3.来訪者
びゅうと吹き付けてきた海からの風に、ノアはぶるりと体を震わせた。
過ごしやすい季節はすぐに過ぎ去ってしまって、街の人たちの中でも外套を身に着ける人が増えてきた。かくいうノアも、最近の行き帰りは、羊毛で出来たストールを首から肩にかけて巻いている。
日暮れも早くなってきた。そのせいでトワにも、早めに帰りなよ、と促されるようになって、ノア的には面白くない。
足元にあった石をつま先で弱く蹴る。坂道になっているせいで、石は少しだけ地面を上ると、重力に逆らえずにノアの後ろへと転がっていった。
夕方は早く帰れと言われるなら少し早めに来てみようか、なんて考えてみたけれど、冬が始まると朝も起きにくくなるし、何より孤児院での仕事も手伝わなければいけない。
早いもので、ノアは孤児院の中でも年長で、あと二年もすれば孤児院を出ることになる年になった。去年までは姉のように慕っていた子がやっていた役割を、今度はノアが熟さなくてはいけない。下の子の面倒を見るのも、買い物を頼まれるのも、薪を割るのも基本的にはノアの仕事だ。ただ一目散にトワに会いに来る自由は、あと二年はお預け。
はぁ、と息を吐いて足を動かす。
そんな一年の中で最もトワに会える時間が少ないのが冬だ。
この季節が、物心ついた時からずっと嫌いだ。床がひやりとしているのも嫌だし、毛布にくるまっても体の芯が冷えているような気がして、なかなか寝付けない。肌寒くて淋しさが一層増す。自分の胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がして、温かいものを口にしても寒さが消えてくれない。
でも、トワといるときだけは底冷えするような寒さを忘れられた。昼寝だってすんなりと出来た。トワの家が特別暖炉の性能が良いとか、そんな物理的なことではない。トワの隣にいると、トワの話を聞いていると、ぽっかりと開いた穴がふさがるような気がするから。
他の誰でもダメなのだ。トワだけがその寒さを取り除いてくれる。
だからどんなに寒くても、遅くなっても、嵐が来ようとも、雪が降ろうとも、ノアはこの場所に足を運ぶ。子どもの頃みたいに起きてすぐに来ていた頃よりは、今日もだいぶ遅くなってしまった。といっても、まだ昼になった頃だけれど。
いつも通り、平屋の扉を三度ノックする。いつもならある返事がない。
冬になるとトワはよく居眠りをしているし、お昼時だから昼寝をしているんだろう。
「トワ、入るね」
声を掛けながら扉を開けると、ふわりと温かい空気がノアを包み込んだ。
右手側を見れば、暖炉の中で橙色の炎が揺れている。ぱち、と時折音を鳴らす薪はすでに小さくなっていた。トワがノアの為に部屋を暖めておいてくれたのだろう。思わず頬が緩む。
ノアが来る確信があるわけではないはずなのに、冬に訪れると必ず暖炉には炎が灯っている。
そういうトワの優しさが、好きだ。
いつもトワが腰かけているソファは空のまま。
窓際に置かれた花瓶には一輪だけの百合が飾られている。
いつも通りの光景なのに、トワだけがいない。
巻いていたストールを外してソファにかけながら、ノアはキッチンがある左側とは逆の、暖炉の方へと足を進める。
部屋の右手奥。半開きになったカーテンの隙間から、壁の一部を切り取ったみたいにくぼんだ部分と、そこに置かれたアイボリーのクッションが凹んでいるのが見えた。
足音を立てずに近付いて、そっとカーテンに手を掛けて、横へずらす。
「やっぱり寝てたんだ」
そこには予想通り、トワが猫みたいに体を丸くして眠っていた。寝息が聞こえないほど静かに眠るトワを初めて見た時、思わず飛びついて大きく揺さぶったことがある。顔を涙でぐしゃぐしゃにして泣いた自分を、彼は笑って優しく慰めてくれた。今となってはいい思い出だ。
今でも呼吸が止まっているんじゃないか、と思うくらい寝ている時のトワは静かだ。彼の体が呼吸に合わせて上下していなければ、最悪を考えて医者を呼んでいただろう。
音もなく枕元にしゃがんで、トワの顔を覗き込む。
髪と同じ色の睫毛が、肌に濃い影を落としている。睫毛に掛かった前髪が邪魔そうだ。そう思って、伸ばした手で耳の方へ流す。トワの耳に指先が僅かに触れた。
「ん……」
形の良い唇から漏れたトワの声に、どくりと心臓が大きく跳ねた。心臓はそのままうるさく鳴り響いてすこしも静まってくれない。耳元で聞こえる心臓の音を認識しながら、ぼんやりと考える。
今彼の唇に触れたら、どんな感触なんだろう。柔らかいのだろうか。
触れてみたい。
引き寄せられるように顔を近づけた。その時だった。
「人の寝込みを襲うなんてサイテーね」
聞き覚えのある女の声がいきなり上から降ってきて、あまりに驚いたノアは体を大きく揺らした。その衝撃でアルコーブベッドの土台にぶつけてしまった膝。凄い音と共に、骨に響くような痛み。あまりの痛さに蹲る。大きな音を立てたせいで目が覚めてしまったのか、んんー、と伸びをするようなトワの声も聞こえてきた。
蹲ったままのノアを放って、金髪の美しい女がトワに声を掛ける。
「ダメでしょ、無防備な寝顔なんて見せちゃ。悪い狼に食べられちゃうわよ、トワ」
「ふわぁ~あ。ユリャナ、いつの間に来たの? ……って、ノア、どうしたの? 蹲って」
寝起きで事態を飲み込めていないトワに、何でもない、と首を振ると、ノアの隣に来ていたユリャナに鼻で笑われた。
ウェーブのかかったたっぷりとした金髪に青い瞳を持つ容姿をした彼女――ユリャナは、ノアが小さな頃から年に二、三度トワの元を訪れる人だ。トワの髪を切る役目をいつもユリャナが担っていて、それを見たノアは決まって機嫌を損ねていたのは余談である。
さらに余談だが、このユリャナという女、気配がまるで感じられない時がある。
初めて彼女に会った時も、後ろから驚かされた。
気配に聡いとよく言われるのに、それでも気配を感じさせない彼女は一体何者なのだろう、と考えた時もあった。けれど、自分が何かしら集中している時に気付かないことが多いから、そのせいだと思うようにしている。
それにプラスして、彼女の印象は正直言ってあまり良くない。
何故だか知らないが、ユリャナは出会った当初からノアに対する当たりが強かった。
やれクソガキだの、やれ金魚のフンだの、やれ役立たずだの。
事あるごとにノアを罵ってくるのだ。そんな罵倒をされるたびに、トワが庇ってくれるのだけれど。
だからはっきり言って、ノアはユリャナのことが苦手だ。
どうして彼女の当たりはこんなに強いのか、とトワに聞けば、ユリャナは不器用なんだ、と困ったように笑っていた。因みにトワにとってはユリャナは、姉もしくは妹のような存在らしい。その答えに内心安堵していたのは、ノアだけの秘密である。
「そこの狼さん」
不意にそんな言葉を投げかけられて、顔を上げる。青い瞳がじっとこちらを見つめていた。敵意は感じられないけれど、気に喰わないのだろうな、とは思う光を放っている。
「水を汲んできてくれないかしら。バケツの水が空っぽなの」
「はいはい。行ってきますよっと」
ノアが立ち上がるのと同時、ユリャナが何かを投げて寄越してくる。それを落とすことなく受け取れば、毛で出来た手袋のようだった。
「貴方にあげるわ。ありがたく使いなさい」
「ふっ、ありがとうな」
漏れた笑みを隠さずに素直に礼を言えば、ふん、とかわいげのない声が返ってきた。それを一応照れ隠しだと受け取って、ノアはバケツを二つ持って外に出たのだった。
パタン、と扉が閉まった音の方を見ながら、腕を組んだユリャナは口を開いた。
「貴方も狡い人ね、トワ」
視線をトワへ向ければ、ベッドからちょうど立ち上がったところだった。口元に小さな笑みを浮かべながらトワは言う。
「何のことかな」
「とぼけないで。私に狸寝入りは通用しないって知ってるでしょう?」
「ふふ、そうだね。君の言う通り僕は狡いな」
怒りの片鱗すら見せずに、トワは肩を竦めて言った。彼のシャツから出た腕をちらりと見れば、包帯が巻いてある。それを見て見ぬふりをしてまた口を開く。
「どうしてあの子を止めなかったの?」
詰るような口調である自覚はある。でもあまりにも二人がじれったいことに一因があるのだ。
トワがどんな気持ちでノアが近くにいることを許しているかは、分かっているつもりだ。でもあんな思わせぶりな態度を取るのなら、その手を取ってあげたらいいのに、と思う。現に、ノアはトワのことを世界の何より好き――そう言っていたのを昔聞いたし、態度ですぐに分かる――なのだし、トワも満更ではないのだろう。キスされそうになって拒否する素振りを全く見せないで、されてもいい、と受け入れているように見えたから。
トワは漏らすように笑った。
「いい思い出になると思ったから」
「あの子にとって?」
「いいや、僕にとって、だよ」
だったらどうして、と思う。
「でも貴方は、あの子の気持ちに応える気はないんでしょう?」
これは随分前にトワ自身から聞いたことだ。
あんなに懐いていて貴方のことが好きだって態度に出しているのだから、受け入れてあげてもいいんじゃない? と言ったユリャナに、トワははっきり、彼の気持ちに応えるつもりはない、と言った。人の感情に聡いトワがノアの気持ちに気付いていることは、確信はなかったけれどそうだろうとは思っていた。でも両想いであるように見えるのに、どうして答えないのか分からない。
「でもどうして応えてあげないの? あの子は元々私と同じ『始祖返り』でしょ? なら、」
「ユリャナ」
トワにしては珍しい硬い声が、言葉を遮った。ユリャナを見つめる朽葉色の瞳が、咎めるような光を帯びている。
「あの子は《《ノアール》》じゃない。ましてや《《私》》が知っている『ノア』でもないんだ」
「それは記憶の有無の話でしょう? 器は同じよ」
「記憶や経験がそのひととなりを決めるんだ。たとえ器が同じだったとしても」
確かに彼の言い分は正しい。記憶や意思がなければ、器に人間性は宿らない。でも彼は一つ嘘を吐いている。どうしてそこまで。滲んだ怒りの所為で、組んだままの腕に指先が食い込む。
「記憶を与える方法を、貴方は知っているのに?」
鋭く指摘すれば、トワは観念するように小さく笑った。
「そこまで知ってるなんて。カイに聞いたのかな」
「どうして最初からそうしてあげなかったの?」
ますます分からなかった。ノアに出会った時に、それを施せばよかったはずだ。そうしたらこんな状況になっていないし、ノアだってその方が良いというはずなのに。
でもトワは首を横に振った。
「それは私の都合で、あの子は何の関係もない事だ」
「関係なくないわ。だって最初の引き金を引いたのはあの子自身だもの」
「さっきも言っただろう? あの子はノアールじゃない。ノアールが残した私という負債を、あの子の人生に着せる必要はないんだ」
負債なんて。そんな悲しいことを言わないでほしい。トワ、否、リシャールが負債なんてあり得ない。リシャールは本当に無害で心底優しい人だ。それが彼の暗い過去に関係している一因があるかもしれなくても、彼の所為じゃない。誰が聞いてもきっとそう答える。だからリシャールと関わっても幸福は得ようとも、不幸になる事なんて絶対にあり得ないのに。
「――なんてね。尤もらしいことを言ってみたけど、本当は違うんだ」
何も言えずにいたユリャナにトワは明るく言った。それは空元気のようでもあったし、彼が彼自身を嘲っているようにも聞こえた。
「あの子が好いてくれるのも、会えるのも嬉しい。昔は見ることができなかった《《彼ら》》の子どもらしいところを、あの子は見せてくれるから。でもあの子の想いに触れるたびに思う。もしも私がノアールの手を取らなかったら、こんなことにはなっていないんじゃないかって」
下を向いたトワの顔は、彼の長い前髪で見えなくなった。口元は笑っているのに、涙の一つも見えていないのに、ユリャナにはトワが泣いているように見えた。
そんなことはない、と言わなかったのは、ユリャナが当事者ではないから。
彼らが過去にその決断をした時、ユリャナはその場にいなかった。口を出していいのは、ノアールとトワだけだと知っていたから。
「実のところ、ただ私が怖いだけなんだ。大事な人を失いたくないのも、あの子の人生を私の所為で滅茶苦茶にしたくないのも。記憶を取り戻すことが、災厄を招くくらいならあの子は何も知らなくていい。何も知らずに、人間として何気ない毎日を送って、何者にも煩わされないで、人生を終えてほしいんだ」
顔を上げたトワは、優しい笑みを浮かべていた。すべて諦めたようでいて、それでも愛おしさが漏れだしたような笑みだった。
ユリャナは何も言えずに、下を向いた。
どうして好き合っている者同士が、誰かに、何かに邪魔されなければならないのだろう。トワやあの子を煩わせているすべてを取り除けるような力があったらいいのにと思う。でも無理だ。トワの方がずっと長い時を生きていて、ユリャナよりもずっと賢い人なのに、そんな人がこんなことをいうのだから。
「やっぱり、僕は狡いね」




