序章 沈黙の波形
『レジオニスタ』へようこそ。
本作は、ICU(集中治療室)を舞台に、臨床工学技士(CE)という職種に焦点を当てた医療×人間ドラマです。
医師や看護師の影で、機械と命を繋ぐ“沈黙の仕事”――
数字では表現できない「命の違和感」に耳を澄ませる彼らの姿を描きたいと思い、本作を書き始めました。
医療現場を舞台にしていますが、専門知識がなくても読めるよう工夫しています。
少しでも“命の現場”に心を寄せていただけたら幸いです。
深夜のICU(集中治療室)。
眠らぬ光が静かに床を照らし、天井のモニターが心臓のリズムを淡々と映していた。
御影凌真は、その光の中で、機械の脈動に目を凝らしていた。
彼の手元には、ひとつの命を支える“もう一つの心臓”――ECMOがある。
肺と心臓の代わりを果たす装置。
血液を体外へ送り出し、酸素を与え、また体内に戻す。
それは、まるで「命を外に避難させて、呼吸を代わりにしている」ような技術だった。
その日、救急搬送されてきたのは、10歳の少女だった。
原因不明の重度心不全。搬送時にはすでに意識がなく、即時ECMOが導入された。
小さな体に、大きな管が2本。鎖骨下と大腿から、人工回路へと血液が流れている。
その命は、生きている。数字の上では。
「凌真さん、回路フローは?」
「2.4リットル毎分。正常範囲内です。装置に異常はありません」
凌真は答えながらも、心の中ではひとつの言葉が渦を巻いていた。
……何かが、違う。
装置は正しく動いている。パラメータも理想通り。
AI診断モジュールも異常なしと判定を出していた。
それでも、彼の中で、“数字では語れない違和感”がうっすらと鳴っていた。
回路の中を流れる血液が、わずかに重く感じる。
揺れ方、温度、音――言語化できない微細な変化。
他の誰にもわからない。でも、彼には“わかってしまう”ことがあった。
それは、技術ではなく経験でもない。
医療エンジニアとして生きてきた“感性”そのものだった。
彼の名札には、CE(Clinical Engineer:クリニカル・エンジニア=臨床工学技士)と記されていた。
「先生、フェモラル(ECMOをつなぐ太ももの血管)側の回路、再確認お願いできますか」
医師が顔を上げ、眉をひそめた。
「AIもセーフだし、数値も問題ないけど?」
「ええ。でも、念のためです」
一瞬の沈黙。その間に、モニターがかすかに歪んだ。
数ピクセルの揺らぎ。普通ならノイズと片づけられる。
だが、その瞬間、凌真の中の“第七感”が警報を鳴らしていた。
(これは機械の問題じゃない。命が、“何か”を訴えてる)
「サチュレーション(血中の酸素量を示す値)低下!SpO₂ 91、89、…………」
警報音がICUに鳴り響いた。
医師が急ぎ指示を出し、看護師たちが回路と投薬ルートを確認する。
凌真は黙って回路をなぞり、血液の流れを目で追った。
そのとき、少女の指先が、わずかに動いた。
誰も気づいていなかった。凌真を除いて。
「…………生きてる」
彼は誰に言うでもなくつぶやいた。
その声は、モニターにもAIにも記録されなかった。
だが、その瞬間、沈黙の中で“確かな命の意思”が動いたことを、彼だけが知っていた。
モニターのアラームが鳴り止まない。
脈拍、血圧、SpO₂。
すべてが、ゆっくりと、確実に下降し始めていた。
まるで、生きることに少しずつ背を向けていくように。
「小児ドクター呼んで!右室拡張、心電図波形が不安定です!」
担当医の声が空気を裂いた。
看護師がバイタルを口にし、薬剤投与の準備が進む。
誰もが“異常”に向き合っていた。
誰もが“数字”を見ていた。
だが――その中で、誰も気づいていないものがあった。
御影凌真だけが、見逃さなかった。
少女の右手の指先が、ほんのわずかに動いたことを。
わずか0.5秒。
痙攣でも、反射でもない。
それは、呼びかけるような、命の意思表示だった。
「患者、心臓の収縮リズム乱れてきてます。IABP(血液循環を補助する装置)使用検討も」
医師がAIサポート画面を覗き込み、処置の選択肢を検討する。
そこには、ECMOとIABPをどう組み合わせるか、AIの“おすすめ構成”が表示されていた。
凌真は画面を一瞥すると、すぐに視線を戻した。
装置じゃない、患者本人に。
「ドクター、IABP導入は慎重に。今は血流バランスが不安定すぎます」
「でも、このままじゃ右室がもたない」
「だからこそ、今、装置じゃなく“彼女”に聞くべきです」
「…………は?」
医師が眉をひそめる。その一瞬を縫うように、凌真は続けた。
「血液が重かった理由、わかりました。彼女自身の血管が収縮してる。装置側じゃありません」
「…………生理的反応だと?」
「はい。生きようとしてるんです。あの子の身体が。自律的に」
それは、CEとしての論理ではなく、医療エンジニアとしての“感性”だった。
言葉にできない何かが、確かにあった。
その違和感に向き合ってきた時間が、彼にしかない“判断”を可能にした。
医師は数秒、沈黙した。
そして、ほんのわずかに息を吐いてから言った。
「…………わかった。凌真くんに託す。
ただし、5分後に改善がなければIABPに切り替える」
「はい」
ECMOの血流ポンプに手を添え、凌真は一度、目を閉じた。
静かに流れる血の温度を感じる。
装置を通して伝わってくる、少女の命の律動。
そして、心の中で問いかける。
(君は、まだ戦いたいか? それとも――)
そのときだった。
少女のまぶたが、かすかに揺れた。
今度は、明確に。
その揺れに呼応するように、モニターのSpO₂が――90、91、92と、上がり始めた。
「戻ってきてる……!」
看護師が声を上げた。
だが、凌真は何も言わなかった。ただ、頷くだけだった。
誰よりも早く、“命の声”を聞いた者として。
──数値が、戻った。
モニターのSpO₂は94%。血圧も安定し、心拍は少しずつリズムを取り戻しつつあった。
人工的な支えの中に、確かに“本人の力”が戻り始めている。
「IABPはキャンセルで。今のところECMO単独で維持します」
「了解。フェンタニル(痛みを抑える薬)追加で覚醒は抑えるけど、様子見よう」
医師が判断を下し、周囲に緊張が和らいでいく。
そんな中、凌真は、まだ少女の顔を見ていた。
まぶたが、わずかに動いた気がした。もう一度。
呼吸器越しに、彼女が“何かを伝えようとしている”ようにさえ見えた。
(あの反応…………まさか…………)
どこかで見たことがある。
この小さな顔も、肩の形も、
“命を手放しかけて、なお踏みとどまろうとする強さ”も――
その瞬間、頭の奥に映像のように浮かんだ記憶があった。
五年前。
まだ新人技士だった凌真が、人工呼吸器のチェックのために訪れた小児病棟。
長期入院していた少女がいた。
医師にも、家族にも、看護師にもあまり笑わない子だった。
ただ、機械にだけは興味を示した。
「ねえ、それ、どうして血をきれいにできるの?」
「んー…………それは、機械がちょっとだけ体の代わりをしてるから」
「じゃあ、私が寝てる間、機械ががんばってくれてるの?」
「そう。だから君の“戦う時間”が少し伸びてるんだよ」
少女は、それを聞くと少しだけうなずいた。
そして、そっと言った。
「…………なら、私もがんばる」
「…………まさか」
凌真は、少女の電子カルテを確認しようとした。
年齢、初診歴、家族構成、既往症──
名前を見て、目を見開いた。
結城 凜。
あの時の少女だ。
もう会うことはないと思っていた命が、いま、自分の前で再び命を繋いでいる。
(あの時の“少し伸びた戦う時間”が…………いま、ここに繋がっている)
CEという職業は、患者の人生に深く関わらないことも多い。
技士は裏方であり、命を支える装置を静かに扱う存在。
でも――今この瞬間、彼は確かにその命の物語の一部だった。
「結城凜…………間違いない」
装置の異音でも、血液の滞留でもない。
この子の命のリズムが、彼の中で“再起動”されたのだ。
医師が戻ってきて言った。
「凌真くん、さっきの判断…………ありがとう。
あれは、医療AIにはできない判断だった。君だからできたことだ。」
凌真は静かに首を横に振る。
「違います。俺がすごいんじゃない。
“この仕事”が、人を救えるんです。
ただ、それをまだ、誰も気づいてないだけなんです」
ICUの空気が少しずつ落ち着きを取り戻す中で、
凌真は一人、静かにECMOの回路を点検していた。
少女のバイタル(呼吸や心拍など生命の基本情報)は安定していた。
だが、彼の胸の奥では、何かが今もざわめいていた。
救ったのは、誰だ?
AIの提案ではなかった。
医師の判断とも違った。
装置が動いたわけでもない。
それなのに、命は繋がった。
(俺たちは、なんなんだ…………?)
ふと、背中に声がかかる。
「おい、御影」
振り返ると、重症病棟の主任看護師、風間が立っていた。
何年もこのICUに立ち続けているベテランだ。
「今のケース、あれは──お前じゃなきゃ無理だったな」
「…………そんなことないですよ。たまたまです」
「いや、違うな。あの血の流れ、誰も気づけなかった。
お前だけが見てた。
お前が、機械の音を“聴いて”たんだよ」
凌真は言葉に詰まった。
「医者が診断して、看護師が支えて、AIがデータを分析する。
けど、お前らCEだけが──“命と機械の間”を見てるんだよ」
風間のその一言が、どこかで胸に刺さった。
(命と、機械のあいだ──)
沈黙の回路を通して伝わってきた、少女の微かな意志。
その時、自分はただ操作していたのではない。
命を“設計し直していた”のかもしれない。
気づけば、言葉が漏れていた。
「…………俺たちが、最後の“つなぎ手”になることも、あるんですよ」
風間は一瞬だけ黙り、それから頷いた。
「じゃあ、そうだな。
お前らはもう、“臨床工学技士”じゃないのかもな」
「え?」
「これは、名前が要るな。医師でも、看護師でも、AIでもない──
命をつなぐ、新しい“軍”だ。」
凌真は思わず笑った。
「…………レジオン、ですか」
「そう。“レジオニスタ”。命の最前線で、静かに戦う奴らのことだ」
その言葉は冗談交じりだった。
けれど、なぜか凌真の中に、ゆっくりと根を下ろした。
レジオニスタ──命を設計し、命に従う者たち。
AIにも数値にも置き換えられない判断を、静かに担う技術者たち。
その名もなき職域が、これから医療のかたちを変えていくかもしれない。
彼は少女のベッドサイドに歩み寄った。
人工呼吸器越しに、凛とした表情が眠っている。
「また、会えたな…………」
彼の声は小さく、誰にも届かない。
だが、それでも彼は信じていた。
この“沈黙の会話”こそが、命をつなぐ最初の音になる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
序章では、「AIが正解とした患者の中にある“何かおかしい”」をテーマに、主人公の感性と判断が問われる状況を描きました。
臨床工学技士(CE)は、医療機器のスペシャリストでありながら、医療現場での物語ではあまり表舞台に出ない存在です。
でも彼らこそが、“命と機械のあいだ”で戦っているのではないか――そんな想いを込めて、これからの物語を描いていきます。