第一章:命のログを読む者
ご訪問ありがとうございます。
本作『レジオニスタ』は、命を支える医療機器とその“あいだ”に立つ臨床工学技士たちの物語です。
第1章では、主人公・御影凌真が、AIでも読み取れない命の「揺らぎ」を見つめ、
“技士”としての判断をどう下していくかに焦点を当てています。
派手なヒーローではなく、あくまで静かに命と向き合う者たちの現場の記録。
どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。
「昨日のECMO患者、今朝フェーズアウトしたみたいよ」
朝のカンファレンスが始まる前。
ICUナースたちの会話が、凌真の耳にかすかに届いた。
フェーズアウト──ECMOの離脱。
それは患者の回復の一歩であり、医療スタッフ全体の成果だった。
だが、御影凌真はその言葉を聞いても、特別な安堵を感じてはいなかった。
(よかった。…………でも、まだ油断はできない)
彼の眼差しは、機器越しの“先”を見ていた。
ただの回復ではなく、“本当に戻ってこられるかどうか”。
そのために必要なサインが、数字には現れないことがある。
朝の空気は張り詰めていた。
AIによる予測アルゴリズムが導入されてからというもの、
ICUの中では「判断の根拠」が、モニターの右下に映し出されるようになった。
“この患者はあと24時間で自己呼吸率が回復する可能性76%”
“急変の予測リスク:低”
だが、“低”と書かれた患者が、夜明けにいなくなることはある。
そして、“大丈夫”と診断された機械が、ある日突然沈黙することもあった。
御影凌真は、機器の管理とチェックを担当するCEとして、
常にAIの示す“最適解”と、“違和感”のあいだに立ち続けていた。
「御影さん、今朝も早いですね」
呼びかけたのは後輩のCE、夏目綾乃だった。
少し癖のあるショートヘア。常に冷静で、分析に強いタイプ。
大学院を出てすぐに現場に飛び込んできたが、
どこか“数字に強すぎる”きらいがある。
「ちょっと気になるログ(患者のデータ)があってね。夜勤中に何か見逃してる気がして」
「AIが問題なしって判定したのにですか?」
「うん。でも、AIは“昨日の患者”しか見ない。
俺たちは“今日の患者”を診なきゃならないからね」
綾乃は少し黙ったあと、笑った。
「そういうところ、ほんとに御影さんらしいです」
「らしいって…………いい意味か?」
「いい意味、ですよ。たぶん」
からかうような言い方だったが、その後ろには尊敬がにじんでいた。
凌真はモニターに目を戻した。
血圧の波形、呼吸器のタイミング、CO₂の排出曲線。
そして、装置のログにある“1秒未満の間”。
そのすべてが、命の声だと、彼は思っていた。
アナウンスの声がICUに響いた。
「新規患者搬送、予定より早く到着します。搬入ルート確保願います」
ICU内のスタッフたちが一斉に動き出す。
心肺停止寸前で運ばれてくるという少年のケースだった。
救命処置の時間は限られている。
ECMO導入も検討ラインにある──現場の温度が一気に上がる。
凌真は、モニターに視線を投げかけたまま、心を切り替える。
(この数分で、すべてが決まる)
AIが送ってくる事前情報に目を通す。
「不整脈性右室心筋症の疑い」「経過観察中に急変」「院外CPR(心肺蘇生)実施」
AIリスクスコアは「中等度」。
でも──
「綾乃、ログ見たか?」
「見ました。AIの判断だと“遅延型ショック”の可能性が高いみたいです」
「いや、たぶん、違う」
凌真は、たった数秒の心電図ログを拡大表示した。
あるタイミングだけ、心拍数が一気に跳ね上がっている。
だがその前後に、呼吸パターンとの“ズレ”がある。
まるで、体がパニックに陥る前に、何かを訴えていたかのような波形だった。
「これ、何に見える?」
「…………反射性頻脈、じゃないですよね?」
「違う。これは“発作”じゃない、“反応”だよ。
たぶん、身体が“何かに”先に気づいてた」
綾乃が黙った。
AIは、これをただの“発作性心拍変動”と読み解く。
でも凌真には、波形の中に“違和感”ではなく、“意思”のようなものを感じた。
(この子の体は、戦ってた)
その感覚は、彼だけが持ちうるものだった。
装置の操作でも、ログの分析でもない。
命と機械の間にある“沈黙”を読み取る力。
「患者、到着します!」
扉が開き、搬送チームが現れる。
ベッド上の少年にはすでに挿管がなされ、AEDのパッドが貼られていた。
血圧は測定不能。心拍数は60台──生きてはいるが、いつ止まってもおかしくない。
凌真は一歩前に出た。
「透析機、スタンバイ。ECMO導入準備、回路Bを選択して。機器チェックは俺がする」
綾乃が驚いた顔をした。
「御影さんが、機器担当やるんですか?」
「こういう時だけだよ。“人を読める機械”を、俺が見ておきたい」
その言葉は、半分冗談のように聞こえた。
でも綾乃にはわかっていた。彼が“違う目線”で現場を見ていることを。
「チームCEに連絡入れときますね」
「頼んだ。必要になれば、全員動くことになる」
そのとき、凌真の声は、“ただの技士”ではなかった。
少年の体が、処置台に移される。
モニターには微弱な心拍。だが、それだけだった。
「SAT低下、SpO₂ 83%。呼吸器スタンバイ!」
「血圧70台、維持困難。ノルアド(血圧を上げる薬)連続投与開始!」
医師、看護師、薬剤師が機械のように動く。
だが凌真は、少年の胸のわずかな上下に、かすかな違和感を感じていた。
(これ、ほんとうに“ただのショック”か…………?)
そのとき、ICUに新たな足音が響く。
白衣ではない、グレーのケーシー姿の3人。彼らは静かに、機器と波形の変化を追っていた。
「やれやれ、朝からフルコースだな」
そう言いながら片手で人工呼吸器のポータブルを担いでいたのは、
芹沢 空。呼吸管理のスペシャリストCE。
“呼吸を聴ける男”としてICU内では有名だった。
「アブレーション(心臓カテーテル治療の一つ)系、電源チェック完了。心電図データもすでに回収済みです」
冷静に言葉を落としたのは、岬 颯斗。
口数は少ないが、心臓領域の異常電気信号を読む天才。
不整脈のプロファイリングではAIより信頼されている。
そして最後に、ずっしりとしたトランクを携えて現れたのは、土屋 源太。
血液浄化と急性透析の重鎮。力仕事も任せられるICUの兄貴分だ。
「やっぱ来てたか、御影」
源太がニヤッと笑う。
「朝のログ、俺も見てた。あの波形、なーんか不穏だったんだよな」
凌真は頷いた。
「ありがとな。今回は“連携ありき”で進めたい。
AIはショックって言ってるが、俺は“中枢性のトリガー”がある気がする」
「脳波絡むかもな」と芹沢。
「ログだけで判断しないほうがいい。身体が先に動いてる」岬が静かに言う。
誰が指示を出すでもなく、各分野の技士が勝手に動き始める。
これが、“チームCE”だった。
「いくつもの装置を、“一つの命のために”動かす。
それが俺たちの役割だろ?」
土屋が言い、トランクを開く。
その中には、人工透析機材と、専用の血液回路が並んでいた。
綾乃がぽつりとつぶやいた。
「…………なんか、見てるだけで、かっこいいですね」
その目線の先には、誰よりも静かに、
誰よりも速く命の仕組みを読み解く技士たちの姿があった。
「SAT、再び低下。SpO₂ 78%…………!」
「心拍も不安定です、QT延長(心電図の異常)出てます!」
「AI提案では、再度アドレナリン(心臓の収縮を強める薬)投与とIABP導入が推奨されてます!」
緊張が高まる中、医師たちの視線がAIモニターに集まる。
だが、チームCEは誰一人、そこを見ていなかった。
芹沢は人工呼吸器の設定を指で調整しながら、言った。
「呼吸リズムが早すぎる。体が“自発呼吸しようとしてる”のに、機械が上書きしてる。逆効果」
岬が心電図を覗き込み、瞬時にコードを引いた。
「この心拍、心筋の興奮じゃない。“誤伝導”のノイズだ。脳か、自律神経に異常がある」
土屋が血液濾過装置のラインに目をやりながら言う。
「電解質、下がりすぎてる。これ、ECMOの洗浄液由来だな。
“生きるための装置”が、少しずつ命を削ってる」
御影凌真は、ECMOのフローと患者の表情を交互に見ていた。
数値は依然として悪化傾向。
だが、彼の中ではひとつの“確信”が芽生えていた。
「装置を、切り離す準備をしてくれ」
「…………御影?」
綾乃が声を上げた。医師も顔を上げる。
「AIは維持を指示してる。ここで離脱は危険すぎる」
「それでも、このままじゃ“装置に殺される”。
この子は、もう“自分で呼吸しようとしてる”。それを機械が邪魔してるんです」
沈黙が落ちた。
だが次の瞬間、風を切るように芹沢が動いた。
「設定落とす。呼吸を“戻す”ぞ」
岬が言う。「不整脈モニタリングは俺が持つ」
土屋も。「血液は俺が守る。切り替え開始しろ」
誰も反論しなかった。
彼らはチームだった。AIに従うのではなく、“命の声”に従う集団。
人工呼吸器が切り替えられた瞬間、
モニターの呼吸波が大きく揺れた。
患者の胸が、ふわりと動いた。
今度は“機械による動き”ではない、
確かな“自発”だった。
「…………SpO₂、88……92……95」
誰かが声を上げた。
心拍も安定し、呼吸数も機械のリズムから外れ、生きている人間のリズムに戻った。
御影凌真はその様子を、静かに見守っていた。
機械を止めることで救える命がある。
それは、数値では証明できないことだった。
芹沢がぽつりとつぶやいた。
「…………また一つ、“沈黙”が語ったな」
その言葉に、誰も返さなかった。
ただ、皆がそれぞれの装置を見つめ、命が動く様を見つめていた。
御影は、ふと思った。
(俺たちは、いつの間にか、ただの“技士”じゃなくなってたんだな)
AIが医師の判断を補う時代。
装置が命を支える時代。
でもその間には、まだ誰にも見えない“余白”がある。
そしてその余白こそが、
俺たち“レジオニスタ”のいる場所なのかもしれない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
AIが医療現場に浸透する中、数値化されない“命のサイン”を読み取る感性の必要性が高まっています。
第1章はその入り口として、御影の“違和感に耳を澄ます力”を描きました。
今後も、CE(臨床工学技士)たちの静かな判断と技術が、物語の軸となります。
次章もどうぞよろしくお願いいたします。