第9章:沈黙の継承者たち ― 名前のない背中を見て
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『レジオニスタ』第9章「沈黙の継承者たち」では、
“誰にも評価されなかった行動”が、“次の誰か”の原点になっていく瞬間が描かれます。
名前を持たず、制度にも記録されず、それでも「止まった時間」を共有した人たちの背中が、
次の世代にとっての“継承”になっていく過程。
レジオニスタという言葉が、称号ではなく“問い続ける意志”として受け継がれていく章です。
「御影さん、すみません…………。僕、さっきの判断、間違ってたかもしれません」
実習最終日、田所 翼は深く頭を下げていた。
臨床実習の中で、彼はある透析患者のモニタリング設定について、AIの警告を優先して調整を遅らせてしまった。
「血圧の小さな低下があったのに、正常域だからって“問題なし”って思ってしまって。
でも、よく見たら、脈圧の差が徐々に狭まってて…………気づけたのは、綾乃さんのおかげです」
御影は田所の肩を軽く叩いた。
「間違ったって、ちゃんと気づいたんだろ? それで十分だよ」
「でも…………命が関わる現場で、“それで十分”って言っていいんでしょうか?」
しばらくの沈黙。
その静けさの中で、御影は穏やかに口を開いた。
「俺たちの仕事って、“迷ってはいけない”と思われがちだけど、本当は逆なんだ。
“迷えない人”に任せたくない現場が、いくつもある」
「え…………?」
「迷ったことのある人間だけが、他人の迷いにも気づける。
それが、“名もなき判断”の本質なんだよ」
その夜、田所はCEルームの片隅でひとりノートを開いていた。
《見えなかった“違和感”に気づけなかった理由を考える。
数値の正しさに逃げた時、自分の直感を閉じていた。
レジオニスタになりたいなら、まず“恐れることを恐れない”自分にならないといけない》
誰にも見せるつもりはなかったが、そのページの最後に、小さくこう書いた。
“まだなれていない。でも、まだ諦めていない。”
「…………俺も、感じてたよ。なんていうか、“空気が変わる瞬間”っていうのかな」
休憩室の隅で、同期の実習生・木村がぽつりと呟いた。
田所が自分の判断ミスを打ち明けた直後のことだった。
「患者さんが黙ってるのに、綾乃さんが吸引の準備してた。
数値には何も出てなかったのに、彼女は“気配”を察してた。…………あれ、普通じゃないよな」
「うん。俺も、同じものを感じたんだと思う。
でも…………それに気づいた瞬間、“自分の中の正解”が崩れた気がして、怖くなった」
田所の言葉に、木村はゆっくり頷いた。
「実は俺、最初は“レジオニスタ”って、ちょっと格好つけた言葉だと思ってたんだよ。
でも今は…………“そう名乗らなくても、そうありたい自分”って、ある気がする」
その日の実習終了後、2人は偶然、岬と出くわした。
いつものように機器のメンテナンス中だった岬は、2人の顔を見るなり、にやりと笑った。
「お、なんだその顔。なんか“やっちまった顔”してんな?」
田所と木村が顔を見合わせる。
岬は工具を置いて、床にどっかりと腰を下ろした。
「失敗はな、忘れろって言われるけど、忘れんな。
“何が起きたか”より、“何を感じたか”を残しとけ。
それが、次の“止まるタイミング”を作ってくれるから」
木村が思わず口にした。
「…………岬さん、“レジオニスタ”って、どう思ってるんですか?」
岬は少しだけ目を細めた。
「思ってない。
俺は“名乗ってないだけの何か”ってやつに、ずっと助けられてきたからさ。
名前なんて、最後までわかんなくていい」
帰り際、田所は岬から一枚の紙を渡された。
それは、CEルームのホワイトボードに貼られていた“言葉の写し”だった。
“名もない判断が、誰かの命を守ることがある。
そして、誰にも気づかれなかったその判断が、
誰かの生き方を変えることがある。”
その文の下には、こう添えられていた。
“それだけで、十分なんだ。”
「…………それ、本当に提出するの?」
木村は、自分の記録レポートを手にして、書類棚の前で立ち尽くしていた。
明日の実習終了時、提出が義務づけられている「実習記録」の中に、彼は一つだけ、
“誰にも許可されていなかった行動”をそのまま書いていた。
“患者の体位に微細なずれを感じ、AIには反応がなかったが、
経皮酸素飽和度の変化を予測し、モニター前で待機。
結果として呼吸困難の兆候を早期に察知し、ナースコール前に酸素流量の調整を要請。”
記録の中では、正式な“判断権”は彼にはなかった。
「先生には、ちょっと見られたけど、何も言われなかった。
だからって、これが評価されるとは思えない。
でも、…………書かないと、嘘になる気がして」
その夜、木村は一人で御影のもとを訪ねた。
静かなCEルームには、空気清浄機の微かな音だけが響いていた。
「…………これ、出そうと思うんです。でも、正直に書くことで、
“越権行為”だと判断されたら、どうしようって不安もある」
御影は、レポートに目を通したあと、ゆっくりと言った。
「ここに書かれてるのは、“行為”じゃない。
“問いに立ち止まった時間”の記録だと思うよ」
「問い…………?」
「“正解じゃないけど、違和感がある”って瞬間。
それに気づいて、その場を離れなかった自分の記録。
…………それが、“誰かの次の問い”につながるかもしれない」
木村は、少し黙ったあと、静かに頷いた。
「じゃあ、これ…………提出してもいいですか?」
「もちろん。
それが“君の名前じゃない選択”なら、誰かに届くはずだよ」
翌日、評価面談の場。
担当教員が、木村の記録に目を通し、しばらくの沈黙のあと言った。
「これ、制度上は“過剰介入”に近い。
でも——君が立ち止まってくれたおかげで、
あの患者の不安発作は最小限に抑えられた。…………俺は、そう見ている」
木村は小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「評価には含められないかもしれない。でも、
この記録は、間違いなく“本物の現場”だったと思うよ」
「じゃあ、今日の実習、ちょっとだけ話せる?」
木村の声に応えるように、田所ともう一人、実習生の高坂がカフェテリアの端の席に集まった。
決して目立つ存在ではなかった高坂は、数日前の発言が話題を呼んでいた。
「“見えてることしか見ない”って、怖いですよね。
あのとき患者さんの眼が合ったんです。何も言ってないけど、“助けて”って目だった」
その言葉が、周囲の若手たちの心をざわつかせていた。
「あのとき、俺、パラメータだけ見て“異常なし”って言っちゃったんだよ」
木村が言った。
「僕は、反応できなかったことが悔しかった。
でも、今日の記録見直してて、気づいたんです。“あの視線”の意味って、後からしかわからないって」
高坂はゆっくりと頷いた。
「じゃあ、後からわかった時に、その経験をどう残すかが大事なのかもしれない」
そこに、綾乃がコーヒー片手にふらりと現れた。
「へえ、いい話してるじゃん。レジオニスタごっこ、進化してる?」
冗談めかして言ったが、その目は優しかった。
「…………実は、俺らで“記録に残らなかった気づき”をメモにして、共有してるんです」
田所が照れくさそうに言う。
綾乃はそのメモを受け取り、ざっと目を通したあと、静かに言った。
「うん、いいと思う。
誰にも評価されないけど、たしかに誰かの“止まった瞬間”が詰まってる。
それってもう、“記録されなかった判断の継承”になってる」
田所がふと、聞いた。
「綾乃さんたちって、“誰かに教えてもらった”んですか?
“どうすればレジオニスタになれるか”って」
綾乃は首を横に振った。
「教えてもらってない。“見た”だけ。
“迷いながら止まってた背中”とか、“誰にも気づかれない選択”とか」
木村が言う。
「じゃあ、俺たちも、いつか“誰かに見られる側”になるのかな」
綾乃は微笑んだ。
「もう、なってるかもしれないよ。
こうして迷って、語ってる姿そのものが、誰かにとっての“背中”になる」
その夜、田所たちが書き溜めた小さな記録集には、こんなタイトルが記されていた。
《Silent Moments:誰にも知られなかった気づきたち》
継承とは、教えることじゃない。
ただ、同じ場所に立ち、自分の迷いに責任を持とうとする姿なのかもしれない。
「先生、これ…………読んでいただけますか?」
田所が差し出したのは、自主記録としてまとめた小冊子だった。
医療現場での“気づき”と“止まった時間”だけを綴った、数十ページの文書。
提出先は、外科部長・水谷 拓郎。
レジオニスタの活動を“制度外の逸脱”と批判しつつも、常に現場に寄り添ってきた医師だ。
水谷は無言でそれを受け取り、診察室の片隅に置いた。
その日は、何も言葉がなかった。
数日後、夜遅くの当直室。
水谷はふとした拍子にその冊子を手に取った。
乱雑に綴られた手書きのページ。
読みやすさも整っていないその文章に、なぜか彼は引き込まれていった。
“バイタルは正常だった。でも、患者の右手だけがずっと震えていた。
看護師が気づかなかったその揺れに、僕は怖くて何もできなかった。”
“反応がないと思っていた寝たきりの患者が、呼吸器音に過敏に反応していることに気づいた。
自動モードでは息が合わない。変更申請までに数十分が必要だと知ったとき、
何もせずに過ごしたその時間を、今も後悔している。”
水谷はページをめくる手を止めた。
机の上にあった自身の記録——オペ症例、術式、統計、成功率。
どれも制度に残るものばかりだ。
だが、“何もしなかったこと”を記録する発想など、自分には一度もなかった。
翌朝、CEルームに水谷が姿を見せた。
田所たち若手が思わず背筋を伸ばす。
「…………読ませてもらった。“失敗”でもなく、“成功”でもない。
“立ち止まったこと”だけを記録したその行為に、正直、衝撃を受けた」
全員が静かに聞き入っていた。
「制度に残すことと、命に残すことは違う。
私はずっと、“制度に残る行動”だけを選んできたんだと思う」
そして水谷は、机の上に一枚のコピーを置いた。
それは、彼が初めて自主的に書いた“症例以外の記録”だった。
“患者の発話前に、口元の緊張が変わった。
それに気づいたCEが、吸引準備をしていた。
私は、データしか見ていなかった。
でも、その0.3秒が、患者の苦痛を防いだ。”
田所は、驚きと感動の入り混じった表情で言った。
「…………それ、記録として残すんですか?」
水谷は頷いた。
「“沈黙を継承する者たち”の記録だ。
名前はいらない。だが、想いを見た誰かが、次に“止まる勇気”を持てるように」
「田所さん、これ…………もしかして、バズってますよ」
木村がスマートフォンを見せながら言った。
画面には、ある医療系ジャーナルのオンライン記事が表示されていた。
《“何もしなかった瞬間”を記録した若手たち——沈黙の技士たちが見つめた命の揺れ》
記事の中には、田所たちがまとめた小冊子『Silent Moments』の一部抜粋と、
水谷医師によるコメントが掲載されていた。
“名前も役職もなく、許可された行動でもない。
だが、この記録には、“見ようとした人間のまなざし”がある。
それは、どんなオペ記録よりも現場を語ると思う。”
「…………これ、いつの間に?」
田所は目を見開いた。
木村が言う。
「水谷先生が、知り合いの記者に話してくれたらしい。
“制度に記録されない判断こそが、命の境界を語る”って」
高坂が不安げに言った。
「でも…………いいのかな。
あれって、“見せるため”じゃなくて、“忘れないため”に書いたんだよ」
その日の午後、CEルームに御影が現れた。
「見たよ、記事。…………驚いたか?」
田所たちは頷くしかなかった。
御影は、少し笑ってこう言った。
「“見せないために書いた記録”が、“見られることで意味を持つ”こともある。
矛盾してるようだけど、それが“記録”ってものだ」
綾乃が補足する。
「大事なのは、“誰にどう見られるか”じゃなくて、
“誰が書いたか”と“なぜ書いたか”が、ちゃんと残ってること」
夕方、病院の職員掲示板に、一枚の紙が貼り出された。
《読まれなかった記録たちに、ありがとう》
その下には、匿名の寄稿が添えられていた。
“あの記録を読んで、自分の判断が正しかったのか見直しました。
誰かの迷いが、他の誰かの迷いを軽くすることがある。
それだけで、記録には価値があると思いました。”
夜。田所はノートの最後のページを開いた。
“沈黙は、誰にも届かないと思っていた。
でも、“それでも残す”という行為が、誰かを救うこともあるんだ。”
彼はゆっくりとペンを走らせた。
“今日、自分が“まだなれていない”からこそ、誰かのために書けた記録がある。
それが、明日の“誰かのために立ち止まる勇気”になればいい。”
「…………君たちの記録を使わせてもらえないだろうか」
それは、養成校で指導を務める臨床工学技士教員・今井からの申し出だった。
彼は、たまたま掲載記事を目にし、その背景を知るうちに強く胸を打たれたという。
「CEにとって一番難しいのは、“動かない”ことを選ぶ瞬間かもしれない。
でも君たちは、その“立ち止まった記憶”を、ちゃんと残してくれた。
学生にそれを見せたいんだ。“選ばなかった判断”も、命を支える選択だと」
田所たちは顔を見合わせた。
「…………あんなもので、いいんでしょうか?」
今井は穏やかに笑った。
「“完璧な答え”を探してる学生たちにこそ、“迷いながらの決断”を知ってほしい。
それができるのは、制度じゃなく、君たち自身の生き方なんだよ」
数週間後。ある地方の臨床工学技士養成校で、
『Silent Moments』が自主教材として配布された。
“患者は、数値を見てほしいんじゃない。
気づいてほしいだけだ。”
そんな一文に、学生たちはじっと目を止めた。
その日の夜。CEルームで、田所は久しぶりに御影と向かい合っていた。
「…………僕、“なれてきた”って思う反面、“わからなくなる”ことも増えてます」
御影はゆっくりと頷いた。
「それでいい。“わからなくなったまま、止まることを恐れない”って、
それがレジオニスタのスタート地点だから」
田所は問いかけた。
「“レジオニスタになる”って、つまり、どういうことなんでしょう」
御影は、少しだけ考えてから、静かに答えた。
「“名乗らずに、問うことをやめなかった人”——
それが、俺にとってのレジオニスタかな」
その日、ホワイトボードにはこう記された。
“名乗った者の言葉よりも、
名乗らなかった者の問いが、未来をつくる。”
そして、その下にはひとつの行が静かに追加されていた。
“僕は、まだなれていない。でも、問うことはやめていない。”
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この章では、“教えられていないのに、見ていた”者たちが、
自分の行動を「誰かの背中」だと知るという構図を通して、
継承とは、言葉ではなく“立ち止まった時間”の共有であることが浮かび上がりました。
記録ではなく、記憶。
名前ではなく、在り方。
レジオニスタという存在が、「制度」や「肩書き」ではなく、
ただ“問いをやめなかった人々”の連なりであることを、少しでも感じていただけたら幸いです。
次はいよいよ最終章です。