第三章:命の声を辿る者たち
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『レジオニスタ』第3章では、命の“沈黙”の中にある“声”を探し出す物語が描かれます。
AIにも、モニターにも、はっきりとは現れない違和感。
それでも命は、確かに“何か”を伝えようとしている――
CE(臨床工学技士)たちの静かで鋭い判断と、命との対話のような現場を、
ぜひその“鼓動”に耳を澄ませながらお楽しみください。
御影凌真は、その患者を“ログの波形”で初めて知った。
ある市立病院からの転院予定患者──12歳の少女。
原因不明の代謝異常により、意識レベルが急降下し、
すでに3つの病院で対応不能と判断されていた。
「状態、かなり悪いです。既に人工呼吸器・血液浄化導入済み。
でも、ECMOや脳保護が必要かもしれません」
そう報告した綾乃の表情は硬かった。
画面に映し出された少女の生体ログは、
一見、それは単なる多臓器不全(命の危機的状況)の経過のように見えた。
だが──凌真の目は、すぐに“そこじゃない何か”に気づいていた。
(これは、ただの障害連鎖じゃない。
この命には、“静かに抗っているリズム”がある)
心拍の微細なばらつき。
血圧変動と同期しない酸素飽和度。
そして、脳波らしき変動信号の一部──
「…………彼女、生きようとしてる」
その言葉に、綾乃が驚いた顔を向けた。
「え?」
「波形の乱れじゃない。“揺らぎ”が、パターンを持ってる。
自律神経が完全に壊れてない。…………というか、“生きる形で崩れてる”んだ」
「…………それって、どういうことですか?」
「通常、崩れは“無秩序”になる。
でもこれは、“規則的な乱れ”なんだよ。本人の命が、“何かを探してる”波形」
搬送当日。
ICUの準備は万全だった。
芹沢が人工呼吸器側のセットアップを進め、岬はECG信号をモニターに組み込む。
源太は血液濾過装置を再調整し、必要なら血漿交換も視野に入れていた。
「チームCE、全員配置完了」
綾乃が声をかける。
御影は深くうなずきながら言った。
「これは、俺たちの“感性”の勝負になる。
数字やAIじゃなく、“感じて、繋ぐ”ことが必要なケースだ」
ストレッチャーが運び込まれる。
その上の小さな体に、誰もが一瞬だけ言葉を失った。
顔色は蒼白で、全身が管に覆われていた。
だが、微かに動いたまぶたの下に──確かな意志の火が、まだ残っていた。
御影の中に、静かに何かが灯った。
(…………君は、まだ生きてる。
なら俺たちは、“君の命の設計図”を、もう一度描いてみせる)
「血液ガス、pH7.21、BEマイナス11.2、乳酸上昇…………。(血液が酸性に傾き、命に関わる可能性もある)
だけど、循環不全っていうほどではない。奇妙なパターンです」
搬送直後の検査結果を見ながら、綾乃が眉をひそめる。
「腎機能は低下してるけど、出血傾向もないし、肝酵素もそこまで高くない」
「代謝性アシドーシス(血液の酸性化)の所見だけが、まるで浮いているように見える。
ただの多臓器不全なら、他の所見も一緒に崩れるはずだ」
御影は、モニターに映し出された複数のグラフをにらんだ。
バイタル、血液、電解質、ECG、脳波。
どの波形も、見た目には“問題の兆し”が少ない。
だが、それぞれがどこか、“微かにズレて”いた。
「この子…………体の“システム”同士が、会話できてないんじゃないか?」
「は?」
綾乃が目を見開く。
「命って、臓器が“同時に”じゃなく、“連携して”動くことで保たれる。
でも今の状態は、心臓も肝臓も肺も“勝手に動いてる”。
まるで、“仲が悪い”チームみたいに」
「…………そんなことが、あるんですか?」
「あるとすれば、神経伝達か、ホルモンの異常。
でも検査値は“正常範囲”…………AIは異常なしと判定してる」
「だったら──“異常”がAIの範囲外ってこと?」
凌真は小さくうなずいた。
「AIは“教えられた異常”しか知らない。
でもこの子の中では、“未知の生理”が始まってるのかもしれない」
そのとき、芹沢が呼吸器データを見ながらつぶやいた。
「おかしい。気道圧、変動が多すぎる。
あえて機械に逆らってるみたいな呼吸になってる」
「自主呼吸じゃないのか?」
「いや、意識レベル的にそれはあり得ない。
…………でもな、肺が“記憶で動いてる”みたいな反応してるんだよ」
岬がモニターに目を走らせる。
「心電図もそう。変動は微弱だけど、
“意図的に波形を調整してるようなリズム”に見える」
「…………それって、どういうこと?」
「もしかしたら、この子の命そのものが、“体を再教育しようとしてる”のかもな」
沈黙が落ちる。
それは、あり得ない仮説。
だが、いま目の前で起きていることは、既存の医学知識では説明できなかった。
御影は、一歩前に出て少女の胸に手を添えた。
呼吸、心拍、体温、血流。
すべてが“かろうじて繋がっている”。
でも、そこには確かに――“学ぼうとする命”の気配があった。
「…………この子、たぶん俺たちより賢いよ」
御影のつぶやきに、誰も返事をしなかった。
ただ、その言葉が冗談でないことだけは、全員が理解していた。
「じゃあ、こういうのはどうだ?」
芹沢が呼吸器の設定メニューを操作しながら言った。
「通常の換気モードじゃなくて、“変化に富んだ呼吸刺激”をあえて与えてみる。
同じテンポじゃなく、リズムをズラしていくんだ」
「…………目的は?」
「この子の肺に、“呼吸とはこういうものだよ”って再学習させる。
つまり、肺への“呼吸リハビリ”」
凌真が目を細める。
「機械が命に“教える”ってことか」
「いや、“命が教え返してくるか”の確認でもある」
その言葉に、誰もが静かにうなずいた。
岬も、自分の分野での“試み”を始めていた。
「心拍リズム、通常の観察じゃ足りない。
身体の“外から見えない波”を読み取るために、ノイズをあえて取り除かない」
「ノイズを?」
「そう。心電図上の微細な揺れ。普通なら“誤差”として処理される信号群の中に、
“命がもがく瞬間”が現れる可能性がある」
岬は特殊なフィルタリング装置を導入し、
波形の“うねり”を再構築するような観測モードを起動させた。
画面に、通常では見えない微細な波形が浮かび上がる。
「…………これは?」
「“迷い”だよ。心臓が迷いながらリズムを探してる」
「命が…………自分のテンポを“探し直してる”?」
「そうだ。これは、命が“自ら正解を導こうとしている波形”だ」
源太は、血液側からのアプローチを選んだ。
「代謝異常ってのはな、“数値”で見ると見落とす。
でも血液の“感触”は、正直なんだ」
彼はラインを少しずつ切り替えながら、
患者の血液が“どの構成で安定するか”を探る“バイオ・ダイヤログ”を開始した。
「ポンプの音、ちょっと軽くなったな」
「…………粘度、下がってる?体液調整がハマってきたか」
「たぶんこの子、特定の温度と浸透圧でしか“本来の自分”に戻れないんだよ」
「まるで、“命の最適環境”を自分で選ぼうとしてるような」
「それを、俺たちは“手探りで探してる”んだよな」
CEルームの空気は、張り詰めていた。
命を相手に、“正解のない再設計”に取り組む者たちの静かな覚悟が、そこにあった。
御影は、少女のログを見つめながら言った。
「この子の命は、“考えてる”。
だったら、俺たちはそれに“答える”しかない」
その言葉は、指示ではなかった。
決意だった。
「ねえ、あの人…………お医者さんじゃないの?」
ガラス越しの面会室で、少女の姉がそうつぶやいた。
中学生らしきその姉は、妹の体につながれた何本もの管を見つめながら、
病室の隅で動き続ける男たちに目を留めていた。
白衣でもない。聴診器もない。
でも、その手つきは、どこまでも“命に触れていた”。
「お医者さんじゃないよ。たぶん“技士さん”っていう人たち」
母親が控えめに答える。
「でもね、さっき先生が言ってた。
“あの人たちが、命の奥を見ている”って」
その頃、医師たちの間でも、静かな“異変”が起きていた。
少女の容態は依然として重篤だったが、
予測不能だった数値の変動が、ある法則性をもって安定し始めていた。
「これは…………何をしたんです?」
主治医の声に、綾乃が少し間を置いて答えた。
「…………再設計、です。命のパラメータを、ひとつずつ“本人に合わせて調整してる”んです」
「AIのテンプレじゃなく、“命ごとの仕様書”を作ってるってことか…………」
「はい。この子は、数値だけで管理される命じゃなかった。
“自分で修復しようとする命”だったんです」
その言葉に、医師が小さくうなずく。
「…………君たちがやってること、もっと知られていいはずなのにな」
「そう思います。でも、“知られないままの仕事”って、けっこう誇りなんですよ」
その瞬間、綾乃の背後にいた御影がふとつぶやいた。
「いや。“知られないこと”に甘えてきたのは、俺たちかもしれない」
綾乃が振り向く。
御影の目は、少女の波形を見つめたまま、動かなかった。
「見えない仕事、影の職種──そう言われてきた。でも、それじゃもう、足りない。
命が“答えを探している”なら、それに“応えた者たち”にも名前が必要だ」
沈黙が落ちた。
だがそれは、居心地のいい静けさではなかった。
何かが動き出す前の、確かな“息をひそめた鼓動”だった。
少女の脳波に、初めて“覚醒の兆し”が現れたのは、その数時間後のことだった。
「脳波、出ました!」
綾乃の声が、沈黙を破った。
モニターに映し出された波形は、確かに“反応”を示していた。
鋭くもなく、派手でもない。
ただ、生きようとする命のゆらぎが、そこにあった。
「応答刺激に対する位相変化、明確です。
自律反応も出てます…………これは、意識の“予兆”です」
芹沢が頷いた。
「呼吸も少し自律に寄ってる。
今なら人工呼吸器のサポート、減らせるかもしれない」
源太がポンプの音に耳を澄ませた。
「血液の動きも軽くなってきてる。“命の圧”が戻ってきてる感じだ」
岬も、ECG(心電図)波形を見つめたままつぶやいた。
「“迷い”がなくなってきてる。リズムが、自分で決めたテンポになってる」
御影は何も言わなかった。
ただ、少女の胸が、わずかに上下している様子を見つめていた。
機械が動かしているのではない。
これは、彼女自身の“再起動”だった。
ICUの外、家族のもとに連絡が届いたのは、それからまもなくのことだった。
「わずかに、目を開けました。意識反応があります」
医師の言葉に、母と姉が泣き崩れる。
そして、その向こう側で、
手術着のままカルテに何かを記す技士たちの姿が、ふと視界に入る。
誰にも拍手されるわけではない。
名前が記録に残るわけでもない。
けれど彼らは、確かに“命のど真ん中”で戦っていた。
その夜。
CEルームは、静かな疲労感に包まれていた。
「…………救えたな」
源太が低くつぶやく。
「まだ経過観察だけど、手ごたえはある」
芹沢がコーヒーをすすりながら言った。
「でもさ、これって、俺たち以外には“奇跡”に見えてんだろうな」
岬がつぶやく。
「…………いいじゃない。“奇跡”って呼ばれるくらいのことを、
俺たちは“技術”でやったってことだ」
御影が、ようやく口を開いた。
「たしかに、“技士”って呼ばれるのに慣れすぎてたかもな。
でも今日みたいなケースを見ると、思うんだ。
“俺たちは、もっと“誰か”であっていい”って」
綾乃が笑った。
「誰か、って?」
「命に“名もなき記憶”を刻んだ者たち──
それが、“レジオニスタ”ってやつじゃないかって」
誰も言葉を返さなかった。
でも、その場にいた全員が、
今日の自分たちの仕事が“沈黙ではなかった”ことを知っていた。
数日後、少女は自発呼吸を完全に取り戻し、
呼吸器からの離脱が行われた。
まだ言葉は話せない。
目の動きも、ほんのわずか。
それでも彼女の存在は、確かに“ここに戻ってきた”と、誰もが感じていた。
「…………よく、帰ってきてくれたな」
御影は、ベッドサイドに立ち、少女の細い指をそっと握る。
その瞬間、小さく、だが確かに指先が動いた。
返事のように。
言葉ではない。
音でもない。
でも、命と命が繋がった確かな“合図”だった。
「人工呼吸器ログ、全データ保存済み」
「血液浄化の設定記録もバックアップ完了」
「心電図変動データ、特殊波形タグ付けして保管しました」
CEルームでは、チームが淡々と“証拠”をまとめていた。
それは、誰かに見せるための報告ではなかった。
未来の誰かの命を救う、“静かな記録”だった。
その夜、ホワイトボードに一枚の紙が貼られていた。
タイトルにはこう書かれていた。
《レジオニスタ作戦報告書 No.002》
— Case:少女・R/再起動支援プラン完了 —
綾乃が笑った。
「誰ですか? こんな名前つけたの」
源太が肩をすくめる。
「さあな。けど、悪くねぇ」
「記録だけじゃなく、“名前”をつけるって、なんかいいですね」
「ただの仕事じゃなくて、“任務”だったって感じがする」
御影はホワイトボードを見つめながら、静かに言った。
「これからも、たぶん俺たちは表に出ない。
それでも、命の奥に手を伸ばして、繋いでいく。
それが“レジオニスタ”の役割なんだと思う」
芹沢が最後に一言だけ、呟いた。
「沈黙の中にいながら、記憶に残る――
それが、一番かっこいいってことかもな」
誰もが、静かにうなずいた。
翌朝、病室に見舞いに来た少女の姉は、
ベッドの横に置かれた一枚のメモを見つけた。
それには、こう書かれていた。
“ここまで来れたのは、君が“学び続けた命”だったからだ。”
――Legionista
姉はその言葉を読みながら、小さくつぶやいた。
「…………“レジオニスタ”って、誰なんだろうね」
少女の瞼が、ほんの少し揺れた。
それはきっと、彼女だけが知っている、命からの答えだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この章では、数値や装置だけでは読み切れない命の“余白”に、
CEたちがどう立ち向かうかを描きました。
「技術」ではなく、「感性」こそが命に触れる瞬間がある。
その時、誰が気づき、誰が責任を持つのか――。
命の最前線で静かに戦う“レジオニスタ”たちの矜持を、少しでも感じていただけたなら幸いです。