない道理とは、どのような物なのでしょうか?」


 懐奘の師である道元は、次のように、話した。

「因果は不動なのである」


 懐奘は、次のように、話した。

「どのように、(不動な)因果を脱ぎ落とすのでしょうか?」


 懐奘の師である道元は、次のように、話した。

「因果は、歴然と明らかなのである」


 懐奘は、次のように、話した。

「そうならば、

原因が、結果を引き起こすのでしょうか?

結果が、原因を引き起こすのでしょうか?」


 懐奘の師である道元は、次のように、話した。

「仮に、全て、結果が原因を引き起してしまうならば、南泉普願が子猫を斬ってしまった(ふりをして子猫を遠くに捨てた)、あの話で、僧達は既に何も言う事ができ得ない事に成ってしまうし、子猫を心の隙として斬り終わってしまった(ふりをして子猫を遠くに捨てた)事に成ってしまう。

後に、真際禅師とも呼ばれる趙州従諗は、頭に履物を戴いて出たが、一段と際立っている所作なのである」

 (※「南泉斬猫」という話で、真際禅師とも呼ばれる趙州従諗は、頭を原因に例え、足と履物を結果に例え、頭に履物を載せているのを原因と結果を取り違えているのに例え、子猫を争った僧達の未熟な心が原因であり、子猫は結果に過ぎないのに、南泉普願が子猫を原因として斬ってしまったふりをして子猫を遠くに捨てたので、頭に履物を載せて抗議した。)


 道元は、また、次のように、話した。

「私、道元が、もし、仮に、(『南泉斬猫』という話で、)南泉普願であったならば、次のように、話すであろう。

『何か言う事ができ得ても、子猫を心の隙として斬ろう。

何も言う事ができ得なくても、子猫を心の隙として斬ろう。

誰が、子猫を争うのか?

誰が、子猫を救うのか?』

私、道元は、僧達に代わって、次のように、話そう。

『既に、何も言う事ができ得ないので、和尚、南泉普願よ、子猫を心の隙として斬りなさい』(※はったりである。本当に、斬りなさい、と言っている訳ではない。)

しかし、すぐに、私、道元は、僧達に代わって、次のように、話そう。

『和尚、南泉普願は、ただ一刀両断しか知らず、一刀一断を知らない』」


 懐奘は、次のように、話した。

「『一刀一断』とは、何ですか?」


 懐奘の師である、道元は、次のように、話した。

「(無事なままの)子猫である」


 道元は、また、次のように、話した。

「僧達が答えない時、私、道元が、仮に、南泉普願ならば、『僧達は既に何も言う事ができ得ない』と言って子猫を捨てたりしないであろう。

古代の先人は、次のように、話している。

『悟りの大いなる作用が現に目の前に存在していて、規則を無視して超法規的である』」

 (※「南泉斬猫」という話で、南泉普願は、正しい僧なので生き物を殺すはずが無いので、子猫を斬ってしまったふりをして、子猫を遠くに捨てた、と道元は考えている。)


 道元は、また、次のように、話した。

「今の(『南泉斬猫』という話の)『猫を斬ってしまった』という嘘は、仏法の、『悟りの大いなる作用が現に目の前に存在していて、規則を無視して超法規的である』という事なのである。

あるいは、(正しい目的のための嘘も、)心を一転させる言葉なのである。

もし、仮に、(正しい目的のための嘘も、)心を一転させる言葉でなければ、『山や河や大地は、(仏の)妙なる清浄な明るい心による物なのである』と言う事ができなく成ってしまう。

また、『(正しい)心が、仏なのである』とも言う事ができなく成ってしまう。

『心を一転させる言葉』という言葉の下で、『子猫は、仏の身なのである』と見なさい。

また、前述の言葉を聴いて、未だ学ぶべき物が有る人である僧も、すぐに、悟りに入るべきである」


 道元は、また、次のように、話した。

「この(『南泉斬猫』という話の)『猫を斬ってしまった』という嘘は、仏の行いなのである。

呼んで、何と、言うべきであろうか?

呼んで、『猫を斬ってしまった、という嘘』と言うべきである」


 懐奘は、次のように、話した。

「(正しい目的のための嘘は、一見、)罪に見えるか? 否か?」


 道元は、次のように、話した。

「(正しい目的のための嘘は、一見、)罪に見える」


 懐奘は、次のように、話した。

「どのようにして、(嘘を)脱ぎ落とすのでしょうか?」


 道元は、次のように、話した。

「別々に区別する見解を無くすのである」


 懐奘は、次のように、話した。

「『戒を守って別々の悪行から解脱する』とは、このような事を言っているのでしょうか?」


 道元は、次のように、話した。

「その通りである」


 道元は、また、次のように、話した。

「ただし、このような(、『正しい目的のために嘘をつく』という)考えは、たとえ善い事であっても、しないで済む(ほう)が善いのである」





 第八章


 懐奘は、次のように、質問した。

「『犯戒』、『戒を破ってしまった』という言葉は、戒を受け入れて以後に戒を破ってしまったのを言うのでしょうか?

それとも、また、未だ戒を受け入れていない以前の戒を破ってしまったのをも『戒を破ってしまった』と言うのでしょうか?

どうなのでしょうか?」


 懐奘の師である道元は、次のように、答えた。

「『戒を破ってしまった』という名称は、戒を受け入れた後に戒を破ってしまったのを言うべきである。

未だ戒を受け入れていない以前の所作のうち罪に見える物を、ただ、『罪に見える物』、『罪業』と言い、『戒を破ってしまった』とは言うべきではないのである」


 懐奘は、次のように、質問した。

「『四十八軽戒』の中には、『未だ戒を受け入れていない時に戒を破ってしまったのを、戒を破ってしまった、と名づける』と記されているのが、見られます。

どうでしょうか?」


 道元は、次のように、答えた。

「そうではないのである。

ある者が未だ戒を受け入れていない者である場合、『今、戒を受け入れよう』とする時、造ってしまった罪を懺悔すると、今、戒を望めるのであるが、前に十戒などを授かっていた場合に戒を破ってしまったり、後は、『軽戒』を破ってしまったりしたのを『戒を破ってしまった』と言うのである。

戒を受け入れる以前に造ってしまった罪を『戒を破ってしまった』と言う訳ではないのである」





 第九章


 懐奘は、次のように、質問した。

「『今、戒を受け入れよう』とする時、『前に造ってしまった罪を懺悔するために、未だ戒を受け入れていない者に、十重戒と四十八軽戒を教えて、読ませなさい』と記されているのが、見られます。

しかし、その後の文に、『未だ戒を受け入れていない者を前にして、戒を説くべきではない』とも記されているのが、見られます。

この二箇所の相違は、どうしてでしょうか?」


 道元は、次のように、答えた。

「戒を受け入れるのと、戒を読むのは、別なのである。

懺悔のために戒の経を読む事は、経を読む事なのである。

そのため、『未だ戒を受け入れていない者は、戒の経を読もう』とするのである。

未だ戒を受け入れていない者のために、戒の経を説こうとする事には、罪は無い。

『その後の文』では、自身を養う利益への貪欲のために、未だ戒を受け入れていない者を前にして戒の経を説く事を制止しているのである。

今、戒を受け入れている者に、懺悔させるためには、最優先で、戒を教えるべきである」





 第十章


 懐奘は、次のように、質問した。

「戒を受け入れさせる時は、『七逆罪』を犯してしまった者が戒を受け入れるのを許しません。

しかし、戒の経の中には、『七逆罪を犯してしまった者も、懺悔するべきである』と記されているのが、見られます。

どうしてでしょうか?」


 道元は、次のように、答えた。

「実に、懺悔するべきなのである。

戒を受け入れさせる時、(『七逆罪』を犯してしまった者が戒を受け入れるのを)許さないのは、『抑止門』、『悪行を抑止するための、教えの入口』として、悪行を抑止する意味が有るのである。

また、(『七逆罪』を犯してしまった者が戒を受け入れるのを許さない、という)前者の文は、戒を破ってしまっても、かえって逆に、(懺悔して)戒を受け入れ直せば、清浄に成るからなのである。

懺悔すれば、清浄に成るのであり、戒を未だ受け入れていない者とは同じではないのである」


 懐奘は、次のように、質問した。

「『七逆罪』を犯してしまった者に、既に、懺悔を許すならば、戒を受け入れ直させる事もするべきなのでしょうか?

どうなのでしょうか?」


 道元は、次のように、答えた。

「その通りなのである。

故人である僧正が、自ら確立した、正しい道理なのである。

既に、懺悔を許すならば、戒を受け入れ直させるべきである。

『七逆罪』を犯してしまった者でも、後悔して戒を受け入れ直そうとするならば、戒を授けるべきである。

まして、『菩薩』、『仏の無上の覚を求める修行者』は、たとえ自身が『戒を破ってしまった』という罪を背負っても、他者のために戒を受け入れさせるべきなのである」





 第十一章


 道元は、「夜話」、「夜に話す修行のための教訓話」として、次のように、話した。


 悪口によって、僧を叱ったり、非難したりするなかれ。

 たとえ、悪人が正しくなくても、考え無しに、憎悪したり、非難したりするなかれ。

 まず、どんなに「悪い」といえども、四人以上が集まっていれば、僧団の体を成していて、国の貴重な宝なのである。

 僧団は、最も、帰依して敬礼するべきものなのである。

 「住持」や長老であれ、師匠や善知識を持つ人々であれ、弟子が正しくないならば、慈悲心や老婆心によって、教えて、善へ誘導して引き入れるべきなのである。

 その時、たとえ、打つべき者を打ったり、叱るべき人を叱ったりしても、非難や悪口の心を起こすべきではないのである。


 道元の亡き師である、天童山の如浄 和尚は、「住持」であった時、寺の僧堂で僧達が坐禅していた際、(僧が)眠らないように戒めるために、(眠った僧を)履物で打って非難したが、僧達は皆、打たれるのを喜んで賛嘆した。


 如浄は、また、「上堂」のついでに、次のように、話した。

「私、如浄は、既に、老いていて、今は、僧達と共にいるのを辞して、(いおり)に住んで、自身の老いを補助しているが、僧達にとっての『善知識を持つ人』として、各々の僧の迷いを破ってあげて真理を授けるために、『住持』を務めている。

このため、あるいは、非難の言葉を発し、竹箆で叩くなどの事を(おこな)っている。

これは、大いに、(悪行である)恐れが有る。

けれども、仏に代わって教化を高める方法なのである。

諸々の兄弟よ、慈悲をもって、これを許してください」

 如浄が前述のように話すと、僧達は皆、涙を流した。


 このような心を持ってこそ、僧達とも接し、教化の言葉をも述べる事ができるのである。

 「住持」や長老だからと言って、(みだ)りに、僧達を支配して、自分の物であるかのように思って、非難するのは、善くないのである。

 まして、「その人」、「相応(ふさわ)しい人」ではないのに、他人の短所を言ったり、他人の誤りを非難するのは、善くないのである。

 よくよく、用心するべきなのである。

 他者の誤りを見て「悪い」と思い、「慈悲をもって教化しよう」と思ったならば、相手が腹立たないように、方便によって別の事を言っているかのように見せかけるべきなのである。





 第十二章


 (道元は、次のように、話した。)


 また、物語には、次のように、記されている。


 故人である鎌倉の右大将であった、源頼朝が、最初、「兵衛佐」であった時、内裏の辺りに、ある日、晴れの日の会で出仕した際、一人の不法者がいた。

 その時の「大納言」が、「その者を制圧しなさい」と話した。

 源頼朝は、「『六波羅』にいる者に言ってください。(『六波羅』には)平家の将軍がいます」

 「大納言」は、「(源頼朝が、)近々に、とても近いからである」と話した。

 源頼朝は、「『その人』、『(不法者の制圧に)相応しい人』ではない」と話した。


 これは、美しい言葉なのである。

 源頼朝は、この心によって、後には、世を治めたのである。

 今の、未だ学ぶべき物が有る人である僧も、この心が有るべきである。

 相応しい人ではないのに、他人を非難するなかれ。





 第十三章


 道元は、「夜話」で、次のように、話した。


 昔、魯仲連と言う将軍がいた。

 魯仲連は、平原君の国にいて、よく朝敵を平定した。

 平原君が、ほめて、多数の金銀などを与えようとしたら、魯仲連は、次のように、話して辞退した。

「ただ、将軍の道なので、敵をよく討伐しただけであり、称賛を得て物を得るためではないのです。

あえて、受け取りません」


 前述が、魯仲連の、清廉潔白さ、正直さの証としての逸話、「名誉な事である」と言われている逸話である。

 在俗者でもなお、賢明である者は、「自分は『その人』、『担当者』である」として、自分の務めである分野の能力を発揮するだけなのである。

 「自分の務めを果たす代わりに、何かを得よう」とは思わないのである。


 未だ学ぶべき物が有る人である僧の用心も、このようであるべきなのである。

 仏道に入門して、仏法のために諸々の事を修行しているのに、「自分の務めを果たす代わりに、何かを得よう」と思うべきではないのである。

 仏教内外の諸々の教えでも皆、「無所得でいなさい」、「何ものにも、とらわれるなかれ」と、ばかり勧めるのである。





 第十四章


 道元は、「法談」、「仏法談義」のついでに、僧達に示して、次のように、話した。


 たとえ自分は道理によって言っていても、他人が歪んでいて誤った事を言うのを、道理を攻めて言い勝つのは、悪いのである。

 また、自分は、「自分の考えが現に道理である」と思っているが、「自分が誤っている」と(嘘を)言って、(わざと)早く言い負けて、身を引くのも、軽率なのである。

 ただ、他人も言い負かさず、「自分が誤っている」事にもせず、何もせず、止めるのが、善いのである。

 耳に聴き入れないようにして忘れれば、他人も忘れて怒らない物なのである。

 前述は、第一の用心なのである。





 第十五章


 道元は、僧達に示して、次のように、話した。


 この世のものの常の変化は迅速なので、生死は一大事なのである。

 短時間、存命の間に、善業を修行し知恵を学ぶのを好むならば、ただ、仏道を修行し仏法を学ぶべきなのである。

 作文、作詩、作曲などは無益な事なので、捨てるべきなのが道理なのである。

 仏法を学び仏道を修行するにしても、多種多様な物を並行して学ぶべきではないのである。

 まして、禅宗以外の、密教以外や、密教の、経典は、全く優先しないべきなのである。

 仏や祖師達の言葉ですら、多種多様な物を好んだり、学んだりするべきではないのである。

 一つの事に専念する事すら、能力が愚鈍である、能力が劣っている者には、かなわないであろう。

 まして、多数の事を並行に専念しようとして、心の意思の堅固さを調えて、まとめない者には、(一つの事に専念する事すら、)不可能なのである。





 第十六章


 道元は、僧達に示して、次のように、話した。


 昔、智覚禅師とも呼ばれる永明延寿と言う人の、悟りを求める事を思い立って心した事と、出家は、次のようであった。


 永明延寿は、最初は、役人であった。

 才能に富み、正直な賢者であった。

 しかし、「国司」であった時に、役所の金銭を盗んでしまって、布施をした。

 周囲の人々は、それを皇帝に報告した。

 皇帝は、それを聞いて、大いに驚き、不思議に思った。

 諸々の臣下も皆、不思議に思った。

 その罪は軽くないので、「死刑にされるべきである」と決定してしまった。

 しかし、そこで、皇帝は、相談して、次のように、話した。

「この永明延寿は、才能が有る人であるし、賢者である。

今、わざわざ、このような罪を犯した。

もしかしたら、深い心の意図が有るのかもしれない。

首を斬ろうとする時、悲しみ憂う様子が有れば、速やかに斬ってしまいなさい。

しかし、もし、そのような様子が無ければ、きっと、深い心の意図が有るのであろうし、斬るなかれ」

 皇帝の勅使が、永明延寿を連行して、永明延寿の首を斬ろうとする時、(永明延寿には、)少しも憂う様子が無く、かえって逆に、喜ぶ様子が有った。

 そして、永明延寿は、自ら、次のように、話した。

「今生の命は、一切、全て、生者達に施す」

 皇帝の勅使は、驚き、不思議に思って、皇帝に報告した。

 皇帝は、次のように、話した。

「『そうであろう。きっと、深い心の意図が有って、このような事が有ったのであろう』と、かねてから事前に、このように知っていた」

 そのため、皇帝は、永明延寿の意図を質問した。

 永明延寿は、次のように、話した。

「『役人を辞職して、命を捨てて布施をして、生者達と縁を結び、僧としての(新しい)生を受けて、専念して仏道を修行しよう』と思います」

 皇帝は、この言葉に感心して、永明延寿を許して出家させた。

 そのため、「延寿」という名前をもらったのである。

 殺すべきなのを思い留まったからである。


 今の僧も、これほどの心を一度、起こすべきなのである。

 「(自身の)命を軽んじ、生者達を思いやる心を深くして、身を仏による制度に任せよう」と思う心を起こすべきである。

 もし、前から、このような心が、一念でも有れば、「失わないようにしよう」と思って保持するべきである。

 これほどの心を一度も起こさないで仏法を悟る事は、有り得ないのである。





 第十七章


 道元は、「夜話」で、次のように、話した。


 「祖席」、「祖師達の道場」で、禅の話を心得た前例とは、「自分は(もと)から知っている」と思う心を、次第、次第に、善知識を持つ人々の言葉に従って改めて、修行したのである。

 たとえ、「仏とは、自分が(もと)から知っている様は、『三十二相 八十種好』と光明が十分に備わっていて法を説いて生者達に利益をもたらす『徳』、『力』、『善行』が有る釈迦牟尼仏や阿弥陀仏などが仏である」と知っていても、善知識を持つ人々が、もし、「仏とは、ヒキガエルや、ミミズである」と言うならば、ヒキガエルや、ミミズを「これらは、仏である」と信じて、常日頃の知識や理解を捨てるべきなのである。

 このミミズの上に、仏の「三十二相 八十種好」や光明や種々の仏が備えている「徳」、「力」、「善行」を探し求めてしまうのも、なお、感情や見解が改まっていない事に成ってしまうのである。

 ただ、現在、見えているままを「仏である」と知る事なのである。

 もし、このように、(善知識を持つ人々の)言葉に従って、感情や見解や(もと)からの執着を改めて行けば、自然と、法に(かなう)う所が有るのである。

 それなのに、近頃の僧は、自分の感情や見解に執着してしまい、自分の見解を(もと)として「仏とは、このようにこそ存在するであろう」と思ってしまい、また、自分が思っている様と違えば、「そうでは、無いであろう」等と言ってしまい、「自分の感情や推量に似ている事が有るであろう」と迷い続けてしまう割に、恐らく、仏道の精進は無いのである。

 また、(近頃の僧は、)「身を惜しまずして、百尺の竿の先頭に上って、手足を離して、一歩、進みなさい」と言われた時は、「命が有ってこそ、仏道も学べるであろう」と言ってしまって、真実に、善知識を持つ人々に従わないのである。

 よくよく、思いはかるべきなのである。





 第十八章


 道元は、「夜話」で、次のように、話した。


 世間の人も、多数の事を並行して学んでしまって、どれも良くできないよりは、ただ、一つの事だけを良くできるように成って、人前でも、できるほどに学ぶべきなのである。

 まして、俗世を出る仏法は、遥かな昔から、くり返し習って修行して身につけていない法なのである。

 そのため、今も、良く知らない物なのである。

 自分の素質も拙い物なのである。

 高く広大な仏法で、多種多様な事を並行して学んでしまえば、一つの事にも成功できないであろう。

 一つの事に専念してすら、(もと)からの性質が愚昧であり、劣っている才能の器である人は、今生で、極め難い。

 努力して、未だ学ぶべき物が有る人である僧は、一つの事に専念するべきである。


 懐奘は、次のように、質問した。

「もし、そうであるならば、何の事、どのような修行を、仏法で専念して好み修行するべきでしょうか?」


 懐奘の師である道元は、次のように、話した。

「『機会に従うべきであるし、才能に従うべきである』といえども、今、祖師達の道場で伝えていて専念する物とは、坐禅なのである。

この坐禅という修行は、多数の機会を兼ね合わせる事ができて、才能が上等でも中程度でも下等でも等しく修行する事ができ得る物なのである。

私、道元は、宋の時代の中国の天童山の、道元の亡き師である如浄の会の下で、このような道理を聞いて後、昼夜、坐禅して『定』に入ったが、諸々の僧達は、『極熱や極寒の時には発病してしまうであろう』と言って、しばらく、(坐禅を)捨ててしまった。

私、道元は、その時、自ら、次のように、思った。

『たとえ、発病して死んでも、なお、ただ、この坐禅を修行するべきである。

病気が無くても、修行せず、この身をいたわって用いても、何の役にも立たない!

病気に成って死んでも、本意なのである。

宋の時代の中国の、善知識を持つ人の会の下で、修行して死に、死後、善い僧に(あつか)われたら、優れた縁と成るのである。

日本で死んだら、これほどの人によって、仏法の通りに、仏教の儀式で(あつか)われないであろう。

修行すれば、未だ悟りに(かな)っていない矢先に死んでも、縁を結んだとして僧として生を受けるであろう。

修行しないで、身を長く保持しても、無益なのである。何の役にも立たない!

まして、身を(まっと)うして病気を起こさない、と思っても、不覚にも、船が海に沈没する目や、不慮の死に遭ってしまった時は、とても後悔してしまう!』

このように、思案し続けて、思い切って、昼夜、端正に坐禅したが、一切、病気が起こらなかった。

今、各々の僧も、完全に、思い切って、修行してみなさい。

十人が、十人、共、真理を会得できるであろう。

道元の亡き師である、天童山の如浄の勧めとは、このような物であった」





 第十九章


 道元は、僧達に示して、次のように、話した。


 人は、思い切って、命をも捨てて、身の肉や手足をも切る事は、できる物なのである。

 世間の事を思って、名声や利益や心の執着のために、多数の人は、このように、思い切るのである。

 ただ、去来する時に、折に触れて、物に従って、心の品性を調える事は、難しいのである。

 僧は、「身の命を捨てる」と思って、少しの間でも、抑えて静めて、言うべき事についても、行うべき事についても、「道理に従っているか? 従っていないか?」と思案して、道理に従っているのであれば、言ったり、(おこな)ったりするべきなのである。





 第二十章


 道元は、僧達に示して、次のように、話した。


 仏道を学び修行している人は、衣服や食糧について心配するなかれ。

 ただ、仏による制度を守って、世俗の事を営むなかれ。

 仏は、次のように、話している。

「衣服には『糞掃衣』が有るし、食べ物には日常の乞食による物が有る」

 いつの世でも、これらの二つの事は尽きない!

 この世のものの常の変化は迅速であるのを忘れてしまって、いたずらに無駄に、世俗の事について心配するなかれ。

 (つゆ)のような命が一時的に存在する間に、仏道について思考して、他の事に専念するなかれ。





 第二十一章


 ある人が、次のように、質問した。


 「名声と利益という二つの物は、捨てて離れ難い」といえども、仏道修行への大いなる妨げに成るので、捨てる必要が有ります。

 そのため、これらを捨てます。

 「衣服と食糧という二つの事は、繋がりは小さい」といえども、修行者には大事なのです。

 「糞掃衣」と、日常の乞食は、上等な才能の者が行う事であり、西のインドの風流なのです。

 中国の寺には、寺の共有物などが有ります。

 このため、それら(、衣服と食糧)への心配は無いのです。

 我が国、日本の寺院には、寺院の共有物は無いです。

 乞食という所作も、絶えてしまって、伝わってないです。

 下等な才能の、忍耐できない未熟な身の者は、どうすれば善いのでしょうか?

 そうであれば、自分のような者は、寺の支援者と信者による布施を貪ろうとするも、虚しく受け取ってしまう罪が従って来てしまいます。

 農業、商業、公務、工業を営むのは、「邪命食」に成ってしまいます。

 ただ、「天の神による運命に任せよう」とすれば、善行による報いに、乏しいのです。

 飢えや寒さが来た時、これらを心配して、仏道修行が妨げられるでしょう。

 また、ある人が、忠告して、次のように、話しました。

「あなたの、ふるまいは、極端であるし、時機を知らず、機会を顧みないのに似ている。

(人は、)才能が下等であるし、末法の世なのである。

このように修行してしまえば、退転の原因と成ってしまうであろう。

あるいは、一人の寺の支援者とも語らって、あるいは、寺の支援を一つでも約束してもらって、閑静な住居、静かな所で、自身を助けて、衣服や食糧を心配すること無く、静かに、仏道を修行するべきである。

これは、財産や物などを貪る訳ではない。

一時的な生活手段を備えて修行するべきである」

 このような言葉を聞きますが、未だ信用した訳ではありません。

 このような用心は、どうなのでしょうか?


 道元は、次のように、答えた。


 ただ、僧の日常の所作、仏や祖師達の家風を学ぶべきである。

 「インド、中国、日本の三国は異なる」といえども、真実に仏道を学び修行する者には、未だ、そのような事は無いのである。

 ただ、心を世俗の事に執着させるなかれ。

 専念して、真理を学ぶべきである。

 仏は、次のように、話している。

「『三衣』と器、以外は、少しも、蓄えるなかれ。

乞食の余分は、飢えている生者達に施しなさい」

 たとえ、(自分が、)もらって来た(物である)としても、少しも、蓄えるなかれ。

 まして、ごちそうのために走りまわるなかれ!

 仏教外の経典には、次のように、記されている。

「朝に真理を聞く事ができたならば、夕方に死んでも、善い」

 たとえ、飢え死にしたり、凍え死んだりしても、一日でも、一時でも、仏教に従うべきである。

 幾万の劫、幾千の生で、何回も生じるであろうし、何度も死ぬであろう。

 全て、それ(、輪廻転生)は、この世との繋がり、妄執のせいなのである。

 今生、一度、仏による制度に従って、餓死しても、永劫の安楽と成るであろう。

 さらに、まして、未だ、大蔵教の中にも、仏教をインドと中国と日本に伝えて来ている仏や祖師達のうち、一人も、飢え死にしたり、凍え死んだりした人が「いる」と記されているのを、聞いた事が無い。

 俗世間でも、衣服や食糧などの「四資具」、「仏道修行の必需品」は、生得の、寿命に応じた分け前が有って、求めても来ないし、求めなくても来る。

 ただ、運命に任せて、雑念を心に挟み込むなかれ。

 「末法の世である」と言って、今生で、悟りを求める心を起こさなければ、どの生でも真理を会得できないであろう!

 たとえ、空生とも呼ばれる須菩提や、迦葉のようではなくても、ただ、最善を尽くして、仏道を学び修行するべきなのである。

 仏教外の経典には、次のように、記されている。

「美女の『西施』や『毛嬙』ではなくても、色を好む者は、色を好む。

速く走る名馬の『飛兎』や『緑耳』ではなくても、馬を好む者は、馬を好む。

想像上の珍味の『竜の肝臓』や『鳳凰の骨髄』ではなくても、味を好む者は、味を好む」

 ただ、最善を尽くして、賢明さを用いるだけなのである。

 俗世の人でも、なお、このような所作が有るのである。

 仏の家の僧も、また、このようであるべきである。

 まして、また、仏は、二十年間分の幸福の分け前を、末法の世の僧達に施してくれている。

 このため、天下の寺で、人や天人による捧げものは絶えない。

 釈迦牟尼仏は、神に通じる善行による幸福によって、自由自在であっても、馬麦を食べて、夏安居を過ごされた。

 末法の世の、仏の弟子である僧は、これを慕う!





 第二十二章


 懐奘は、次のように、質問した。


 戒を破って、虚しく人や天人からの捧げものを受け取り、悟りを求める心が無くて、いたずらに無駄に、仏による幸福の分け前を浪費するよりも、在家信者に従って、在家信者の事を為して、命を永らえて、よく、仏道を学び修行するのは、どうでしょうか?


 道元は、次のように、答えた。


 誰が話しているのか、「戒を破って、悟りを求める心が無いままでいなさい」と?

 ただ、強いて、悟りを求める心を起こして、仏法を修行するべきなのである。

 さらに、まして、「戒を守っているか、戒を破っているかを論じず、初心者か、熟練者かを区別せず、等しく、釈迦牟尼仏による幸福の分け前を与える」と記されているのは、見られるが、「戒を破っているならば、還俗するべきであるし、悟りを求める心が無いのであれば、修行するなかれ」と記されているのは、見られない。

 どの人も、最初からは悟りを求める心は無い!

 ただ、このように起こし難い心を起こして、修行し難い事を修行すれば、自然に、進歩するのである。

 人々には皆、仏に成れる性質が有る。

 いたずらに無駄に、卑下するなかれ。

 また、「文選」には、次のように、記されている。

「一つの国は、一人のために、盛んに成る。

先人の賢者の跡は、後世の愚者のために、廃れてしまう」

 前述の言葉の意味は、

「国に賢者が一人でも出て来れば、その国は盛んに成る。

愚者が一人でも出て来れば、先人の賢者の跡は、廃れてしまう」

という事なのである。

 この言葉を思考するべきである。





 第二十三章


 道元は、雑談のついでに、次のように、話した。


 世間の人々は、老若男女、多くが、性的な事などを話す。

 これによって「心が慰められる」としたり、その場を盛り上げるための言葉としたりする事が有る。

 「一時的に、心を遊ばせる事ができるし、退屈を慰めるのに似ている」と言うが、僧には、最も禁断にするべき事なのである。

 俗世の人でも、なお、善い人、誠実な人が、礼儀をも知っていて、誠実に話す時、(性的な事は)出て来ない事なのである。

 ただ、酔い乱れて、自由奔放で邪悪な時に話す事なのである。

 まして、僧は、専念して仏道について思うべきである。

 雑談は、有り得ない、通常の者とは違う、妄りな僧の話す事なのである。

 宋の時代の中国の寺院などでは、全く雑談をしないので、そのような事をも言わないのである。

 我が国、日本も、近頃、建仁寺の僧正である栄西が存命の時は、全く、あからさまにも、このような話は、出て来なかった。

 栄西の死後でも、栄西が存命の時の弟子などが少々残って留まっていた時は、一切、言わなかった。

 近頃、この七、八年以降、新入りの若い人達は、時々、話してしまうのである。

 非常識な事態なのである。

 仏の教えの中にも、「粗い荒い強い悪業は、(かえって逆に、)人を悟りに目覚めさせる事が有る。利益をもたらさない無益な無駄な言葉は、正しい道を妨げる事ができてしまう」と有って、ただ、その場の勢いで言ってしまった言葉ですら、「利益をもたらさない無益な無駄な言葉」は、仏道を妨げてしまう原因に成ってしまうのである。

 まして、このような(性的な)話は、言葉に引かれてしまって、心にも(性欲が)起きてしまうであろう。

 最も用心するべきなのである。

 特別に「このような事は言わない」としなくても、悪い事と知っていれば、次第に、対峙して治すべきなのである。





 第二十四章


 道元は、「夜話」で、次のように、話した。


 世俗の人々は、多くが、善い事をする時は、「他人に知られよう」と思ってしまうし、悪い事をする時は、「他人に知られたくない」と思ってしまう事によって、このような心は、目に見えない者達の心に合わないので、(おこな)った善い事に対しては感応してもらえず、秘密で(おこな)った悪事には罰が有るのである。

 しかし、このため、かえって逆に、(世俗の人々は、)「善行には、霊験が無い。仏法による利益は少ない」と思ってしまうのである。

 これは、邪悪な見解なのである。

 最も、改めるべきである。

 他人が知らない時でも(ひそ)かに善い事をするし、悪事を誤って犯した後には罪を隠さず罪を後悔する。

 このようにすれば、(ひそ)かに(おこな)った善い事には、感応してもらえる事が有るし、隠さなかった悪事は懺悔された事に成って消滅するので、自然に、現世利益も有るのである。

 善行による善い果報は(まさ)に決定している事をも、知っているべきである。





 第二十五章


 その時、ある在家信者が来て、次のように、質問した。

「近頃、在家信者達は、僧達に捧げものを捧げて仏法に帰依して敬礼しているのに、多くの不吉な事が出て来てしまうので、邪悪な見解が起こってしまい、『仏、仏法、僧に帰依しない』と思ってしまっています。

どうなのでしょうか?」


 道元は、次のように、答えた。


 それは、僧達や仏法の落ち度ではなく、在家信者、自らの過誤による物なのである。

 その理由とは、人目だけを気にして戒と節制と清浄を守っている僧は尊重して捧げものを捧げるが、戒を破り恥知らずにも飲酒し肉食したりなどする僧は「正しくない」と思ってしまって捧げものを捧げない。

 この区別の心は、実は、仏の心に(そむ)いてしまっている。

 そのため、仏法に帰依して敬礼している功徳も虚しく成ってしまっているし、(目に見えない者達による)感応も無いのである。

 戒の中でも、所々で、このような心を戒めている。

 僧であれば、善行の有無を選ばず、ただ、捧げものを捧げるべきなのである。

 特に、その外見によって、内心の美徳の有無を決めつけるなかれ。

 末法の世の僧は、外見は尋常ではない長所が見えるように思っても、外見に(まさ)ってしまっている悪い心も悪事も有る物なのである。

 末法の世では、善い僧と悪い僧を区別して思ってしまう事を無くして、仏の弟子である僧であれば、尊重して、区別しない心で、捧げものを捧げて帰依して敬礼すれば、必ず、仏の心に(かな)って、利益も広大に成るであろう。

 また、

「冥機」、「人目が無い所での言動」や、

「冥応」、「言動に応じて知らない所で報いられる事」や、

「顕機」、「人目が有る所での言動」や、

「顕応」、「言動に応じて分かる形で報いられる事」などの

四つの言葉が有る事を思うべきである。

 また、「現生」、「今生」や、「後報」、「第三の生以降で報いが有る事」などの「三時業」、「善行や悪行による報いが有る時機は、今の生か、来世か、第三の生以降という三つの時機である事」も有るのである。

 これらの道理を、よくよく、学ぶべきなのである。





 第二十六章


 道元は、「夜話」で、次のように、話した。


 もし、ある人が来て用件を言う中に、あるいは、他人に物を請うたり、あるいは、他人に訴訟などの事を言おうとしたりして、一通の書状を自分に所望する事が出てきた時、「私は、僧であり、世俗から逃れて、修行のために外出しない身なので、在家信者などの他人に自分の務めではない事を言うのは善くないのである」として、眼前の人の所望を叶えなければ、実に、僧の仏法には似ているけれども、その僧の心中を探ると、「私は世俗から逃れている僧であり、自分の務めではない事を他人に言ってしまえば、他人は、きっと、悪く思うであろう」と言う道理を思っていて、願いを聴かないのは、自説や自身への執着や、名声を気にしての物なのである。

 ただ、その時に臨んだら、よくよく、思いはかって、眼前の人のために、わずかでも利益と成るであろう事ならば、他人が悪く思うであろう事をも顧みず、為すべきなのである。

 「そのような事は、僧の務めではなく、悪い」として、疎遠にされたり、仲違いされたりしても、そのような愚かな知人と仲違いに成る事は、何も苦しくないであろう!

 外見は、「自分の務めではない誤った事をする」と他人には見えてしまっても、内心では、自説や自身への執着を破って、名声を捨てるのは、第一の用心なのである。

 仏や菩薩は、ある人が来て請う時は、身の肉や、手足をも切る。

 まして、ある人が来て、一通の書状を請うたのに、名声を思いはかって、その用件を聞かないのは、自説や自身への執着が深いのである。

 「神聖ではない、僧の務めではない事を言う人だなぁ」と、仕方がなく思っても、自分は名声を捨てて、わずかでも他人の利益と成るのであれば、真実に真理に相応しく成るべきなのである。

 古代の先人も、「そのような行動が有るなぁ」と見える事が多い。

 自分も、その古代の先人の行動を思って、寺の支援者や知人が、少々、「思いがけない事を他人に申し伝えて欲しい」と言う事を、文書を一通あげて、わずかでも利益を作るのは、簡単な事なのである。


 懐奘は、次のように、質問した。

「そのような事は、実に、その通りです。

善い事で、他人の利益と成る事を、他人に言い伝えるのは、最もなのです。

しかし、もし、『悪事によって他人の所帯の財産を奪い取ろう』と思ったり、あるいは、『悪口を言おう』と思ったりしているのを、言い伝えるべきでしょうか?

どうでしょうか?」


 懐奘の師である道元は、次のように、話した。


 「道理である正しい事か、正しくない事か」等の事は、自分が知るべきではない。

 ただ、一通の書状を請われれば、与えるけれども、「『道理である正しい事か、正しくない事か』によって裁きが有るかもしれない」という事を、他人にも言うし、書状にも載せるべきである。

 請うて受け取って扱うであろう人こそが、「道理である正しい事か、正しくない事か」を明らかにするべきである。

 自分の務めではない、このような「道理である正しい事か、正しくない事か」を、道理を曲げて、他人に言う事も、正しくないのである。

 また、現に正しくない事であるけれども、自分を大事に思ってくれる人で「この人の言う事は、善悪を間違えない」と思ってくれるほどの知人がいて、寺の支援者の所へ、正しくない事であるのに、自分が納得できない所望をされてしまったら、その人からの所望を一応、聞くけれども、その書状には、「『やめる事は難しい』と言うので、私は伝えているだけなのです。あなたは道理によって扱ってください」と書くべきなのである。

 一切、このようにするのであれば、あちらも、こちらも、遺恨が無いであろう。

 このような事を、他人に対面したり、事態が出て来たりするにつけて、よくよく、思いはかるべきなのである。

 結局は、折りに触れて、名声や、自説や自身への執着を捨てるべきなのである。





 第二十七章


 道元は、「夜話」で、次のように、話した。


 今、世間の人々や、出家者の人々は、多分、善い事をしては、待ち望んで、「他人に知られよう」と思ってしまうし、悪事をしては、「他人に知られたくない」と思ってしまう。

 こう思ってしまう事によって、内心でも外見でも、分不相応の事が出て来る。

 心構えをして、内心でも外見でも、分相応にし、誤りを後悔し、真実の善行を隠して、外見を飾らず、善行を他人に譲り、悪事を自分のせいにして迎える志が有るべきなのである。


 懐奘は、次のように、質問した。


 真実の善行を隠し、外見を飾らない事は、実に、その通りです。

 ただ、仏や、菩薩は、大いなる慈悲と、利益を生者達にもたらす事を根本としています。

 無知な仏道者や俗世の者などは、外見が善くないのを見て、これを非難してしまえば、僧を非難する罪を感じる羽目に成ってしまいます。

 (僧の、)真実の善行を知らなくても、外見を見て、尊重して捧げものを捧げれば、わずかでも幸福の分け前と成るでしょう。

 このような事情の考慮は、どうなのでしょうか?


 道元は、次のように、答えた。


 「外見を飾らない」と言って、自由奔放で邪悪であれば、道理を違えている。

 「真実の善行を隠す」と言って、在家信者達などの前で悪行をして見せるのも、はなはだしく戒を破っているのである。

 希有な、悟りを求める心が有る者が、「悟りを求める心が有る事を他人に知られよう」と思ってしまったり、「自身の過失を他人に知られたくない」と思ってしまったりしても、諸々の天人と善い神霊、および、仏や仏法や僧は、目に見えなくても、知見するのである。

 それなのに、恥じないで、「世俗の人々に尊重されよう」と思ってしまう心を戒めているのである。

 ただ、時機に臨んだら、折りに触れて、仏法を盛んにするため、利益を生者達にもたらすために、諸々の事で事情を考慮するべきなのである。

 「あてはめた後に言い、思考した後に(おこな)って、軽率や乱暴であるなかれ」という事なのである。

 一切の事に臨んで、道理を思案するべきなのである。

 時々の思念は止まらないし、日々は移り変わって流れていって、この世のものの常の変化が迅速である事は、眼前の道理なのである。

 善知識を持つ人々や、経典の教えを待つまでもない。

 ただ、時々の思念で、明日を期待せず、今日、現在だけを思って、「未来は、大いに不定なのであり、知り難いので、ただ、今日だけでも、存命中でも、仏道に従おう」と思うべきなのである。

 「仏道に従う」とは、仏法を盛んにするため、利益を生者達にもたらすために、身の命を捨てて、諸々の事を(おこな)っていくのである。





 第二十八章


 懐奘は、次のように、質問した。

「仏教の勧めに従うのであれば、乞食などを修行するべきでしょうか?

どうでしょうか?」


 道元は、次のように、答えた。


 その通りである。

 ただし、これは、土地の風習に従って事情の考慮が有るべきである。

 何にしても、生者達にもたらす利益も広く、自分の修行も進む(ほう)に付くべきなのである。

 これらの作法をするために、道路が清浄ではないのに、袈裟を着て歩けば、汚れてしまうであろう。

 また、人々が貧困であれば、乞食をする事も適わないであろうし、仏道修行も後退してしまうであろうし、利益も広くないかもしれない。

 ただ、土地の風習を守って、普通に仏道を修行していれば、上と下の全ての人々は、自ら、捧げものを捧げてくれるであろうし、自身のために仏道修行して得た物で他者を教化する事も成就するであろう。

 このような事も、時機に臨んだら、折りに触れて、道理を思いはかって、人目を気にせず、自身への利益を忘れて、仏道のため、利益を生者達にもたらすために、善く成るように、はからうべきである。





 第二十九章


 道元は、僧達に示して、次のように、話した。


 仏道を学び修行している人は、世俗の感情を捨てるべき事について、重々、用心が有るべきである。

 世俗を捨て、家を捨て、身を捨て、(悪い)心を捨てるのである。

 よくよく、思いはかるべきなのである。

 世俗を逃れて、山や林に隠れ住んでも、自分の、代を重ねている代々の家を絶やさない事や、家門や親族の事を思ってしまう者も、いるのである。

 また、世俗を逃れ、家を捨てて、親族や、欲望の対象から遠ざかって離れても、自身を思いやってしまって、「苦しいであろう事はしない。病気が起こったら、仏道であっても、修行しない」と思ってしまうのも、未だ身を捨てていないのである。

 また、身を惜しまず、修行し難い事を修行して苦行しても、心を仏道に入れないで、「自分の心に違える事は、仏道であっても、しない」と思ってしまう者は、心を捨てていないのである。

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