第9話
数日経った放課後。
夕暮れの気配が漂い始めた校舎の廊下は、一日の終わりの解放感と、どこか物憂げな静けさが混じり合っていた。
俺たち三人は、例の旧校舎での一件以来、奇妙な共闘関係を結んだ。
表向きは「怪異研究部」なんていう適当な名前をでっち上げて、学内に潜む「視る者」の残滓や、それに類する異常現象を追っていた。
今日の目的地は、女子更衣室。
運動部の女子生徒の間で、ここ数日、奇妙な噂が広まっていた。
『更衣室の鏡を見ると、自分じゃない自分が映っている』
『鏡に引きずり込まれそうになった』
典型的な学園怪談。
だが、今の俺たちにとっては、無視できない『視る者』の新たな尖兵、あるいは精神汚染の可能性を示す危険なサインだった。
「それで、本当に大丈夫なのデスか? 鏡の怪異なんて、ワタシたちの専門外デスよ? しかも、この……古臭い紙切れで戦えなんて……」
更衣室へ向かう途中、マリアが不安げに、しかし大声で文句を言ってくる。
彼女の手には、澪から渡された数枚の和紙のお札。
能力が入れ替わって以来、彼女はこの東洋の霊力に四苦八苦していた。
情熱と信仰で奇跡を起こす彼女のスタイルと、静謐さと精神統一を要する言霊結界は、水と油ほども性質が違うのだ。
「文句を言わないで。あなたこそ、私の力をまともに扱えていないのでしょう。感情に任せて暴走させるばかりで、精密な制御がまるでなっていない」
隣を歩く澪が、氷のように冷たい声で言い返す。
彼女もまた、マリアから譲り受けた(というより押し付けられた)聖なる力――聖刻印の扱いに手を焼いていた。
巫女としての厳格な修行は、感情を抑制し、型と理を重んじるもの。
それが今や、信仰心や、時には怒りや喜びといった「パッション」を力に変えろというのだから、戸惑うのも無理はない。
「なっ……! 失礼な! ワタシはちゃんと神に祈りを捧げてマス! ただ、この東洋の神秘パワーは、ちょっと……地味すぎるのデス!」
「地味で結構。力の真髄は、派手さではなく、その根源にある理と調和にある」
「ワタシの神はそんなケチくさいこと言いまセン!」
「八百万の神々を侮辱するか……!」
また始まった。
この二人は、顔を合わせればこうだ。
互いの文化や力を理解しようとしないわけではないのだろうが、根っこの部分での反発と、失った自分たちの力への苛立ちが、どうしてもトゲのある言葉になってしまうらしい。
「おいおい、喧嘩はその辺にしとけよ」
俺は溜息をつきながら割って入る。
「どっちの力が上とか、どっちが正しいとか、今はどうでもいいだろ。問題は、目の前の怪異にどう対処するかだ」
「…………それは、そうですが」
「……分かってマス」
二人は不満げに口を尖らせながらも、一応は矛を収めたようだ。
俺がこうして間に入らないと、いつまで経っても平行線なのだ。
それにしても……。
俺は内心、別の不安を感じていた。
最近、どうも物忘れが激しい気がする。
昨日の夕飯とか、朝読んだニュースの見出しとか、そういう些細なことが、ふとした瞬間に思い出せない。
気のせいだと思いたい。
だが、あの旧校舎での力の融合以来、確実に何かがおかしくなっている。
俺の記憶が、少しずつ削られているんじゃないかという、漠然とした恐怖。
しかしそれを二人に悟られるわけにはいかない。
心配をかけたくないし、何より、俺自身がこの事実を認めたくなかった。
女子更衣室の前に着くと、予想通り、異様な気配が漂っていた。
湿った空気と、消毒液のツンとした匂い、そして微かに、腐った水のような異臭が鼻をつく。
俺は廊下で待機し、澪とマリアが中へと入っていく。
「いい? ミオ。もしもの時は、ワタシの……じゃなくて、アナタの力、聖刻印で動きを封じるのデス!」
「言われなくとも。あなたこそ、私の……いや、そのお札で結界の一つも張れなければ、ただの役立たずだ」
扉が閉まる直前まで、そんなやり取りが聞こえてきた。やれやれだ。
俺は所在なく壁に寄りかかり、神経を研ぎ澄ませる。
中の様子は分からないが、俺の「目」は、更衣室内に渦巻く、濃密な「歪み」――憎悪や恐怖、自己嫌悪といった負の感情――を捉えている。
数分後。
バンッ! と激しい音を立てて内側から扉が開け放たれた。
飛び出してきたのはマリアだ。
「夕陽! ヘルプ! 大変デス! あの鏡、やっぱり!」
「何があった!? 被害者は!?」
「まだ大丈夫……! でも、ミラーが、あの子を中に引きずり込もうとして……!」
マリアが指差す更衣室の奥からは、すすり泣く声、カタカタと恐怖に震えるロッカーの金属音、そして……ズル……ズルリ……と、何か粘着質なものが床を擦るような、湿った不快な音が聞こえてくる。
「ミオ! アナタの力……いえ、ワタシの力、聖刻印で動きを封じて!」
マリアの切迫した声。
続けて、押し殺したような澪の声が聞こえる。
「……わかっている。だが、この力は……感情が……上手く乗らない……!」
中で何が起きている?
俺の「目」が捉える歪みは、さらに強くなっている。
「くっ……!」
短い苦悶の声。
澪のものだ。
力が上手く制御できていないのか?
「ダメ! ミオ、もっと……フィーリング! パッションが足りまセン! 祈りは心! ハートなのヨ! もっと熱く!」
マリアの叱咤が飛ぶ。
――ギィ……ィ…………キィィ…………。
金属が軋むような、神経を逆撫でする嫌な音。
それに重なるように、すすり泣きが恐怖の絶叫へと変わっていく。
「ひっ……! こないで……! やだ、あれ、私、なの……? 私じゃ、ない……! 助けて……!」
被害者の女子生徒の声。
鏡に映る自分自身に攻撃されているような、自己否定の恐怖。
「ミオ! 早くしないと、鏡の境界が破れて、完全にこっち側に出てきマス!」
マリアの声が焦りを帯びる。
――ズル……ズルリ…………。
何か、粘着質で重いものが、鏡の中から床へと這い出してくるような音。
そして、空気が一層冷たく、重くなった気がした。腐った水のような異臭が強まる。
鏡の中から「それ」は這い出してくる。
被害者の女子生徒とそっくりな姿形をしていながら、まるで水面に映った像のように輪郭が歪み、揺らめいている「何か」。
その目は虚ろで、口は耳まで裂けて歪んだ笑みを浮かべている。
鏡に映る自己イメージの歪み、他者からの視線への恐怖、そういった負の感情を喰らって実体化した怪異――鏡喰い。
「くっ、感情を……怒りを力に……? でも、それでは……巫女として、清らかさを失ってしまう……!」
再び、澪の押し殺したような、苦悶の声。
力が、発動しない。
感情の解放という、彼女が巫女として、神城家の人間として、最も不得手とし、そして恐れてきたこと。
それが今、絶対的な壁として彼女の前に立ちはだかっている。
まずい。このままじゃ、中の女子生徒も、そして澪もマリアも――。
俺は無意識のうちに、一歩、また一歩と、更衣室の扉へと足を踏み出していた。
媒介者として、俺が何かできることがあるかもしれない。
たとえ、それが更なる記憶の代償を払うことになったとしても――!
――ズルリ。
湿った音と共に、扉の隙間からぬらりとした腕が伸びてくる。
それは、『鏡喰い』の腕。
女子生徒のそれと同じ形をしているはずなのに、まるで粘土を歪に引き伸ばしたような、ありえない関節の角度で曲がっている。
指先が、廊下に立つ俺を目掛けて、ゆっくりと、しかし確実に迫る。
冷たい、淀んだ絶望の気配が頬を撫でた。
まずい、こっちに来るか!
咄嗟に身構えた、その時だった。
「危ない、夕陽!」
更衣室の中から、マリアの鋭い声が飛んだ。
ほぼ同時に、それまで押し殺されていたような声が、まるでダムが決壊したかのように、堰を切って弾けた。
「夕陽に…………触れないでッ!!」
澪の声だ。
だが、いつもの彼女からは想像もつかない、切迫した、魂からの叫び。
冷静さも、厳格さも、かなぐり捨てた、剥き出しの感情。
直後、更衣室の扉の隙間から、目の眩むような閃光が迸った。
金色に近い、神々しいまでの光。
それはマリアが本来使うはずの聖なる力の色。
だが、その輝きは、マリアのそれよりも遥かに激しく、荒々しく、そして何よりも――強い守護の意志を宿しているように見えた。