第2話
校門をくぐり、校舎に入る。
御影学園高校は、この地域では最も歴史のある私立高校だ。
明治時代に建てられたという赤煉瓦の本館は、風格があるが、どこか陰鬱な雰囲気を漂わせている。
その周りに、対照的に明るく近代的な新校舎が増築されている。
聞くところによると、この土地は昔、何か曰くつきの場所だったとか、古い祠があったとかいう噂もある。
校内に一歩足を踏み入れると、古びた木の匂いと、新しい建材の匂い、そして微かに線香のような香りが混じり合う、独特の空気感があった。
教室に入ると、すでに多くのクラスメイトが集まっていた。
窓から差し込む朝日が、教室を黄金色に染めている。
その光の中心にいたのが、中野未来だった。
艶やかな黒髪を風もないのに僅かになびかせ、彼女は教室の真ん中で周囲の生徒に囲まれていた。
細身の体型に伸びやかな手足、陶器のように整った顔立ち。
彼女の笑い声は鈴のように軽やかに教室中に響き渡る。
完璧な優等生。
クラスのアイドル。
「次のオムニサイエンスの体験会、誰が参加する? 私、先生から補助スタッフを頼まれてるから、使い方とか丁寧に教えるよ」
「私参加する! 中野さんみたいになれるなら絶対やりたい!」
「俺も! 成績上がるんなら部活との両立もできるかな」
クラスメイトたちが次々と彼女の周りに集まり、期待に満ちた表情で会話している。
彼女は満面の笑みで一人一人に丁寧に応えていた。
その笑顔は、一点の曇りもなく、完璧に見えた。
「みんな来てくれると嬉しいな。オムニサイエンスは本当に素晴らしいシステムだから。世界が、変わるよ」
彼女の声は優しく、柔らかく、そしてどこか陶酔したような響きがあった。
だが俺の目には、その完璧な笑顔の裏に、僅かだが確かな青い靄が見えた。
嘘……とまでは言い切れない。
彼女自身は本気でそう信じ込んでいるのかもしれない。
だが、何かを隠している。
あるいは、何かを見ないようにしている。
そんな、空虚な気配が漂っていた。
まるで、必死に何かを演じているような……。
そして何より気になったのは、彼女の服装だった。
御影学園の女子制服はセーラー服タイプだが、彼女は首元までボタンをきっちり留めた特注のハイネックブラウスを着用していた。
夏場でもそうだったし、今日も首を完全に隠すような服装をしている。
まるで、何かを見られたくないかのように。
「気のせいか……?」
俺は眉をひそめながら自分の席に着いた。
教室の隅、窓際の席。
他の生徒と違って、俺の周りには誰も寄ってこない。
それでいい。
傷つくことも、傷つけることもない。
俺はガラス窓に映る自分の冷めた目を見て、自嘲した。
窓の外に視線を移す。
運動場では体育の授業が始まっていた。
秋の風が校庭の木々を揺らし、体操服姿の生徒たちが元気に走り回っている。
日常の風景だ。
しかし、日常の中に何かが潜んでいる。
オムニサイエンスの評判と、それに伴う奇妙な噂。
中野未来の完璧すぎる変化。
そして、俺を苛む悪夢……何かがおかしい。
何かが静かに、だが確実に変わりつつある。
中野未来の笑い声が再び教室に響く。
振り返ると、彼女が一瞬だけこちらを見ていた気がした。
その瞳の奥に、一瞬、魂が吸い込まれそうな、深い青白い光が宿ったように見えたのは、気のせいだろうか。
彼女はすぐに友人との会話に戻り、俺の存在など気にもとめていない様子だった。
俺は再び窓の外に目をやった。
雲一つない青空の下で、日常が平穏に流れている。
だが、その穏やかさの中に、見えない亀裂が広がりつつあるのを、俺の「目」は確かに捉えていた。
◇
放課後の廊下に、斜めに差し込む陽光が影を長く伸ばしていた。
俺は空き教室に座り込み、スマホを取り出した。
クラスメイトたちは部活や塾、友達との遊びへとすでに出払い、校内は徐々に静けさを取り戻していく。
陽だまりの中で、俺のスマホの画面が明るく光った。
SNSアカウント「トゥルースハンター」のページだ。
フォロワー数は5万人を超えている。
「詐欺師を追い詰めろ」「今回も真実を暴いてくれてありがとう」—そんなコメントが次々と表示される。
このアカウントこそ、俺の別の顔。
表の「柊夕陽」とは異なる、嘘を許さない正義の告発者としての姿だ。
匿名のまま、嘘つきたちを暴き、真実を明らかにする。
嘘を見抜く目があるからこそできる活動だった。
人間関係では厄介なこの力も、こういう形なら世の中の役に立つ。
俺の存在意義を確かめられる数少ない瞬間だった。
最近追っていたのは、若者をターゲットにした投資詐欺師。
「少額から始める億万長者への道」なんて甘言で学生たちから金を巻き上げている男だ。
彼の言葉の矛盾点、実績の不整合、被害者の証言――それらを集めて投稿したところ、警察も動き出したらしい。
「これで一件落着か」
満足げに画面を眺めながらつぶやく。
だが、心のどこかで虚しさが残る。
ネットの向こうの喝采は、現実の孤独を埋めてはくれない。
俺は本当に、ただ嘘を暴きたいだけなのだろうか。
それとも……誰かに認められたい、必要とされたいという、歪んだ承認欲求を満たしているだけなのかもしれない。
スマホをしまおうとした時、廊下から聞こえてくる声に注意が向いた。
振り返ると、半開きのドアの向こうで人影が二つ。
一人は中野未来、もう一人は別のクラスの男子生徒のようだ。
「ね、ねえ、中野さん。例の『アレ』の件なんだけど……本当に大丈夫なのかな?」
男子生徒は明らかに緊張した様子で、声も少し震えている。
首筋に汗が浮かび、視線も定まらない。
彼の周りには、不安を示す薄い青い靄が漂っている。
「ああ、あの件ね。大丈夫よ、私に任せて。きっと思い通りにいくから心配しないで」
完璧な笑顔で答える未来。
彼女は穏やかでいながらも、どこか威厳のある態度で相手を安心させようとしている。
その自信に満ちた表情は、まるで彼女が全てを掌握しているかのようだった。
だが俺の目には、彼女の言葉の周りに漂う濃い青い靄がはっきりと見えた。
嘘だ。
彼女は明らかに何かを隠している。
言葉と実際の意図の間に、大きなズレがある。
そして、その靄には、以前には感じなかった奇妙なノイズのようなものが混じっている気がした。
「本当に? でも、あれってルール違反じゃないかって……それに、最近、時々記憶が飛ぶんだ。使った後のこととか……」
男子生徒はまだ不安げだ。
彼の眉間のしわが、疑念と恐怖を物語っている。
「それは、あなたの脳が新しい世界に適応しようとしている証拠よ。心配ないわ。あなたが私を信じてくれたことは間違いじゃない。私の言う通りにしてくれれば、全てが好転するから。もっと素晴らしい世界が見えるようになる」
未来の言葉には、何か不自然な説得力があった。
まるで催眠術のように、相手の不安をねじ伏せる力。
男子生徒は体の力が抜けたように肩を落とし、虚ろな表情で安堵のため息をつく。
彼の周りの靄が、一瞬濃くなったように見えた。
「ありがとう、中野さん。じゃあ明日も……」
「ええ、また明日。楽しみにしているわ」
未来は軽く頭を下げる男子生徒を見送った後、その場に一人残り、一変して無表情になった。
完璧だった微笑みが消え、唇が一直線に引き締まり、目の輝きが失せる。
まるで精巧な仮面を外したかのようだ。
彼女は首元のブラウスを僅かに緩め、何かを確認するように指先で触れていた。
その仕草に、どこか強迫的なものを感じる。
次の瞬間、彼女は鋭い目つきで周囲を見回した。
俺は反射的に物陰に身を隠した。
「誰かいるの……?」
廊下に響く彼女の声は、さっきまでの柔らかなものとは別物だった。
低く、冷たく、そして僅かに反響するような、無機質な声色。
俺の心臓が警鐘のように強く鼓動する。
やがて彼女は足音を立てて廊下を去っていった。
俺は数秒間、その場で呼吸を整えてから、そっと廊下に出た。
彼女の姿はもう見えない。
「やっぱり何か隠してる……」
俺は本能的に彼女を追うことにした。
人との関わりを避けてきた俺が、なぜ彼女にこれほどこだわるのか自分でも理解できない。
しかし、嘘を見抜く目を持つ俺だからこそ気づける何かがあるのかもしれない。
それに、あの悪夢の少女と未来の間に何か関連があるような気がしてならなかった。
◇
校門までの距離をある程度保ちながら、俺は彼女の後を追った。
下校時間で生徒たちが次々と校門を出ていく中、未来の姿はすぐに見つかった。
彼女の黒髪が夕日に照らされて赤みを帯びている。
しかし、彼女は通常の下校ルートではなく、学校の裏手へと向かっていた。
御影学園の敷地は広く、本館と新校舎に加え、使われなくなった旧校舎が裏手にある。
古びた三階建ての木造校舎で、今は倉庫代わりになっているはずだ。
だが、昔は何か曰くつきの実験が行われていたとか、生徒が神隠しにあったとか、不穏な噂が絶えない場所だった。
最近じゃ、『旧校舎の壁に無数の目が現れる』なんて都市伝説まで囁かれている。
未来はその旧校舎へと真っ直ぐに歩いていた。
周囲に人気はなく、校庭からの賑やかな声も、この場所まではほとんど届かない。
夕暮れの影が、彼女の足元で長く伸びている。
「なぜあんな場所に……?」
俺は木立の影に隠れながら、彼女の行動を見守った。
未来は旧校舎の入り口に立ち、左右を警戒するように見回した後、ポケットから何かを取り出した。
鍵だ。
彼女は手慣れた様子で扉を開け、音もなく中に入っていった。
普通の生徒が持っているはずのない鍵。
旧校舎への単独の訪問。
首元を隠す不自然な服装。
そして何より、彼女の言葉に纏わりつく、ノイズ混じりの青い靄。
すべてが異常さを指し示していた。
俺は旧校舎と自分の間の距離を見つめながら、どうするべきか迷った。
このまま帰るべきか、それとも彼女を追いかけるべきか。
関わるべきではない。
これ以上深入りすれば、俺の平穏な日常は壊れてしまうかもしれない。
だが――。
夕日に照らされた旧校舎の窓ガラスが、一瞬、ギラリと光った気がした。
風もないのに、二階の窓のカーテンが揺れたように見える。
そして、俺の目を疑うような光景が広がった。
最上階の窓から、いくつもの、青白い光が漏れ出し始めたのだ。
それはまるで、無数の瞳が、一斉にこちらを見ているかのようだった。
その光は、俺の悪夢の中で見た光と同じ色をしていた。
魂を吸い込むような、冷たい輝き。
俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
もう、引き返すことはできない。
これは放っておけない。
俺が、確かめなければ。