第二章:機械が語らない命
『レジオニスタ』第2章にお越しいただきありがとうございます。
今回の章では、「数値に異常がないのに、なぜか命が揺れている」。
そんな直感的な違和感に気づけるか――臨床工学技士としての判断が問われます。
感性と責任、その狭間で揺れる命の“沈黙”に、耳を澄ませる者たちの物語です。
機械の向こうにある命の声を、ぜひ一緒に感じていただけたら嬉しいです。
ICUの朝は、機械音の合奏から始まる。
吸引音。血液ポンプの回転音。人工呼吸器の吐息のようなリズム。
そのすべてが、「今日も生きている」という確かな音だった。
御影凌真は、無言でモニターを確認し、ゆっくりとECMO装置のカバーを開ける。
昨晩から接続中の患者は、70代の男性。
急性心筋梗塞からの心原性ショック。夜間に緊急導入されたECMOだ。
数値は、整っている。
回路圧も、酸素化も、流量も。すべては“仕様どおり”に動いている。
だが、彼の中にわずかな違和感が生まれていた。
(この数値、本当に“正常”か?)
“正常”という言葉は、AIにとっては平均値の範囲でしかない。
でも、人間の身体は、そんなにシンプルじゃない。
ときに、数字が安定していても、命のバランスは音もなく崩れ始めている。
綾乃が近づいてくる。
「御影さん。昨日の症例、評価高かったですよ。
医長が“AI以上の判断だった”って」
「…………俺がすごいんじゃない。
“あの子の身体”が、俺に伝えてくれただけです」
「それを“聴ける”のが御影さんなんです」
綾乃はそう言って笑ったが、凌真の表情は変わらなかった。
午前10時、患者の家族が面会に訪れた。
ガラス越しに見るその姿は、肩をすくめ、足元が定まらない。
孫娘らしき少女が付き添っている。
彼女は、祖父の手にそっと触れた。
それだけの、静かな時間。
その数分後、凌真は再び装置前に戻った。
何かが変わった――そう感じたからだ。
モニターの数値は変わっていない。
でも、流れる血液の“質感”が、少しだけ違う気がした。
(こんなことで、判断していいのか?)
“技士”としては、数値だけで動くべきなのかもしれない。
だが、“命を扱う人間”として――
数字の外側を見ようとすることは、傲慢なのだろうか?
その問いが、胸の奥で渦巻いていた。
そのとき、アラーム音が響いた。
「SAT低下。SpO₂ 87%。MAP(平均動脈圧)65以下!」
看護師が駆け寄り、医師が手配を開始する。
凌真は、すでにECMOの回路へ手を伸ばしていた。
バイパスラインの圧、遠心ポンプの微細な振動。
全身を通じて、装置と“会話”するように動き始めていた。
(やっぱりだ。この血の流れ、“機械”のリズムじゃない。
患者自身が、“抗ってる”)
「綾乃!チームCE、呼んでくれ!」
「えっ、でもAI判定では──」
「いいから、今すぐ!」
その声に、迷いはなかった。
「風間師長が言ってたんですよ」
綾乃がエレベーターの中でぽつりとつぶやいた。
「“御影さんの判断は、なぜか現場に信じさせる力がある”って」
凌真は苦笑した。
「それ、信用されてるって意味じゃなくて、“背負わせてる”って意味だよ」
チームCEのミーティングルームには、すでに3人が集まっていた。
芹沢はコーヒーをすすりながら、電子カルテを斜めに見ている。
源太は静かにトランクの点検。
岬は言葉を発さず、装置のログだけを睨んでいた。
「またAIを“黙らせた”んだって?」
源太がニヤリと笑う。
「まあな。今回は俺の“勘”が先に叫んでた」
「でもそれ、もう勘じゃないんじゃねーの?
御影の判断ってさ、たぶん“経験の厚みがAIのアルゴリズム超えた”ってことじゃないか?」
凌真は答えなかった。
ただ、視線をモニターの患者データに向ける。
「今度のケースは、難しい」
芹沢が低くつぶやいた。
「なんで?」
「どこまで“支援”すればいいのかが、わからない」
岬が重く口を開いた。
「つまり、“どの時点で装置が邪魔になるか”ってことだ」
そう。
装置が命を支える存在から、命を“拘束する檻”に変わる瞬間がある。
それをどう見極めるか。
そして、誰が“その瞬間”を判断するのか。
「お前が決めるんだよ、凌真」
源太の言葉は、まるで“当然だろ?”とでも言うようだった。
「俺たちは道具と命の接続を担う。でもその“設計者”は、やっぱりお前なんだよ」
「そう簡単に…………判断なんか、できないよ」
凌真の声は低かった。
「万が一、判断を間違えたら?」
「だったら、“自分で引き受ける”って決めるしかねぇ」
芹沢が短く言い切った。
「逃げ道なんて、最初からねぇだろ? お前が“見えるもの”を、俺たちには見えねぇ」
部屋の空気が静まる。
誰もがその“重さ”に気づいていた。
数値に基づく判断のほうが、よっぽど楽だ。
AIに委ねれば、誰も責任を問われない。
でも、それで命を救えるとは限らない。
「…………わかった」
凌真はようやく言った。
「俺が決める。
この命が、装置と共に生きるのか、
それとも、自分の力で“戻ってくる”のか」
その瞬間、芹沢が微笑んだ。
「そういうときだけ、ちゃんと“医療者”の顔になるな、お前」
患者の容態は、表面上は安定していた。
ECMOの流量は3.0L/分。SpO₂は95%。心拍は規則正しく、MAPも60台をキープ。
AIの解析画面には「安定維持」のフラグが並び、全体に“問題なし”の緑が光っていた。
それでも、御影凌真の胸にある警鐘は止まらなかった。
(この数値は“死にかけている人間”のものじゃない。
でも、生きている実感がない。
まるで“数字だけの命”だ)
CEルームに戻ると、すでに芹沢と岬が並んでいた。
「心電図、5分ごとの変動で見ると、T波の微妙な振れがある」
「頻脈性ではなく、徐々に波形の山が浅くなってるな」
岬の目は鋭かった。
「これ、心筋の“意思”が弱ってる可能性ある」
「でも、AIは“誤差範囲”だと判断してる」
「そこが、AIの限界。数値は測れるけど、“変化の傾向”は解釈できない」
凌真は、装置のログと患者のバイタル記録を並べて見比べた。
1分ごとの平均値ではなく、波形そのものを、時間軸に沿って“読む”。
「おい、ここ。3時間前の波形と比べろ」
芹沢が差し出されたタブレットに目をやった。
「…………圧波の立ち上がりが、わずかに遅い。流量変えてないのに?」
「血液の“粘性”が上がってるのかもしれない」
「フィルター、詰まりかけてる?」
「いや、それならポンプ圧も上がるはず。でも上がってない」
凌真の指先が止まった。
「つまり、“身体の側”が変化してる」
沈黙が落ちた。
源太が、やってきたばかりのログ出力紙を机に置きながら言う。
「…………これ、末梢の血流、減ってるな。
装置が回してる血液は問題ない。でも“届け先”が受け取ってない」
岬がつぶやいた。
「AIは“配達完了”までしか見ない。“中身が腐ってるか”までは見ない」
その言葉に、全員の手が止まった。
それはまさに、今の患者の状態を言い当てていた。
AIが“問題なし”と判定したこの命は、静かに沈んでいた。
「御影さん、判断を」
綾乃の声が静かに響いた。
「私たちは、何をすべきでしょうか」
凌真は少しだけ天井を見上げ、息を吐いた。
そして、ゆっくりと言った。
「“命を戻す”んじゃない。
“命の入り口”を、もう一度探し直す。」
誰も反論しなかった。
それは数値では出せない指示。
でも、現場の誰もが理解できる“意味のある命令”だった。
「全回路、再評価入る。
回路AからBに切り替え、フィルター交換。
血液ガス再採取、遠心ポンプは一度スローダウン」
凌真の声は、静かだった。
だが、その指示は全員に伝わった。
CEチームが動く。
芹沢は呼吸器のオーバーライドモードを起動し、
岬は心電図と脳波モニタの同時計測を準備する。
源太は透析用の新しいダイアライザを手早くセットした。
まるで、ひとつの意思を持った機械のように。
だがそれは、AIにはできない“人間だけの動き”だった。
「御影、これだけ再構築するってことは──“戻す”つもりか?」
源太が尋ねた。
凌真は、患者の胸にそっと目をやりながら言った。
「うん。“命の入り口”は、機械じゃない。
この人自身の中に、まだ残ってる気がする」
それは根拠の薄い希望かもしれない。
だが、CEたちは誰一人、彼を止めなかった。
むしろ、その“言葉にできない確信”を、信じる訓練を積んできた仲間たちだった。
「よし、準備できた」
芹沢が言う。
「換気リズム、患者の横隔膜活動に合わせて同期取る。
自主呼吸を“呼び起こす”セッティングだ」
岬が言う。
「心拍変動、リアルタイムで取ってる。乱れたらすぐ知らせる」
源太が最後に、回路を指差した。
「血液の粘度下げるために、温度少し上げる。
これ、“血”に生きる力戻す方法のひとつだ」
誰もが、誰の指示でもなく動いていた。
それぞれが、命に通じた技術を持ち寄り、
患者の“内側にある生きる力”を引き出そうとしていた。
そのときだった。
「御影さん…………!」
綾乃の声。
モニターのSpO₂が、一瞬だけ跳ね上がった。
94 → 96 → 97。
呼吸波形が、微かに“自律的”なうねりを始めていた。
凌真がポンプの音に耳を澄ませる。
血流が軽くなっている。
圧波の立ち上がりも、先ほどよりスムーズだった。
(届いたんだ…………この人の中に)
機械ではなく、“人間の命”に触れた瞬間だった。
「装置を信じるな、人を信じろ」
昔、師匠にそう言われたことを思い出した。
あのときは意味がわからなかった。
でも今なら、わかる。
“信じる”とは、命が動き出すその瞬間を信じるということ。
それが、CEという仕事の本質なのだと。
ガラス越しの面会室。
椅子に座った孫娘は、小さく手を合わせていた。
まだ十歳にも満たないその少女は、祖父の姿をじっと見つめていた。
数本のチューブと、胸に貼られたパッド。
規則正しく鳴る機械音の中で、自分の大好きな“おじいちゃん”が、生きていた。
「…………ねぇ、お母さん」
少女が小声でつぶやく。
「この人たち、何してるの?」
母親は、その問いに一瞬詰まった。
白衣じゃない。聴診器も持っていない。
でも、誰よりも真剣な顔で、機械と向き合っている。
何かを“調整”するその姿は、ただの作業員には見えなかった。
その中の一人が、そっとECMOのカバーに手を添えた。
目を閉じて、呼吸を合わせるように。
その姿が、まるで“おじいちゃんの命と会話している”ように見えた。
「…………あの人たちはね、
おじいちゃんの“体のかわり”を守ってくれてる人たちなの」
「…………ロボットみたいなの?」
「ううん、ロボットじゃない。“感じる人たち”なのよ」
母の言葉は曖昧だった。
でもその瞳は、目の前のCEたちの姿から、確かなものを受け取っていた。
「御影さん、SpO₂、99%。心拍も安定してきました」
綾乃の報告に、室内が少しだけ緩んだ。
「血流、かなり改善してますね。
呼吸器からの自発成分も増えてきてる。自律回復、始まってます」
「切り替えの判断、正解だったな」
源太がぼそりとつぶやいた。
凌真は言葉を返さず、
ただ患者の“命のリズム”に静かに寄り添っていた。
ICUの廊下で、母親が小さく頭を下げた。
「…………ありがとうございます。
私たち、あまり医療のこと、知らなくて…………
でも、今日初めて、“命ってこうやって守られてるんだな”って思えました」
御影は、少し戸惑った顔をした。
CEとして、家族に感謝されることは多くない。
医師や看護師のように“目に見える役割”があるわけではないからだ。
「…………ありがとうございます」
短く、静かに返したその言葉の奥に、
「見えない存在」が「見える存在」へと変わっていく瞬間の重みがあった。
その夜、御影はログ画面の前で一人立ち止まっていた。
人工心肺の出力ログ。呼吸器のリズム記録。心電図の微細な揺れ。
そのすべてが、今夜一つの命を支えた“証”だった。
(この仕事に、“名前”はいらないかもしれない)
でも――
“伝わる形”で、残したいとは思う。
翌朝、ICUは静かだった。
機器のアラームは鳴らず、看護師たちの動きにも余裕があった。
その空気に、御影はどこか“日常”が戻ってきた気がした。
ベッド上の高齢男性は、依然として呼吸器をつけていたが、
その呼吸のリズムには、昨日にはなかった“意志”があった。
一度死にかけた命が、今は自分の力で戻ろうとしている。
それは、機械の正確さよりも、人間の執念と想像力が導いた“再起動”だった。
「患者さん、今日午後にも呼吸器離脱いけそうですね」
綾乃が声をかけてくる。
「うん。たぶん、もう俺たちの出番は終わりだ」
御影はそう言って笑った。
そのとき、看護師の風間師長がICUに現れた。
「お前ら、昨日の件…………評価されてるぞ。
医長が、“AIじゃ救えなかった命”だって言ってた」
「…………光栄です」
「でも、たぶん表に出るのは医師だけだな。
お前らの名前は、どこにも載らない。
それでもいいのか?」
風間の言葉に、御影は少しだけ間を置いて答えた。
「はい。名前はいりません。
ただ、誰かの命の“途中”に、確かに自分がいたってことだけで、十分です」
その言葉に、風間がふっと笑う。
「やっぱりお前ら、“兵隊”みたいだな。命の戦場に立つ、静かな部隊だ」
「…………“部隊”か」
御影の胸に、何かがふっと降りてきた。
それは、言葉にならなかったものに初めて名前を与える感覚だった。
夜。
CEルームのホワイトボードに、誰かがこっそり一行の文字を書いていた。
《レジオニスタ:Legionista》
横に、英語でこう添えられていた。
“Those who fight in silence to keep life moving.”
(命を動かし続けるために、沈黙の中で戦う者たち)
綾乃がそれを見つけて、小さく笑う。
「誰が書いたんですか、これ?」
御影は、なにも言わなかった。
ただ、その言葉の意味が、静かに胸に染みていた。
“レジオニスタ”。
命に名前はある。
でも、命をつなぐ者には、たいてい名前がない。
それでもいい。
だが、これからは――
“静かなる名”として、それを伝えていく必要がある。
彼らは、医師でも看護師でもない。
でも確かに、命と命の“あいだ”で戦う者たちだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
「命が崩れる音は、誰かの中で最初に鳴る」――
今回は、そんな“聞こえないはずの音”を拾い上げるCE(臨床工学技士)の姿を描きました。
誰にも説明できない判断が、誰かの命をつなぐかもしれない。
医療AIと並び立つ現場で、迷いながらも踏み出す者たちの矜持を、少しでも感じていただけたら幸いです。