13.回帰
トワが泣いている。
涙は出ていなくても、悲しんでいるのが分かる。また自分を責めてしまうんだろう。トワは本当に優しい人だから。おれが勝手にやったことなのに、自分を責めて背負ってしまう人だから。
泣かないで、いとおしい人。おれはあんたに何されたって構わないから。でもできることなら、あんたの眷属にしてほしい。一緒にいられるなら、なんだっていいから。
そう伝えたいのに、もう霞んでしまった視界。
ぼやけてどこか遠くに聞こえる声。遠のいていく感覚。
このまま死んでしまうのなら、今度はトワやユリャナと同じ不老不死を持つ者として生まれたい。そうしたら、トワを見つけて、トワの傍で生きていきたい。
ふいに、あたたかさが口の中に広がった。
一体なんだろう。そんなことを思いながら、それを味わうようにゆっくりと嚥下する。鉄の臭いがする。血をたくさん流したからだろうか。でもどこか甘くも感じた。こく、こく、と勝手に喉が温かさを飲み干していく。
じわりと、腹の底に熱が帯びる。刹那、全身にその熱が駆け巡る。それが脳に届いて、脳の奥の何かが、鋭い光とともに弾け飛んだ。
実際にそうなったのかは定かじゃない。少なくともノアはそう感じた。
蘇っていく感覚。それが五感だけではないと、すぐに気が付いた。
嗚呼、そうだ。俺は。
俺は『ただのノア』なんかじゃなかった。
十八年前のあの日、トワをリシルに置いていったのは、俺だ。
死を逃れるために、記憶を代償に『ただのノア』になることを選択した『ノアール』だ。
その確信を裏付けるように、かつての記憶が鮮やかに脳裏にかけていく。
物心ついた頃から、ノアールには自分ではない別の記憶があった。
始祖時代のノアの記憶だ。
彼と自分を混同しなかったのか、と聞かれたら、勿論しなかった、と答える。始祖のノアは自分とは全く違い、自由そのものだったから。バベル家なんていう古い家の仕来りに縛られることもなく、自由気ままに暮らしている男が、どうして自分と同じに思えるだろうか。
ノアールは家でも外でも自由に振舞うことは許されなかった。バベル家当主になるために、色んな知識を叩きこまれた。それに嫌気がさすのは早かったけれど、幸いだったのは記憶の中で自由を謳歌している自分のような自分ではない人がいたことだ。
羨ましいと思う以上に、その記憶があってよかったと思っている。
彼の記憶は、凝り固まった常識も偏見も簡単に覆してくれた。
金なんて大したことはない、狭い世界で閉じ籠るな、もっと色んな人間がいる、家柄なんて捨ててしまえば自由な世界がある、自由な生き方ができる、と教えてくれた。
自分が当主になった瞬間に、復讐を兼ねて家出するのも良いな、なんて思っていた。
十五歳になるまでは。
「――え?」
耳を疑ってしまったのは、父が得意げにクソみたいな事を言ったからだ。
「我々が豊かな理由は、始祖のリシャールを我がバベル家で管理しているから、と言ったんだ」
食事の最中だった。
現当主は書類上ノアールの父親ではあったが、金に目がない代わりに家族には全く関心がなかった。父親だと思っていた人は、血の繋がらない赤の他人かもしれないと思ったのは、自分が父にも母にも似ていなかったから。それに母は大の男好きだった。バベル家の取引先の若い男を引っ掛けては、色事に精を出していた。
それに気付いていたのか気付いていなかったのかは、知らないしどうでも良いことだ。
そんな父が、そろそろお前も次期当主としての云云かんぬん、と食事中に語り出すのは、珍しいことではない。
しかし、始祖を管理している、などという不愉快な真実を自慢げに語ることは、ノアールに全霊の嫌悪感を抱かせた。しかも、その名はノアールにとって赤の他人ではなかったから。
始祖のリシャール。
有している記憶によく登場するヒトだった。
青みがかった黒髪に赤銅色の瞳を持つ、柔らかな雰囲気のヒト。始祖のノアが怪我をすると、決まって彼が治してくれていた。バカにつける薬はないんだよこの大バカやろう、と軽口を叩きながらも血を分けてくれていたリシャールに、始祖のノアはひそかに恋をしていた。それは本人には語られなかった、拙くて叶わなかった初恋だったけれど。
いやそんなことは今はどうでもいい。
重要なのは、リシャールが本当にこの屋敷内にいるのか、ということだった。
「父上、ボクもその始祖の方に会ってみたいです」
思えばこれが初めての意思表示だった。
父は意外そうに眉を上げてから、健康的で腹立たしい顔を愉悦に歪めて言った。
「お前が十八になったら会わせる決まりだ」
「? 何故ですか?」
年齢に決まりがあるのが何故なのか。その理由を父は面白そうに語った。
「始祖のリシャールは大層美しいバケモノだからな。当主になる者が誘惑されないように、許嫁が決まってから会わせる決まりになっている」
吐き気を催すような理由だ。そんな決まりがあるということは、過去に彼を襲いかけたケダモノがいたのだろうか。そう勘ぐってしまう。そもそも始祖をバケモノ呼ばわりしていることが、さらに嫌悪感を倍増させた。
食事の味が、泥のように感じるには十分すぎた。
彼のことを一度も父と思ったことはなかったが、この時からそれがさらに加速したように思う。さっさと死んでしまえ、と思うくらいには嫌いな人間だった。
自分の異常な程の身体能力に気付いたのも、この頃だ。
自分の能力を制御するのは簡単だったが、自分の本来の力を出せないのは窮屈そのものだった。それが余計に始祖のリシャールに会いたい、という気持ちを加速させた。
ついにノアールが十八歳になった日。
政治家の娘が許嫁に決まったと告げられたのと同時に、ノアールは父に連れられて、屋敷の一角に備え付けられた何重もの鍵を掛けられる部屋を訪れた。最後の鍵を開けた父は、三度ノックをして、言った。
「リシャール様、入りますね」
父の猫撫で声に反応はない。それに気にすることもなく扉を開けた父に続いて、ノアールも足を踏み入れた。
そこは、病的な白に囲まれていた。
ベッドもソファも備え付けられているのに、全く生活感がない。そんな中でリシャールは窓際に腰掛けて、窓の外を見ていた。服すら自由がないのか、部屋と同じ白の寝衣を着ていて、その腕には何本もの管が繋がっている。
痛々しさすら感じるその光景。顔が僅かに歪んだ。
それなのに父は何も感じないのか、つかつかとリシャールに歩み寄った。
「次期当主を紹介に参りました」
恭しく腰を曲げた父に、リシャールの視線がやっと窓からこちらに向いた。無表情で興味なさそうに父を見た後、流れてきた赤銅色の瞳。目が合った途端、心臓が高鳴った。食い入るように見ていたが故に、僅かに赤銅色の瞳が揺れたのをノアールは見逃さなかった。
ぺらぺらと口を動かす父は、全く気付いていないだろう。
リシャールの肩がほんの少しだけ震えたのも、彼の膝に置かれた指先に動揺が走ったのも。
嗚呼、と唐突に理解した。
きっと俺はこの人を助け出すためにこの家に生まれてきたんだ、と。
父を適当な理由で部屋から追い出して音を立てて閉まった扉を見つめてから、リシャールへと向き直る。
目が合うと、リシャールは逃げるように外に目を向けてしまった。彼の指先に視線を向ける。寝衣と殆ど変わらない色をした手が、布を強く握り締めていた。
すこしだけ距離を詰める。どくどく、といつもよりも高鳴る心臓。
始祖のノアがリシャールを好きになった理由も分かる気がする。それほどに、彼は美しいひとだった。顔だけではない。纏う空気が洗練されていると言えばいいのか、どうしても惹かれてしまう。
静かに息を吸ってから、口を開いた。
「貴方はもう、俺の正体にお気付きですよね」
ばっと向けられた赤銅色に、悪戯っぽく笑った。リシャールは目を丸くしていて、それでもその瞳に嫌悪感はないように見えた。威圧感を与えないように膝を折って、彼を見上げる。
「初めまして、リシャール。俺はノアールです。貴方に逢えて、本当に嬉しい」
握手を求めるように、差し出した手。
ふっ、と笑みを零したリシャールは、その手を強く握り返してくれたのだ。
この瞬間に、ノアールの心は決まった。
リシャールを必ずここから逃がして、自分もここから逃げると。
実行する為に必要なものを揃えるのは、簡単ではなかった。しかし合間を見てリシャールに会いに行けば、その疲れなんてすぐに吹き飛んだ。
無表情だったリシャールの顔は、回数を重ねるほど色んな表情を見せてくれた。ときどき子どものように拗ねたり、口元を隠すように笑ったり、恥ずかしそうにしたり。
そのどれもが愛おしかった。すぐにでもここから出してやりたかった。
月の光に当たると髪と目の色が変わることを教えてくれたのは、リシャールだ。だったら、新月の夜に決行しなければいけない。リシャールはすでに心を許してくれているし、早ければ早いほど良い。もう待てなかったのは、ノアールの方だった。
もう誰にも、リシャールを傷付けさせない。
そんな意志と共に手を差し出した。
「リシャール、貴方を必ず守るって誓う。だから俺と一緒に逃げよう」
赤銅色の瞳に、戸惑いと共に煌めく希望を見た。おずおずと掴まれた手。
絶対に離さない。そう強く思った。
二人で飛び出した世界は、想像以上輝いていた。
上手く追手を撒いて、色んな国を回った。月光で姿が変わるのにリシャールは月光浴が好きだったから、よく二人で誰もいない真夜中に草原に寝そべった。
リシャールという名前を変えようと言ったのは、ノアールだ。
それは彼が始祖であると勘付かせないのも目的だったけれど、独占欲の方が強かった。始祖のノアが大切そうに呼んでいた名前ではなく、自分だけの名前で呼びたかった。永遠を意味する異国の言葉の『トワ』なんてどう、と言えば彼は気に入ってくれた。ノアという音に近いから、という理由もあることは未だに秘密だ。
どうして一緒に逃げてくれたの、と聞いてきた時、貴方が好きだから、と臆面なく告げると、顔を真っ赤にしてくれた。その思いを返してくれたのは、それから数日も経たない時だった。
恋人らしいことも沢山した。トワが許してくれたことは、全部した。キスもセックスも、食事代わりの血液交換も全部。
自分でも引いてしまうほど、トワが好きだった。
他の誰にも渡したくない。自分だけのものでいてほしい。
蓋を開けてみれば、これはただの独占欲と執着だろう。
そんな胸裏を見破っていたユリャナが、嫌そうな顔をするのは当然のことだったが、トワが幸せならまあ良いけど、と彼女は言っていた。そして彼女は教えてくれた。トワが安心して暮らせる場所は、リシル市国だと思う、と。
彼女の助言通りにリシルに打診をすれば、リシャール様だと証明できるものを送れ、と言われた。彼らに本物か判別できるかは不明だったが、拇印を送ると一週間ほどで入国が許された。
トワが安全にリシルで暮らすために、やらなければならないこと。
それは、バベル家一族を根絶やしにすることだ。彼らは手段を選ばない。ダーマ国と一体になってリシルに攻め入ってくる可能性だってある。そんな可能性は、自分が潰さなければいけない。
トワのすべてが愛おしいから。彼のすべてを守りたかった。彼が安心して暮らせる場所を与えてあげたかった。脅かすものはすべて自らの手で排除したかった。始祖の力を持っていることに、これほど感謝したことはない。現に排除する力を、ノアールは有していた。
一種の使命感だった。
トワには先にリシルに行くように告げた。離れがたかったけれど、それ以上に魔の手がトワに伸びるのが嫌だったから。
すべては、自分の願いを叶えるためだった。
死にかけたのは、自分のしくじりだ。
だから、トワが気に病む必要なんてなかったのに。それを背負わせて、挙句の果てに――。
緩やかに瞼を開いていく。
ぽつ、ぽつ、と肌に降り注ぐ雫がトワの涙だと気付いて、柔らかな笑みが零れた。好きで堪らない人が、涙を落として自分を見ていた。ずっと変わらない青みがかった黒髪と、赤銅色の瞳。夜目が効く瞳のおかげでよく見える。始祖返りでよかった。
随分と待たせてしまった。記憶を失ったノアールの傍に、それでもトワはいてくれた。穏やかな時を刻みながら、想いを強引にぶつけることもなく、ただ慈しんで、傍にいてくれた。
そんな彼に贈る言葉は、これしかない。
「――トワ、ただいま」
伸ばした手で彼の頬に触れる。ぼろぼろと涙を落とした彼は、ばか、と潤んだ声で罵ってから、やっと笑ってくれた。
「おかえり、ノアール」
伸ばした手でその華奢な体を抱き寄せて、力の限り抱き締めた。
長い間待たせてごめん。待っててくれて、ありがとう。
そんな気持ちを込めて。




