4.約束
ぽつりと言ったトワに、首を横に振るのが精一杯だった。
分かっていたはずだった。トワがどんな想いを抱えながらこの場所に留まり続けているのか。でも今日思い知った。ユリャナが分かっていると思っていたことは、氷山の一角に過ぎなくて、トワ自身は想像もできないほど大きな葛藤と失意がごちゃ混ぜになった中にいて、それでも愛情と希望を見据えているのだと。
彼は狡いんじゃない。
人間が美しいばかりでなく、醜さと汚さを持ち合わせていることを深く知っているが故に、誰よりも思慮深くて、最悪の事態を回避するために自分の落としどころを決めているだけだ。そして何より、体や感情が先走ることを彼自身が許さず、常に崩れない理性で、彼自身が決めた落としどころからズレないことを成し得ている。彼の腕の包帯がその証左だ。
トワの確固たる覚悟を見たような気がして、ユリャナはそれ以上何も言えなかった。
トワに向かって最低な言葉を投げてしまった自分が情けなくて。でも泣くなんてみっともない真似は出来なくて、下を向いてしまった。トワはそんなユリャナにも優しかった。ぽん、と頭に乗ったあたたかな手のひら。何も言えずにいるユリャナにまるで、大丈夫だよ、というように何度も頭を撫でてくれた。
でも一つだけ聞いておきたかった。
「……トワは、」
「うん?」
「トワは、本当にそれでいいの?」
この世界の人々の平均寿命は約160年だ。滅亡に瀕した前の人間の平均寿命は80年だったとカイから聞いた。しかしその頃から倍になったとはいえ、トワにとっては瞬きに等しい時間だろう。見送ることが怖くないのだろうか。それならば、記憶を取り戻させる方が良い、とユリャナは思う。たとえ自分勝手だと言われようが、大事な人には傍にいてほしいから。
トワは息を零すように笑ってから、噛み締めるように言った。
「あの子が生きていてくれるなら、それでいいんだ」
その言葉にすべて込められているような気がして。
ユリャナはもう何も言えなかった。
***
「ただいま。水汲んできた」
「おかえり。寒かったろう? そこに置いておいて暖炉で先に温まって」
吹き付ける風に身を震わせながらバケツ二つ分の水を汲み終わって戻って来ると、二人はすでに左手にあるダイニングキッチンで茶を用意しているところだった。
水がないって言っていたのはなんなんだよ、と思いはするが、自分がいては話せないことがあるのも知っている。
トワとユリャナは、ノアがトワに出会う前からの仲であるし、何か大事な話をするときは決まってノアがいない時だ。出会ったばかりの頃に、二人が話している最中に入ってしまったことがある。ユリャナに凄い形相で睨まれながらトワにお使いを頼まれて、結局話を聞くことは出来なかった。
それ以来、二人で話したそうな時はなるべく遅く戻って来るようにしている。
今回の水汲みだって三分足らずで帰ってこれたけれど、わざとそれをしなかった。
トワのことは何でも知りたい。でもそれが己の我儘であることも分かっている。他人のことなんて別の人間である時点で、すべてを分かることなど不可能だ。相手が望んでいないのならなおさら。
でもいつかトワは話してくれると信じて、ノアは待っている。
とりあえず、とバケツをそのままにするのは忍びなくて、甕にバケツの水を足してから、暖炉の近くに置いてある丸椅子に腰かけたのだった。
ローテーブルに置かれた大きなティーポットとクッキーの乗った皿。それから人数分のティーカップ。緩やかな湯気を上げているカップを一つ持ちあげて口をつけると、ほのかに甘さの香る紅茶がじんわりと喉を下っていく。おいしい。
「そういえば、今回のユリャナの旅はどうだったの?」
「特に面白いことはなかったわ。北の方の国でクジラが浜に打ち上がったくらい」
「そうなんだ。凶兆じゃないと良いけど」
ゆるやかに談笑を始めた二人。その会話を聞きながら思う。クジラってどんな生き物なんだろう。ノアはクジラを見たことがなかった。トワの言葉から察するに、本来クジラは浜に打ち上がるようなものではなく、それが起こることは不吉なことだと思われることが多いということ。言葉の端で予測することしか、ノアには出来ない。
「なあ、クジラってどんなやつ?」
二人の会話を遮るのは良くないとは思ったが、好奇心には勝てなかった。ユリャナはぱちりと目を瞬いている。まさか話を遮ってくるとは。そう言いたいのかもしれない。
ノアの問いには、ゆったりとした口調でトワが応えてくれた。
「クジラは、海に生息する動物だ。人の何倍もの大きさがあるのもいる。彼らは海の中で生きていて、とても聡明で優しい子たちが多いよ。……ただ普通なら浜に打ち上がったりしないんだ」
「へ~、そうなんだ。トワは見たことある?」
「あるよ。といっても間近ではないけど」
賢くて優しい生き物。動物は言葉を話さないのに、どうしてトワはそれが分かるのだろう。でもそんな疑問も『まあトワだからな』で済んでしまう。トワが言うならそうなんだろう。そう思わせる力が、トワにはあるから。
「いつか見れるかな?」
トワは柔らかく微笑んでくれた。
「きっとね」
でもどうせ見るならトワとが良い。いつか一緒に見ることが出来るだろうか。孤児院から出たら誘ってみようかな。
そんなことを考えながら、緩んだ口元のままティーカップにまた口を付けた。そんな自分をユリャナがじっと見ていたのも気付かずに。
穏やかで大好きな時間はあっという間に流れていく。タイムリミットを告げる五つの鐘の音が、鼓膜を揺らす。内心溜息を吐きながら、ノアは立ち上がった。
「おれ、そろそろ帰らないと」
「ああ、そうだね。気を付けて帰るんだよ」
少しぐらい惜しんでくれたらいいのに、トワはいつも少しも引き留めようとはしてくれない。そのことにもじんわりと重くなった胸の奥を感じながら、ストールを手に取る。門限なんてあるわけがないユリャナはまたこのままトワの家に居座るのだろう。羨ましすぎるだろ、とノアが思ったのと、ユリャナが立ち上がったのは同時だった。
「私も今日はお暇するわ。街まで一緒に帰ってあげる」
「えっ」
そんな提案をしてきたのは初めてで、間抜けな声が出た。思わずトワを見ると彼も予想外だったのか、目を丸くしている。そんなトワに、ふふん、と笑ったユリャナは言った。
「心配しないで、トワ。この子はちゃんと私が責任持っておうちまで送り届けるわ」
「あ、ああ、うん。じゃあ、よろしくね、ユリャナ」
トワが珍しく動揺しているのが分かる。いつもなら見送ってくれるのに、目を瞬いてカップを手に持ったまま手を振ってくる。
この人のこういうとこ、めちゃくちゃかわいいよな。
他人事のように思っていたら、腕を取られて体が動き出す。
「じゃあね、トワ! また何か《《動き》》があったら寄るから!」
「お、おい!」
ろくに挨拶もできないまま、 体を引きずられるようにしてユリャナと共に外に出ることになった。
吹き付けてくる風は冷たい。なのにケロリとしているユリャナは、トワの家から少し離れると、立ち止まってぱっと手を離した。暗色が広がり始めた空の下でじっと見てくる青い瞳に、気まずさを覚えながらも一応聞いてみる。
「アンタ、そんな恰好で寒くないのか?」
この時期はほとんどの人間が外套を身に着けているのに、彼女は街の人が着ているものよりも少し高価そうな、凝った装飾のワンピース一枚に薄いストールを肩に巻いているだけだ。
「心配してくれるの? 優しいのね」
ちっともそうは思っていない刺々しい声だ。ふん、と鼻を鳴らしたユリャナは、さっさと歩き出した。一度だけトワの家の方を振り返る。見送りをしてくれるトワの姿はない。ふうっと息を吐いてから、ユリャナの背中を追う。
不意にユリャナが足を止めて振り返る。仁王立ちして鋭い光を宿した青が、ノアを射抜いてきた。
「一つ確認したいんだけど、いいかしら」
はぐらかしてはダメな気がして、うん、と頷く。探るような視線を感じた数秒後、すう、と小さく息を吸ったユリャナは言った。
「あなた、トワのこと本当に好きなの?」
「……どういう意味?」
本当に好き、の意味が分かりかねた。
人としてはもちろん好きだ。でもトワに対する好きはそれだけではない。
昔は違った。ただただきれいで純粋な好意だった。ただ一緒にいられることが嬉しくて、話を聞いてもらえるのが嬉しくて、トワの話を聞くのが好きだった。トワの優しい瞳が、自分に向けられることがしあわせで、それだけで十分だった。
でも今は、そんなものでは物足りない、と腹の底で喚く何かがある。一緒にいるだけでは物足りない。その腕を引いて、唇を奪ってしまいたいと思う。誰よりも大切に扱いたいと思うのに、時々ぐちゃぐちゃにしてしまいたいと思う自分がいることも知っている。
昔の『好き』が雪のように純白でやわらかいものだとするなら、今の『好き』は日陰に残ったままの泥濘のように黒く淀んで粘ついているものだ。
目の前のユリャナが指す『好き』は果たしてどちらだろう。
「世界かトワのどちらかを選べと言われた時、トワを選ぶか、という意味よ」
「当然トワを選ぶくらいトワが好きだよ」
間髪入れずに答える。
「本当に?」
「うん」
「トワが《《何者》》であっても?」
随分と含みのある言い方をするな、と思う。
でも、たとえトワが本当はトワという名前ではなくても、自分の知らない過去を持っていたとしても、トワが自分以外の誰かを好きだったとしても、トワの根幹が変わらないのであれば、ノアにとっては些細な事だ。
「構わない。それくらいおれは、トワが好きだから」
びゅう、とまた強い風が吹きつけて、一瞬ユリャナの顔が見えなくなった。風が弱まって、金の髪の隙間から見えた彼女は、今まで一度も見たことのない柔らかな笑みを浮かべていた。
「そう。その答えが聞けて良かったわ」
そう言うと、彼女はポケットの中から何かを取り出した。手を出しなさい、と言われるまま右手を差し出す。彼女の指先から手のひらに落とされたのは、小指の第一関節くらいの大きさの蒼玉だった。
「……これは?」
「持っていなさい。使い方はそのうち分かる時が来るわ。その時まで絶対に無くさないで」
茶化すような声ではなかった。時々ノアを咎めるトワのように柔らかななのに真剣な声だったように思えたから、孤児院のスペアキーが入っている小さなポーチへと入れた。
向き直ると彼女が左手の小指を差し出していた。
「ノア、お願いよ。トワを、絶対に独りにしないって約束して」
「ああ。約束する」
約束なんてしなくても一人にするつもりはないけれど、彼女を安心させるようにその小指に己の小指を絡ませた。ユリャナが満足げに笑ったから、ノアもまた笑ってその指を切ったのだ。




